第99話 ロバータとの約束
文字数 3,253文字
夏の空に星々がぼんやりと瞬いている。
地面に轍がいびつな軌道を描き、客二人を乗せた馬車が進む。漆黒の車には、鎖を連想させる赤い装飾が施されていた。まるで身分の高い人間を乗せているものかと見まごうほど重いそれは、夜の闇に紛れて静かに進んでいく。
その戊夜車を引くのは、戊夜鹿 と呼ばれる黒い毛皮のトナカイ三頭と、その手綱を握る御者の月夜鬼だ。戊夜鹿の首に括り付けられた明かりが前方をぼんやりと照らす。月夜鬼の御者に本来そんな明かりは必要ないが、ここはヴィリディアン。人間が多く住むここでは必要な仕掛けだ。薄茶色の地面や、青々とした雑草の色をはっきりと映し出す。
規則的な音を立て、車輪が回る。車体は安定しているが、車輪が小石を踏むとガタンと不安定に揺れた。
客の一人であるテオフィールは、車体の中からそっと小窓を開いた。車輪付近につけられた明かりに思わず目を細める。やがて瞬きを何度か繰り返し、外の明るさに目を慣らした。前方にはトナカイの角が、その先に見えるのは木々の影。周囲に建物の気配はなく、平坦な道がただただ広がっていた。トナカイたちを操る御者は手綱を握り、前方や周囲に気を配っている。
とても話しかけられる雰囲気ではないなと、テオフィールは小窓をそっと閉じた。
明かりが消えると、車内には居心地のいい暗闇が広がった。壁の凹凸や椅子の背もたれに床。そこに投げ出された靴の形ですら、彼の目にははっきり映った。
向かい合わせに座っていたメルリアは、今は鞄を枕に横になっていた。規則正しい周期で胴体が膨らみ、しぼんでいく。深く眠っているのだろう、その顔は穏やかだ。
テオフィールはそれを見つめながら、ふっと笑みを零した。そうして、曾孫の姿にかつての自分を重ね合わせた。
メルリアが十歳の誕生日を迎え、十日経った夜のこと。テオフィールはおもむろに切り出した。
「メルリアももうずいぶん大きくなったね。……オレもそろそろ帰らなくちゃ」
それを告げられた娘のロバータはゆっくりうなずく。分かってはいたが現状を受け入れがたい。そんな様子であることを、父は分かっていた。しかし、あえてそれには触れなかった。
五年前、テオフィールがベラミントに立ち寄ったのはほんの偶然である。たまたま屋敷の仕事で近くに寄ったから、ついでに足を運んでみただけ――そんな些細な理由だった。この村は、妻であるレイナと、そして娘のロバータと過ごした大切な場所だ。月夜鬼という生涯の中の、ほんのわずかな時間であっても、ここで過ごした時間は忘れられないだろう。興味本位で村の入り口へ、そのままリンゴの果樹園を抜けた頃、彼は見つけてしまった。道端で立ち尽くす、ずいぶん年を取った娘の姿を。慌てて駆け寄ると、やつれた顔のロバータはこちらに気づき、泣きついてきた。
助けて欲しい、と。
久しぶりの実家に戻ったテオフィールは、そこでロバータから現状を聞いた。彼女の娘クレア――テオフィールから見た孫――が、夫ガルドと共にネラへ帰省中、魔獣被害に遭って命を落とした。孫であるメルリアだけ遺された。ロバータ自身も夫を早くから病気で亡くしており、孫の身よりは自分しかいない、と。
現実を突きつけられたテオフィールは、その場から動けなくなった。
彼がこの村を発ったのは、妻レイナを看取った直後だ。だから何も知らなかった。自分の娘に子供がいたことも、娘に孫ができたことも。その上、現状は厳しい。目の前には、ひどくやつれた娘の姿。その上、まだ幼い子どももいるという。
手伝うよ――それ以外の言葉は出てこなかった。
五年間だけ二人と一緒に暮らす――そうロバータと約束して、テオフィールは再びベラミントの村で暮らすことになった。
その際、大事な約束をもう一つ交わした。テオフィールの扱いについてだ。
月夜鬼は見た目が変わらない。父であろうと、祖父であろうと、曾祖父であろうと、姿だけでは年齢は推し量れない。理論上は寿命がないからだ。だが人間は違う。年を取り、老い、寿命が来れば命果てる。半夜とはいえ、メルリアは月夜鬼の血が弱い。人間として生きていく曾孫にとって、自分のような例外は不要だ。それに、吸血鬼との接触は避けたい。だから、ロバータの親戚ということにして押し通すことにした。無論ロバータから反対はあったが、それだけは頑なに譲らなかった。
テオフィールはベラミントで仕事に就きながら、娘と曾孫と五年間を過ごした。
三人の誰もが、この五年間はあっという間に過ぎ去ったと感じた。
――八年前のある日。別れの日が訪れた。
まだ夜の早い時間だ。夏に向かっているだけあって、空は明るい。
ロバータは村の出口――街道までテオフィールを見送り、何度もありがとうと口にした。ここで別れたら、もう二度と会えないと知っていたからだ。
本当にありがとうと涙ながらに伝えるロバータの傍で、鳥の羽音が響いた。やがて、一輪の花がその手に舞い落ちる。月の光を閉じ込めたようなそれは、夜風に揺れて薄ぼんやりと輝いていた。
空を舞う乙夜鴉に一礼した後、テオフィールは娘に向き直る。
「この花、咲くのがすごく難しくてさ……。周りの自然が壊れると、二度と咲かないなんて言われてるんだ。今はこれを守って、育ててる。これが今のオレの仕事だよ」
ロバータは月満草の花弁にそっと触れた。包み込むように指を折り、胸の近くへ抱き寄せる。かみしめるように目を閉じると、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。小さな嗚咽を漏らしながら、やがて顔を上げる。穏やかに、そっと笑った。
「そんな仕事を選ぶなんて、本当にお父さんらしい。安心したわ。……どうか頑張って」
目に溜まった涙を拭って笑うその顔は、彼が最後に見た娘の姿だった。
全てはテオフィールが蒔いた種だった。
五年前、娘に手渡した月満草が事の始まりだった。ロバータはメルリアに月満草を見せ、二人は約束を交わした。
この花が咲いている場所を探しに行こう、と。
それはメルリアひとりに受け継がれ、間もなく果たされようとしている。
ゴロゴロと重く鈍い音を立て、車輪が回る。
静かに揺れる戊夜車の中、テオフィールはゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。ギィ、とわずかに不安定な音を立てて、背もたれが体を受け止める。大きな音を立てぬよう細心の注意を払いながら、息を紡ぐように、細く長い息を吐き出した。そのまま右腕で目を覆い、それを繰り返す。
テオフィールは生まれてこの方、墓参りを行ったことがなかった。月夜鬼には、葬式も墓を建てる習わしもない。今後一生、そのようなものとは関わらないであろうと思っていた。娘の傍にずっといてあげられなかった負い目もあった。嫌われているだろうとずっと思い込んでいた。それに、墓標を見てしまったら、娘はもうこの世にいないという現実を突きつけられる。だから、避けてきた。
だが今は曾孫に勧められ、娘の墓参りへ向かう道をたどっている。彼の目を覚ましたのは、その曾孫の一言だった。
――ひいおじい様は、テオフィールさんは、おばあちゃんのお父さんです。嬉しくないわけ、ないです。
震えた声で言葉を伝える曾孫を見て、はっとした。ロバータは優しい子だった。自分と妻の最愛の娘だった。墓参りに顔を見せた彼を嘲るような、度量の狭い人間ではない。
右腕も座席のクッションへと投げ出すと、天井をぼんやりと見つめた。昨晩のことをその黒色と重ね合わせ、なんて情けないんだと自嘲の笑みを浮かべる。実の父より、孫娘の方がロバータをよく知っているじゃないか、と。
それに、習わしでも身内の死と向き合う人間は、とても強い存在だ。月夜鬼である自分なんかよりもずっと。ずっと、現実を見ていた。
視線だけを動かし、うとうとと眠るメルリアを視界に映した。臆病な自分の背中を優しく押してくれた存在だ。その寝顔を愛おしげに見つめ、暗闇の中、静かに目を閉じる。
口の中で最愛の娘の名を、そして妻の名をつぶやいた。
地面に轍がいびつな軌道を描き、客二人を乗せた馬車が進む。漆黒の車には、鎖を連想させる赤い装飾が施されていた。まるで身分の高い人間を乗せているものかと見まごうほど重いそれは、夜の闇に紛れて静かに進んでいく。
その戊夜車を引くのは、
規則的な音を立て、車輪が回る。車体は安定しているが、車輪が小石を踏むとガタンと不安定に揺れた。
客の一人であるテオフィールは、車体の中からそっと小窓を開いた。車輪付近につけられた明かりに思わず目を細める。やがて瞬きを何度か繰り返し、外の明るさに目を慣らした。前方にはトナカイの角が、その先に見えるのは木々の影。周囲に建物の気配はなく、平坦な道がただただ広がっていた。トナカイたちを操る御者は手綱を握り、前方や周囲に気を配っている。
とても話しかけられる雰囲気ではないなと、テオフィールは小窓をそっと閉じた。
明かりが消えると、車内には居心地のいい暗闇が広がった。壁の凹凸や椅子の背もたれに床。そこに投げ出された靴の形ですら、彼の目にははっきり映った。
向かい合わせに座っていたメルリアは、今は鞄を枕に横になっていた。規則正しい周期で胴体が膨らみ、しぼんでいく。深く眠っているのだろう、その顔は穏やかだ。
テオフィールはそれを見つめながら、ふっと笑みを零した。そうして、曾孫の姿にかつての自分を重ね合わせた。
メルリアが十歳の誕生日を迎え、十日経った夜のこと。テオフィールはおもむろに切り出した。
「メルリアももうずいぶん大きくなったね。……オレもそろそろ帰らなくちゃ」
それを告げられた娘のロバータはゆっくりうなずく。分かってはいたが現状を受け入れがたい。そんな様子であることを、父は分かっていた。しかし、あえてそれには触れなかった。
五年前、テオフィールがベラミントに立ち寄ったのはほんの偶然である。たまたま屋敷の仕事で近くに寄ったから、ついでに足を運んでみただけ――そんな些細な理由だった。この村は、妻であるレイナと、そして娘のロバータと過ごした大切な場所だ。月夜鬼という生涯の中の、ほんのわずかな時間であっても、ここで過ごした時間は忘れられないだろう。興味本位で村の入り口へ、そのままリンゴの果樹園を抜けた頃、彼は見つけてしまった。道端で立ち尽くす、ずいぶん年を取った娘の姿を。慌てて駆け寄ると、やつれた顔のロバータはこちらに気づき、泣きついてきた。
助けて欲しい、と。
久しぶりの実家に戻ったテオフィールは、そこでロバータから現状を聞いた。彼女の娘クレア――テオフィールから見た孫――が、夫ガルドと共にネラへ帰省中、魔獣被害に遭って命を落とした。孫であるメルリアだけ遺された。ロバータ自身も夫を早くから病気で亡くしており、孫の身よりは自分しかいない、と。
現実を突きつけられたテオフィールは、その場から動けなくなった。
彼がこの村を発ったのは、妻レイナを看取った直後だ。だから何も知らなかった。自分の娘に子供がいたことも、娘に孫ができたことも。その上、現状は厳しい。目の前には、ひどくやつれた娘の姿。その上、まだ幼い子どももいるという。
手伝うよ――それ以外の言葉は出てこなかった。
五年間だけ二人と一緒に暮らす――そうロバータと約束して、テオフィールは再びベラミントの村で暮らすことになった。
その際、大事な約束をもう一つ交わした。テオフィールの扱いについてだ。
月夜鬼は見た目が変わらない。父であろうと、祖父であろうと、曾祖父であろうと、姿だけでは年齢は推し量れない。理論上は寿命がないからだ。だが人間は違う。年を取り、老い、寿命が来れば命果てる。半夜とはいえ、メルリアは月夜鬼の血が弱い。人間として生きていく曾孫にとって、自分のような例外は不要だ。それに、吸血鬼との接触は避けたい。だから、ロバータの親戚ということにして押し通すことにした。無論ロバータから反対はあったが、それだけは頑なに譲らなかった。
テオフィールはベラミントで仕事に就きながら、娘と曾孫と五年間を過ごした。
三人の誰もが、この五年間はあっという間に過ぎ去ったと感じた。
――八年前のある日。別れの日が訪れた。
まだ夜の早い時間だ。夏に向かっているだけあって、空は明るい。
ロバータは村の出口――街道までテオフィールを見送り、何度もありがとうと口にした。ここで別れたら、もう二度と会えないと知っていたからだ。
本当にありがとうと涙ながらに伝えるロバータの傍で、鳥の羽音が響いた。やがて、一輪の花がその手に舞い落ちる。月の光を閉じ込めたようなそれは、夜風に揺れて薄ぼんやりと輝いていた。
空を舞う乙夜鴉に一礼した後、テオフィールは娘に向き直る。
「この花、咲くのがすごく難しくてさ……。周りの自然が壊れると、二度と咲かないなんて言われてるんだ。今はこれを守って、育ててる。これが今のオレの仕事だよ」
ロバータは月満草の花弁にそっと触れた。包み込むように指を折り、胸の近くへ抱き寄せる。かみしめるように目を閉じると、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。小さな嗚咽を漏らしながら、やがて顔を上げる。穏やかに、そっと笑った。
「そんな仕事を選ぶなんて、本当にお父さんらしい。安心したわ。……どうか頑張って」
目に溜まった涙を拭って笑うその顔は、彼が最後に見た娘の姿だった。
全てはテオフィールが蒔いた種だった。
五年前、娘に手渡した月満草が事の始まりだった。ロバータはメルリアに月満草を見せ、二人は約束を交わした。
この花が咲いている場所を探しに行こう、と。
それはメルリアひとりに受け継がれ、間もなく果たされようとしている。
ゴロゴロと重く鈍い音を立て、車輪が回る。
静かに揺れる戊夜車の中、テオフィールはゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。ギィ、とわずかに不安定な音を立てて、背もたれが体を受け止める。大きな音を立てぬよう細心の注意を払いながら、息を紡ぐように、細く長い息を吐き出した。そのまま右腕で目を覆い、それを繰り返す。
テオフィールは生まれてこの方、墓参りを行ったことがなかった。月夜鬼には、葬式も墓を建てる習わしもない。今後一生、そのようなものとは関わらないであろうと思っていた。娘の傍にずっといてあげられなかった負い目もあった。嫌われているだろうとずっと思い込んでいた。それに、墓標を見てしまったら、娘はもうこの世にいないという現実を突きつけられる。だから、避けてきた。
だが今は曾孫に勧められ、娘の墓参りへ向かう道をたどっている。彼の目を覚ましたのは、その曾孫の一言だった。
――ひいおじい様は、テオフィールさんは、おばあちゃんのお父さんです。嬉しくないわけ、ないです。
震えた声で言葉を伝える曾孫を見て、はっとした。ロバータは優しい子だった。自分と妻の最愛の娘だった。墓参りに顔を見せた彼を嘲るような、度量の狭い人間ではない。
右腕も座席のクッションへと投げ出すと、天井をぼんやりと見つめた。昨晩のことをその黒色と重ね合わせ、なんて情けないんだと自嘲の笑みを浮かべる。実の父より、孫娘の方がロバータをよく知っているじゃないか、と。
それに、習わしでも身内の死と向き合う人間は、とても強い存在だ。月夜鬼である自分なんかよりもずっと。ずっと、現実を見ていた。
視線だけを動かし、うとうとと眠るメルリアを視界に映した。臆病な自分の背中を優しく押してくれた存在だ。その寝顔を愛おしげに見つめ、暗闇の中、静かに目を閉じる。
口の中で最愛の娘の名を、そして妻の名をつぶやいた。