第95話 約束のこと2

文字数 5,075文字

 遠ざかる足音を耳にしながら、メルリアは冷たい紅茶に口をつけた。一口にも満たない量を含むと、舌先からじわりじわりと苦みが押し寄せる。小さく喉を鳴らし、ティーカップの中を浅く満たす茶色に視線を落とした。豪華な装飾灯の光がカップの中で反射する。眩しいほど輝ける装飾灯であるが、ティーカップの中に注がれる光はごくわずかだ。それは、この部屋が装飾灯の明かりを頼らないせいだ。
 会話が途切れ、屋敷の一角に再び静寂が訪れた。室内には人が四人いるとは思えないほど、ここには音が足りない。場を変えるには勇気がいる時であるが、何かを切り出すにはこれほど絶好の機会はない。
 クライヴは息をのむと、背筋を伸ばして膝に手を置いた。ティーカップを手に、固まったままのメルリアへ声をかける。
「……メル。シャムロックから聞いたけど……、発作のことで随分心配かけたみたいだな。すまなかった」
 その言葉を聞いた途端、メルリアの背筋がピンと伸びる。ティーカップを早々にソーサーに置くと、クライヴの表情を窺った。気まずいように眉尻の下がっていた彼だったが、突然の事に驚き、妙な声が喉の奥から飛び出しそうになった。口を固く閉ざし、喉を一度鳴らすことでやり過ごす。
「ううん、謝らないで。体のこと、大丈夫だった?」
 己に向いていた不安の感情が、今度はクライヴに真っ直ぐ向かう。不安に思わず身を乗り出した。
 二人の距離が急に縮まる。クライヴは彼女と距離を取るべく、左手をソファの上に置いた。体重をかけようとした途端、手のひらの重心が不安定にぶれる。クッションが柔らかすぎるせいだ。このままではソファに転倒しかねないと背筋を正し、距離を置くことを諦めた。
「……ああ。全部聞いた。俺には月夜鬼の血が流れてるから、そのせいだって」
 その言葉に、メルリアはほっと胸をなで下ろす。ウェンディから予め聞いていたことであったが、やはり本人から言葉を聞くと安心した。
 クライヴは、謝ってばかりだなと己の行動を振り返って苦笑する。そして、自分の左手をじっと見つめた。手の線、皺の数、肌色の奥にうっすら見える血管の色。手のひらを固く握りしめることわずか。ゆっくり力を抜くと、筋肉が弛緩した感覚に混じり、血の巡りを錯覚した。
「ミスルトーで発作が起きた時……、『これ』のせいで、ずいぶん怖い思いをさせただろ」
 これ、とクライヴは人差し指を目尻に当てた。その指先に誘導され、メルリアは彼の目を見つめる。その色が心の内と共に揺れた。いつもと何一つ変わらぬ金の瞳だ――あの時、ミスルトーで見た赤ではない。目を伏せるクライヴを見かね、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「少しびっくりしたけれど、大丈夫」
 安堵させるようにそっと笑ってみせる。怖くなかったと言えば嘘になるが、それよりも驚きや不安の方が勝ったのは事実だ。
 クライヴの表情は、すまないと謝っているように見えた。謝りたいのは、謝らなければならないのは自分の方だというのに――手のひらをきつく握りしめる。服の袖を巻き込んでしまったが構わない。
 改めて、あの時見たクライヴの表情を思い浮かべながら、目の前にいる彼の瞳を見つめる。そうしてから、屋敷の人々の顔を思い浮かべた。やはり瞳の色が似ている。四人の中では、シャムロックの色と一番近いだろうか――。
 ぼうっと考えていると、緩んだ意識の中で、無意識がまた違う映像を見せてくる。ふと脳裏に浮かんできたそれをたぐり寄せた。その景色は明るい。昼間の明るさだ。風がやんだ野外、土の色や森の緑が少しくすんでいる。太陽を覆い隠すよう、メルリアに影を落とす魔獣の姿。ミスルトーに来る直前の記憶だ。恐怖に体の力が抜けたメルリアに、クライヴが逃げろと叫ぶ。それでも動けない。地面を蹴る随分と早い足音に、喉の奥から絞り出すような声。メルリアの体に衝撃が走る寸前、視界には苦しげに歪むクライヴの表情と、その瞳の赤色が映った。魔獣の色とは異なる――月夜鬼特有の、少し温かいその色が。
 ああ、そうだったのか。メルリアは心の中で呟く。あの色を見たのは、あの時が初めてではなかったのだ。
「……それに、クライヴさんの目のおかげで、私は助かったんだと思うよ」
 部分的に思い出せたとはいえ、彼女の中で、あの一瞬の記憶はひどく断片的だった。それに途中で気絶してしまったせいで、全ての事は知らない。ただ、その中でも、クライヴの声は覚えている。最後に一瞬見た彼の表情も覚えている。自分を守ってくれたあの感覚も。それならば、怖いと思うこと自体おこがましいのではないか――その実感が、優しい熱と共に胸の奥へと染み込んでいく。
「いや、そんな、ことは……」
 ないはずだ、とクライヴの視線が泳ぐ。隣に座るメルリアの笑顔が眩しければ眩しいほど、彼の中には罪悪感が募っていった。この瞳はメルリアを怖がらせただけだと思っていたし、最悪の場合傷つけてしまったかもしれないのだ。事実として、あの嫌な空想は今でも脳裏に焼き付いている。どうにかして否定したいものの、どうしたらいいのか分からない。断言できるほど、自分は月夜鬼についての知識がないからだ。そのまま言葉を紡げずに口を閉ざす。言葉を濁した後に訪れる沈黙というのは居心地が悪い。嫌な沈黙だ、と思った。
 やがて、それを埋めるように、陶器の高い音がした。シャムロックがコーヒーカップを手に取ったのだ。カップから漏れる湯気は細く頼りなく、気をつけずとも火傷せずに飲める温度だと伝える。
「メルリアの言うことは間違いではないと思う」
 向かい合って座る二人が、同時にシャムロックを見る。片方は興味深そうに、片方は探るように。
「月夜鬼は夜を生きる分、周囲の感覚に敏感だと言われている。その時、クライヴにとって、普段と違う変化が現れても不思議ではない」
 クライヴはその言葉に俯いた。胸に手を当てるまでもない。心当たりは大いにある。普段聞き逃すような物音もはっきり聞こえていたし、何より周囲の景色がとても遅く感じた。今までこんな経験をしたことはなかった。自分に流れている血がそうさせるというならば、その方が説得力がある。……だとすれば、自分のしたことは本当に無駄ではなかった。胸の奥から溢れる感情をごまかすように、クライヴは奥歯を噛んだ。
「それにしても、なんだか不思議だね。私もクライヴさんも……半夜、っていうんだっけ。同じ月夜鬼の血が流れてたんだね」
 メルリアは一つ息をついた。安らいだ表情のまま、夜空に浮かぶ月へ手を伸ばす。月光に照らされた右手の輪郭が、月明かりで青白く光った。月満草を思わせるその色に目を細める。己の存在を知ったせいだろうか、その光を心地よく感じていた。
「ひいおじい様から聞いたんだけど……。月夜鬼も、それから半夜も、お互いを引き寄せる性質なんだって」
 月に伸ばしていた手を下ろすと、隣に座るクライヴを見た。クライヴがこちらの様子を目で追っている。その視線に気づくなり、メルリアは照れくさそうに笑った。
「私、旅先で出会えたのがクライヴさんでよかった」
 ――彼女の旅路にはいつも月夜鬼の影があった。全く違う道を辿っていた四人の線が、血筋によって時折同じ場所を辿る。その交わる線を辿っていたのが、クライヴで、エルヴィーラで、シャムロックでよかったと、心から思った。みんな心根が優しい。悪意ある人物が同じ道を辿ったとあれば、自分はどうなっていたか分からない。その実感が、メルリアの心の奥底に染み入る。
「俺も……」
 クライヴはか細く呟いた。頼りなさげに視線を迷わせていると、やがて意を決して顔を上げる。
「俺も、傍にいてくれたのがメルリアでよかったと思ってる」
 その声は、はっきりと力強いものであった。嘘偽りなく、伝えることに躊躇いなどあるはずもない心の内がそうさせる。
 その言葉を聞くなり、メルリアの青色の瞳が大きく見開かれた。どくりと心臓が脈打った音を、耳元で聞いたような錯覚に陥る。
「メルに会えてよかったって、本当に思うよ」
 クライヴはメルリアに出会えていなかったのならば――仮に月夜鬼の血の性質でシャムロックと知り合ったとしても、彼の言葉を受け入れられはしなかっただろう。シャムロックと知り合えたとしても、そうでなくても、メルリアに出会わなければ、自分は一生わけのわからない発作に苦しめられ続けていた事は想像に難くない。それは痛いほど分かっている。しかしクライヴはそのことを口には出さず、心の内にとどめた。
「……メル?」
 ピクリとも動かなくなったメルリアを見て、クライヴは恐る恐る声をかける。すると、うたた寝していたところを突然起こされたかのように、びくりと体を震わせながら顔を上げた。
「えっ、と……」
 メルリアは表情を強ばらせながら、どうしていいか迷っていた。声をかけてもらったのだから、なにかを言うべきなのは分かっている。けれど、なにを言ったらいいのか分からない。頭の中が空っぽになってしまった。必死に記憶を辿りながら、今まで何の話をしていたかを思い起こす。やがて、メルリアの背筋がピンと伸びた。
「ベラミントから戻ってきた後の……、クライヴさんがグローカス案内してくれるの、すごく楽しみにしてるから……!」
 呼吸をしているのか怪しいほど、メルリアは次々に言葉を吐き出す。
 圧倒されたように、クライヴは空返事を零した。その返事を聞きながら、彼女は運動をした後のように深い呼吸を繰り返す。やがて、脱力したようにソファに背中を預けた。
「……大丈夫か? 具合でも悪いのか?」
「ううん……そんなことない。大丈夫」
 メルリアはぐったりとソファに体を預け、目を閉じる。そんな中、彼女に用意されたティーカップが新しいものへ変わった。すかさずこぽこぽと音を立てながら、薄黄緑色の液体がティーカップに注がれる。しっとりとした草花の香りだ。その香りにゆっくりと目を開く。
「どうぞ。少し心が楽になりますよ」
「あ、ありがとうございます」
 メルリアはソファの縁に手をかけ、ゆっくりと上体を起こす。きちんと背を正して座り直すと、ティーカップを手に取った。カップの白色が、茶の黄緑色をくっきり映し出す。湯気を伝って昇る甘酸っぱい香りに、体の緊張が解けていく事を感じていた。
 この香りの正体を知っている。エプリ食堂で働いていた時によく作ったカモミールティーだ。リンゴを思わせる香りのそれは、メルリアのお気に入りだった。カップを傾ければ、口の中いっぱいにカモミールが香る。鼻に抜ける匂い。ゆっくりと飲み込めば、喉奥から胃に伝わるハーブティーの熱。体の内側から温められ、ほっと息をついた。
「メル。今日、言えなかった話……。今度、聞いてくれるか?」
 メルリアはティーカップを持ったまま顔を上げた。
 エルヴィーラに呼び出される直前の、あの話のことだろう。今日はもういいと言ったあの声はひどく疲れていたが、今は先ほどのように暗い表情ではない。
 左手でもティーカップを支える。カップ越しに、人差し指と中指に確かな熱を感じた。
「うん。私はいつでも大丈夫だよ。今じゃなくて平気?」
「今は……」
 クライヴは言い淀みながら、辺りを見回す。真っ先に目に入ったのは、向かいに座るシャムロックの姿だ。彼はあえてクライヴから視線を逸らしているが、間近にいることに変わりはない。彼らから二メートルほど距離を取るウェンディは、こちらの様子をつくづく見つめている。百歩譲ってシャムロックはともかく、ここまで他人からしげしげと見つめられては話題を振ることもできない。
「……いや、今はいい」
「うん、分かった」
 疑問に首をかしげながらも、メルリアはそれ以上問うことはなかった。話の内容は気になるが、話してくれる事には変わりない。もう少し待とうと、再びティーカップを傾けた。
「それじゃあ、私はひいおじい様と話をしてくるね」
 用意されたカモミールティーを飲み終え、ティーカップをテーブルの端に寄せ、立ち上がった。
「ああ」
 メルリアはクライヴに手を振った後、シャムロックに頭を下げた。部屋を出て行こうとするメルリアを見ると、ウェンディは部屋の扉を開く。その先には、しんしんと闇が広がっていた。ハンガースタンドに止まっていた乙夜鴉が、待っていましたといわんばかりに羽を広げる。廊下の闇に吸い込まれるように降り立つと、羽をたたみ客人をじっと待った。
 メルリアはウェンディにも頭を下げると、そのまま部屋を後にした。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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