第43話 最後の仕事2
文字数 2,527文字
ネフリティスが円を描いた紙は、日に焼けたように茶色く変色していた。真っ白な紙に描くものとは違い、黒色のインクが紙自体に馴染んでいる。
二重に円を描いた上に、ネフリティスは何かを書き込んだ。メルリアは背後からそれを伺う。先日見た「錬金術のレシピだったもの」に書かれていた文字の形とよく似ている。あの時同様、文字一つ一つはなんとか理解できるが、やはり単語にはなっていない。言葉の使い方がまるで違うのだ。
「お前、字は書けるな? これからここに文字を書いてくれ」
ネフリティスは、彼女が普段使っている椅子に座るよう促した。メルリアは戸惑いながらも腰掛ける。太ももや尻に当たるクッションの感触が心地いい。
ここ、と指示された部分――ネフリティスが先ほどまで何かを書いていた文章の一行下を、トントンと人差し指で叩いた。メルリアがペンを手にしたタイミングを見計らうと、ネフリティスは紙から指を離す。
「心を込めて書けよ。『一』」
「え?」
「数字の『一』だ。早くしろ」
メルリアはペンを握りしめ、言われた通りの文字を書いていく。
心を込めて、丁寧に、誰から見ても読めるように。それを意識しながら、メルリアは文字を一つずつ書き写していく。やはり文章の意味は理解できなかったが、そんなことはどうでもいい。ネフリティスの弟子が助かれば、それで。メルリアはまだ見ぬ弟子の姿を思い浮かべながら、無事を祈りながら、ペンを走らせる。
メルリアとネフリティスの間に会話はほとんどなかった。あったとすれば、聞き取れなかった言葉を聞き返すことのみ。
それらを二百繰り返すと、ページの半分がメルリアの文字で埋まっていた。
「そこで句点だ。――よし、後はそこで見ていろ」
その言葉を聞くと、メルリアは紙の脇にゆっくりとペンを置いた。一つ息をつくと、自分の右肩の重さに気づく。数拍遅れてから、右手がじわりと痺れだした。無意識に力を入れすぎてしまったせいだ。
メルリアは自分の右手を見つめながら、閉じたり開いたりと数度繰り返す。手のしわの間が汗で光った。ただ文字を書くだけなのに、ここまで緊張することがあっただろうか――椅子から立ち上がると、軽く肩を回した。
空いた椅子に再びネフリティスが腰掛けると、メルリアが記した文章のすぐ下にすらすらと加筆していく。言葉の意味が分からないからこそ、その速筆に感心した。それらを目で追っていると、メルリアははっとした。手紙や配達物の包みに書いてあったものよりも、ずっと綺麗な字だと。それほどこれは重要なことなのかもしれない――そう思いながら、言葉の塊をじっと見つめた。
ネフリティスが静かにペンをしまうと、その上にコップを躊躇なく置いた。ガラス製の透明なそれには何も入っていない。フラスコを手に取ると、紫色の液体をコップ八分目まで注いだ。液体が空気に触れたせいでわずかに煙が上がる。その様子を横目に、白樺のかごからからグリーンスフェーンに似た石――この間彼女が作ったそれを、躊躇なくコップに落とした。その石は、水面に大きな波紋を残しながら、水の中へ飲み込まれていく。二酸化炭素が空気に溶けるような、痺れに似た音と共に、緑色の宝石が底へ沈んだ。
「うまくいくといいんだが……」
メルリアは黙ってネフリティスの様子をうかがった。声を出してはいけないと思ったからだ。彼女は落ち着かない両手をぎゅっと握ると、祈るようにネフリティスの背中を見つめる。成功してほしい、うまくいってほしい――ただひたすらそう願いながら。
「……よし」
意を決したようにネフリティスは呟く。コップに手をかざすと、その水が淡く光りはじめた。テーブルに触れるものは何もないというのに、水面に波紋が浮かんだ。その様子にもかまわず、彼女はコップの中にある宝石に集中した。周囲の様子を注意深く観察しながらも、己の魔力を石へと送り込む。
背後に立つメルリアは固く口を閉ざし、それらの変化を見つめていた。錬金術は科学技術だというが、目の前の現象はまるで魔法のように見えた。コップの中で光る水、コップの中央に浮き上がる宝石、風や振動がないのに揺れる水面。下に敷いた紙の文字すらもそれらに呼応するように揺れている。
この部屋には音がない。人が二人、黙ってそこにいる以外の音が。無音に近いその状況の中、メルリアは経験したことのない非現実を目の当たりにしていた。まるで時間が止まっているようだ――コップの中でわずかに上下する宝石を見つめながら、メルリアは息をのんだ。
すると突然、水の中に気泡が生まれる。こぽこぽと音を立て、次第に激しくコップが揺れた。それと同時に、水の光が強く変わり、紙に躍る文字がコップ周辺へ浮かび上がる。インクの黒がネフリティスの人差し指に触れた途端、目を開けていられぬほどの眩しい光が部屋中を覆った。
耐えかねたメルリアは目を閉じながら、とっさに顔を手で覆う。
「……やっと、か?」
ネフリティスの呟く声を聞き、メルリアは顔を手で覆ったまま恐る恐る目を開く。指の間から見える部屋の景色は、錬成が始まる前と何一つ変わっていなかった。
ただ一つ、テーブルの上を除いては。
コップの下に敷いた紙は、それが火元だったかのように丸く焼け焦げている。コップの水は全てなくなり、中に入れた宝石だけが底に転がっていた。ネフリティスはその宝石を手に取ると、部屋の灯りにかざした。黄緑の色は錬成前と変わらないが、軽く揺らしてみると、その輝きは水のように揺らめく。ネフリティスはそれを見つめ、ほっと息をついた。
「成功、したようだ」
その石をもう一度コップの中に戻すと、深々と椅子の背もたれに体を預けた。ギィッと音を立て古びた木が軋む。
「おめでとうございます!」
パチン、と手を叩き、メルリアは微笑みかける。しかし彼女は動かなかった。未だ現実味がないといった表情で、だらしなく椅子に腰掛けたまま、コップの中を見つめる。そこには、この四ヶ月の努力の結晶が煌めいていた。
……これで、やっと帰ってくるのか。
見えている世界がわずかに揺らいだのは、石を見ていたからなのか、自分の目がそうだったのか、ネフリティスには分からなかった。
二重に円を描いた上に、ネフリティスは何かを書き込んだ。メルリアは背後からそれを伺う。先日見た「錬金術のレシピだったもの」に書かれていた文字の形とよく似ている。あの時同様、文字一つ一つはなんとか理解できるが、やはり単語にはなっていない。言葉の使い方がまるで違うのだ。
「お前、字は書けるな? これからここに文字を書いてくれ」
ネフリティスは、彼女が普段使っている椅子に座るよう促した。メルリアは戸惑いながらも腰掛ける。太ももや尻に当たるクッションの感触が心地いい。
ここ、と指示された部分――ネフリティスが先ほどまで何かを書いていた文章の一行下を、トントンと人差し指で叩いた。メルリアがペンを手にしたタイミングを見計らうと、ネフリティスは紙から指を離す。
「心を込めて書けよ。『一』」
「え?」
「数字の『一』だ。早くしろ」
メルリアはペンを握りしめ、言われた通りの文字を書いていく。
心を込めて、丁寧に、誰から見ても読めるように。それを意識しながら、メルリアは文字を一つずつ書き写していく。やはり文章の意味は理解できなかったが、そんなことはどうでもいい。ネフリティスの弟子が助かれば、それで。メルリアはまだ見ぬ弟子の姿を思い浮かべながら、無事を祈りながら、ペンを走らせる。
メルリアとネフリティスの間に会話はほとんどなかった。あったとすれば、聞き取れなかった言葉を聞き返すことのみ。
それらを二百繰り返すと、ページの半分がメルリアの文字で埋まっていた。
「そこで句点だ。――よし、後はそこで見ていろ」
その言葉を聞くと、メルリアは紙の脇にゆっくりとペンを置いた。一つ息をつくと、自分の右肩の重さに気づく。数拍遅れてから、右手がじわりと痺れだした。無意識に力を入れすぎてしまったせいだ。
メルリアは自分の右手を見つめながら、閉じたり開いたりと数度繰り返す。手のしわの間が汗で光った。ただ文字を書くだけなのに、ここまで緊張することがあっただろうか――椅子から立ち上がると、軽く肩を回した。
空いた椅子に再びネフリティスが腰掛けると、メルリアが記した文章のすぐ下にすらすらと加筆していく。言葉の意味が分からないからこそ、その速筆に感心した。それらを目で追っていると、メルリアははっとした。手紙や配達物の包みに書いてあったものよりも、ずっと綺麗な字だと。それほどこれは重要なことなのかもしれない――そう思いながら、言葉の塊をじっと見つめた。
ネフリティスが静かにペンをしまうと、その上にコップを躊躇なく置いた。ガラス製の透明なそれには何も入っていない。フラスコを手に取ると、紫色の液体をコップ八分目まで注いだ。液体が空気に触れたせいでわずかに煙が上がる。その様子を横目に、白樺のかごからからグリーンスフェーンに似た石――この間彼女が作ったそれを、躊躇なくコップに落とした。その石は、水面に大きな波紋を残しながら、水の中へ飲み込まれていく。二酸化炭素が空気に溶けるような、痺れに似た音と共に、緑色の宝石が底へ沈んだ。
「うまくいくといいんだが……」
メルリアは黙ってネフリティスの様子をうかがった。声を出してはいけないと思ったからだ。彼女は落ち着かない両手をぎゅっと握ると、祈るようにネフリティスの背中を見つめる。成功してほしい、うまくいってほしい――ただひたすらそう願いながら。
「……よし」
意を決したようにネフリティスは呟く。コップに手をかざすと、その水が淡く光りはじめた。テーブルに触れるものは何もないというのに、水面に波紋が浮かんだ。その様子にもかまわず、彼女はコップの中にある宝石に集中した。周囲の様子を注意深く観察しながらも、己の魔力を石へと送り込む。
背後に立つメルリアは固く口を閉ざし、それらの変化を見つめていた。錬金術は科学技術だというが、目の前の現象はまるで魔法のように見えた。コップの中で光る水、コップの中央に浮き上がる宝石、風や振動がないのに揺れる水面。下に敷いた紙の文字すらもそれらに呼応するように揺れている。
この部屋には音がない。人が二人、黙ってそこにいる以外の音が。無音に近いその状況の中、メルリアは経験したことのない非現実を目の当たりにしていた。まるで時間が止まっているようだ――コップの中でわずかに上下する宝石を見つめながら、メルリアは息をのんだ。
すると突然、水の中に気泡が生まれる。こぽこぽと音を立て、次第に激しくコップが揺れた。それと同時に、水の光が強く変わり、紙に躍る文字がコップ周辺へ浮かび上がる。インクの黒がネフリティスの人差し指に触れた途端、目を開けていられぬほどの眩しい光が部屋中を覆った。
耐えかねたメルリアは目を閉じながら、とっさに顔を手で覆う。
「……やっと、か?」
ネフリティスの呟く声を聞き、メルリアは顔を手で覆ったまま恐る恐る目を開く。指の間から見える部屋の景色は、錬成が始まる前と何一つ変わっていなかった。
ただ一つ、テーブルの上を除いては。
コップの下に敷いた紙は、それが火元だったかのように丸く焼け焦げている。コップの水は全てなくなり、中に入れた宝石だけが底に転がっていた。ネフリティスはその宝石を手に取ると、部屋の灯りにかざした。黄緑の色は錬成前と変わらないが、軽く揺らしてみると、その輝きは水のように揺らめく。ネフリティスはそれを見つめ、ほっと息をついた。
「成功、したようだ」
その石をもう一度コップの中に戻すと、深々と椅子の背もたれに体を預けた。ギィッと音を立て古びた木が軋む。
「おめでとうございます!」
パチン、と手を叩き、メルリアは微笑みかける。しかし彼女は動かなかった。未だ現実味がないといった表情で、だらしなく椅子に腰掛けたまま、コップの中を見つめる。そこには、この四ヶ月の努力の結晶が煌めいていた。
……これで、やっと帰ってくるのか。
見えている世界がわずかに揺らいだのは、石を見ていたからなのか、自分の目がそうだったのか、ネフリティスには分からなかった。