第25話 陰雨に愁う2

文字数 5,785文字

 メルリアが扉を閉めると、一匹の黒猫が店の奥から姿を現した。
 しなやかな体を揺らして歩くたび、首輪の鈴が静かに音を立てる。黒猫は女の足下に近づくと、顔を上げて「ニャア」と鳴く。女がしゃがむと、黒猫は迷いなく女に近寄った。女が喉元を撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「猫、お好きなんですか?」
「犬よりは好き。……黒猫はよく姉と一緒にいたから」
 女は曖昧に返す。その言葉の意味が分からず、首をかしげたが、深くは追求しなかった。家族の話題については、ことさら慎重になっていたからだ。メルリアがあまり自分の事を聞かれたくないように。
 女が猫に構っている姿を遠目で見ていると、店の奥から中年の男が顔を出す。
「いらっしゃい」
 店主は柔らかく微笑すると、メルリアは慌てて頭を下げた。続けて女に視線を移すと、店主は驚きの表情を浮かべる。
「珍しいですね。アステル自らお客様に向かっていくとは」
 女に構われていた黒猫は、その言葉に女から離れる。店の脇に置かれた椅子を足場にして、柔軟な体を伸ばすと、空っぽの棚へ移動した。そこで丸くなると、もう一度女を見て鳴いた。女は黒猫に微笑みかけ、店主に向き直る。
「飲み物だけでも頼めるかしら」
「構いませんよ。お好きな席へどうぞ」
 店主は静かに笑った。
 女は、カウンターに近い二人がけのテーブル席を選ぶ。入り口からも、店の窓からも最も遠い場所だ。二人は向かい合って座る。メルリアがメニューを女に向けると、女は手でそれを制した。
「私はもう決まっているから、あなたが見て」
「は、はい」
 メルリアは言われたとおり、メニューを元に戻す。まるで常連のような態度に疑問を抱いた。しかし、店主の驚きようや、先ほどの女の様子から、それはないだろうと判断する。
 ……そういえば。メルリアは少し前のことを思い出した。シーバのみさきの家で働いていた時のことだ。灯台祭の三日目に若いカップルの男女が入店した際、女が男に「あんたはどうしてどの店でも同じメニューを頼むのか」と呆れていた。男側に強いこだわりがあったように、この人にもあるのかもしれない――メルリアは納得すると、目にとまった紅茶を頼むことにした。

 注文を済ませると、喫茶店がしんと静まりかえる。
 橙色の優しい灯りの店内に、静かな音が響く。窓を濡らす雨の音、陶器が擦れる高い音、茶葉が擦れる静かな音、小鍋に液体を注ぐ水の音――自然の音、環境の音。それらは心地のいい無音だった。女にとっては。
 メルリアは女の顔をちらちらと伺いながら、どう声をかけようか迷っていた。女と話したいことがたくさんある。聞きたいこともたくさんある。けれど、何から話せばいいか分からない。そもそも、今声をかけていいのかどうか……。窓の外を見つめる女の姿は、とても暇をしているようには見えなかった。雨に濡れる窓そのものに興味があるようにも見えたし、何か物思いにふけっているようにも見えた。メルリアは口を固く結びながら、どうするべきか考える。すると、女は突然メルリアと視線を合わせる。
「……どうかした?」
 その言葉に、メルリアははっと顔を上げた。
「あ、あの、お久しぶり、です」
「久しぶり……? ついこの間会ったばかりじゃないかしら。あの後、満月の夜はまだ一度しか来ていないのよ」
 女の言葉にメルリアははっとする。思えば、自分がベラミントの村を出てからまだ一月と少ししか経っていなかった。しかしその間、メルリアは人生で初めてのことばかりを経験した。一人きりで街の外へ出かけるのもそうだし、街道で迷ったことも、知らない街へ行ったのも、教会に直接お祈りへ行ったことも、成り行きで繁忙期の店を手伝ったのも、大きな祭りを見たのも、仕事とはいえ外国の人間とあそこまで会話をしたのも、図書館を見たのも――。メルリアにとって、ベラミントの村から旅立ったのは何ヶ月も前のように感じていた。自分の中の時間が早いような、周囲の時間が遅いような、なんとも不思議な感覚を抱いていた。
 それを伝えようとした時、メルリアはぱっと目を輝かせる。
「私のこと、覚えていてくれたんですか?」
「あなたみたいな子、忘れる方が難しいわ。綺麗な満月も見られたことだしね」
 女がふっと笑みを浮かべる。その様子を見て、メルリアはほっとした。今日、女が笑った顔をあまり見ていなかったからだ。喫茶店に入った際、アステルという黒猫に微笑みかけた時だけ。だから、今の笑顔が嬉しい――感情が顔にそのまま出る。女は怪訝そうにメルリアを見た。
「何か、おかしかった?」
「笑ってくれたのが嬉しかったんです。えっと、あなたが……」
 女は、照れくさいような困ったような表情を浮かべる。やがて言葉が詰まったメルリアを見て、静かに言った。
「エルヴィーラ。エルヴィーラ・アーレンス。私の名前」
 メルリアは誰が見ても分かりやすく体をこわばらせて驚くと、目を輝かせた。その言葉に何度もうなずき、彼女の名前を三度口にする。この辺りでは聞かない名前の響きだった。メルリアはやがて満足したように顔を上げる。
「エルヴィーラ、さん。とっても綺麗なお名前ですね」
 エルヴィーラはその言葉に微笑んだが、何かを思い出し眉をひそめた。不機嫌そうなエルヴィーラの表情に、メルリアの顔が曇っていく。そんな感情の変化に真っ先に気がついたエルヴィーラは、首を横に振ってそれを否定した。
「なんでもないわ。あなたの名前は?」
「メルリア・ベルっていいます」
 自分の名前に少し似た言葉の響き。エルヴィーラはメルリアの名前の音を聞き、静かに頷いた。
「メルリアね。メルって呼んでもいい?」
「……!」
 メルリアはエルヴィーラの言葉に、繰り返しうなずいて肯定の意を示す。隣で歩いていたならば、彼女の手を取って強く握りしめているところだっただろう。
 メルリアはそう呼んでもらえる事が好きだった。最後にその言葉を聞いたのは三年前。祖母が弱々しい手でメルリアの頭を撫でながらのことだった。懐かしさと切なさと嬉しさで、胸の奥がじんと痺れる。胸の前にある手をぎゅっと握った。
「珍しい名字ね。ご両親は外国の人?」
「父がそうでした。そういえば、祖母の父もヴィリディアンの人じゃないって聞いたような」
 無意識にメルリアは両親の話題を避ける。そんな中、ふとロバータの父の姿を思い出した。どこの記憶だろう――頭を絞ると、家のリビングに飾ってあった絵画が脳裏に浮かんだ。ベラミントの村、リンゴの果樹園と一軒家を背景に、そこで生活する家族三人を描いたものだ。柔らかい質感で描かれた絵画がメルリアは大好きだった。ロバータから、「この絵は私と私の両親を描いてもらったの」と聞いてから、ますます好きになった。
 懐かしいな――メルリアはあの絵を思い浮かべながら、エルヴィーラの問いに答える。
「祖母の旧姓……確かゼーベックっていったと思うんですけれど」
「東南の国の名前ね。私と一緒」
 そう答えたエルヴィーラはしばらく黙り込む。メルリアの不安げな顔にすぐに気づくと、彼女はかぶりを振った。
「それにしても、あなたには色々な国の血が流れているのね。不思議な感じがしたのはそのせいかしら」
「自分ではよく分からないですけれど……。顔立ち、外国の人っぽいですか?」
「そういうことじゃなくて――」
 エルヴィーラが口を開くが、近づく足音に口を閉ざす。店主がお待たせしましたと二人に声をかけた。ホットミルクのマグカップをエルヴィーラの前に、ダージリンのティーカップをメルリアの前に置く。
 エルヴィーラの黒いマグカップには、白色で猫の肉球が描かれていた。メルリアのティーカップには、エメラルドグリーンのラインの下に、猫の足跡がデザインされている。
 エルヴィーラはマグカップに手を伸ばし、左手で熱を測るようにそっと触れた。その中を凝視した後、静かに口をつける。
 それを確認した後、メルリアも紅茶を口に含んだ。ほんの少し、ゆっくりと。飲むにはまだ熱すぎるが、紅茶の香りは十分に味わえる。コトン、と静かに音を立て、メルリアはティーカップをティーソーサーの上に置いた。
「捜し物は見つかった?」
「覚えていてくれたんですね」
 覚えていてくれて嬉しいという気持ちと、芳しくない現状。本当は素直に喜びたいはずなのに、口から出た声は明るいものではなかった。メルリアはゆっくりと首を横に振る。
「図書館でもあんまり手がかりは見つけられなくって……。ここ最近、朝から晩まで探してたんですけど、本の量も多くって」
「そんなに長い時間、よく読めるわね」
 記憶に引っかかる人物にエルヴィーラは苦い表情を浮かべる。やれやれと短いため息をつくと、マグカップの縁を撫でて静かに微笑みかけた。
「あまり根を詰めすぎてはいけないわ」
「そういうつもりはないんですけれど……」
 困ったように笑うメルリアの言葉を、ううんと首を振って否定する。
 窓を叩く雨の音がより一層強く変わった。太陽の沈んだ街に、街灯がぼんやりと道を照らす。風が出始め、時折窓自体をガタガタと揺らし始める。今晩もまたひどい嵐になるだろう。
 メルリアは驚いた表情で、エルヴィーラは憂鬱そうな表情で音を立てた窓を見つめる。
「雨、ひどくなってきましたね。エルヴィーラさん、帰り大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。帰らないつもりだから」
 そうですか、とメルリアは会話を流しそうになった。が、言葉の真意に気づいて、慌ててエルヴィーラを見つめた。窓の方を見ていたエルヴィーラはメルリアに視線を合わせ、悪戯っぽい笑みを向ける。慌てるメルリアの様子を楽しんでいるように、くすりと笑った。
「あの、多分誰か心配してると思います……」
「困ればいいと思う」
 スパッと言い放った言葉に、メルリアはさらに慌ててしまう。ほんの少し怒りの混じった声だったが、主体はそこではない。エルヴィーラは何かに怒っていたが、冷静さを欠いてはいなかった。
「気にしないで。少し、うまくいかなかっただけだから」
 エルヴィーラは青い顔のメルリアを見て、静かに言い直す。その程度の余裕は十分あった。
 その言葉にメルリアはほっと胸をなで下ろした。
「でも帰らないけれど」
 そう付け足すと、安心しきっていたメルリアの顔から血の気が引いていく。そんな様子を見て、エルヴィーラはくすくすと笑った。
「やっぱりメルは面白いわね。ううん、『面白い』よりも『可愛い』かしら」
 本気とも冗談ともとれないような口調で、エルヴィーラは微笑すると、メルリアの青ざめた表情から血の気が戻り、頬がぽっと赤くなった。そんな様子を見て、またエルヴィーラはくすくすと笑う。やがて彼女が目にたまった涙を拭った後、すっかり冷めてしまったミルクの白濁色を見つめた。
「長く一緒にいると、たまに分からなくなる事があるのよ。相手が私をどう思っているのか。伝えてくれた言葉は覚えているけれど、時間が経てば感情は変化するかもしれない。すれ違いが続くと不安になる」
 エルヴィーラはまだ熱の残るマグカップを指でなぞり、指先から感じるわずかな余韻に目を伏せる。
 その姿をまっすぐに見つめながら、メルリアは唇を固く結んだ。自分のことのように心を痛めながら、膝の上に置いた手を握りしめる。広場で感じた印象は間違っていなかった。エルヴィーラは本当に沈み込んでいたのだ。
「変な事を言ってごめんなさい」
 エルヴィーラは愁いを帯びた表情で笑う。
 メルリアは口を閉ざす。何も言えなかった。
 どんな言葉をかけても、中途半端な同情になるだろう。安易な言葉では彼女を傷つけてしまう。エルヴィーラが今、自分から見えている以上の感情を持っているのだとしたら――。言葉を間違えたくはない。けれど、正解が分からない。メルリアの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
「あなたが泣きそうな顔をしないで」
 エルヴィーラはおもむろに立ち上がると、メルリアの傍らでしゃがむ。未だ不安そうな表情でこちらを見るメルリアへ、静かに微笑んだ。
「……けれど、ありがとう」
 膝にあったメルリアの左手をゆっくりと取ると、両手で包み込むように握りしめた。その手はやはりメルリアにとっては冷たいものであったが、今日はこの間よりも温かく感じた。メルリアは黙って何度か頷いた後、手を握られたまま口を開く。
「うまく言えないんですけれど、エルヴィーラさんは綺麗で、笑っている顔が素敵で、だから笑っていて欲しくて……えぇと……」
「嬉しいことを言ってくれるのね」
 今度こそエルヴィーラは微笑むと、窓の外に視線を向ける。一つ息を吐いた後、メルリアから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「叶うことなら、あなたの捜し物の手助けをしたいけれど……。きっともう時間ね」
 どういう意味だろうか。メルリアがその疑問を口にする前に、店の扉が音を立てて開いた。特等席に座っていたアステルが器用に床へ降り立ち、来客を告げるように店主にニャァと一つ鳴く。
「いらっしゃ――あらあら」
「ひゃっ!?」
 店主は困ったような表情を浮かべ、メルリアは驚きで小さな悲鳴を上げた。
 その理由は、店の戸を開いた男の姿のせいだ。男は細身であるが、二メートル近くある高身長であった。メルリアの隣に立たせれば、メルリアがまだ年端の行かぬ少女のように映るほど。その差、実に四十センチ近く。また、エルヴィーラと同じように夜闇に溶け込むような黒い服を身に纏っており、それらが雨水のせいで体にべったりとまとわりついている。髪も同様に張り付いているため、表情が分かりづらい。エルヴィーラと同じ白色の手袋からは、肌の色が透けて見えていた。指先からポタポタと雨粒が落ちていく。
 そんな中、普段と変わらずにいるのはアステルとエルヴィーラだった。アステルは濡れているにもかかわらず、尻尾をピンと立て、男の足に体をこすりつけているし、エルヴィーラは男の姿を驚きもせずに見つめていた。
「突然すみません、この近くで――」
「あちらのお嬢さんですか」
 店主は長身の男の言葉を遮り、店の奥を指し示す。男がエルヴィーラを見つけると、彼は安心しきった様子で、深いため息をついた。雨風にさらされた顔はひどく青白かったが、張り付いた髪から窺える瞳は温かかった。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

┗こちらのアイコンは公式素材のみを使用しています。

メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・ローウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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