第29話 錬金術師ネフリティス3
文字数 2,746文字
メルリアがまず向かったのは、住宅街付近にある建物だった。周囲の家々を確認しながら、目標の看板を探す。
ネフリティスのメモ書きはひどく曖昧だった。『託児所陽溜まり宛て。住宅街の通りの東側、看板アリ』――何かの暗号のようなものが、走り書きのように読みづらい文字で記されている。ほんのわずかな情報に、お世辞にも綺麗とは言えない走り書き。人にものを頼む態度として、お世辞にもよいものとはいえないが、メルリアはこの状況を苦だとは感じていなかった。前を向く彼女の表情は明るい。
住宅街を何往復かして、ようやくメルリアは目的地にたどり着く。ノックを数度、「ごめんください」の声をかける。しばらくしてから、玄関の扉がゆっくりと開いた。それと同時に、子供の泣き声や笑い声がドアの奥から飛び出してくる。
扉の前に立っていたのは、エプロン姿の女だった。髪を低い位置で一つにまとめた女は、およそ託児所に似合わないしゃんとした表情をメルリアに向ける。メルリアの後ろ、そして足下を確認すると、女は一つ咳払いを零した。
女の様子や雰囲気は、とても託児所の先生とは思えない。役所勤めや医者だといった、きっちりとした仕事の方が合いそうだ。子供から怖い印象を持たれていないだろうか? と、メルリアはいらぬ心配を抱く。
「どういったご用件でしょうか?」
低く澄んだ声の女性は、淡々とメルリアに問うた。その声にはっと顔を上げ、慌てて状況を説明する。
「あの、私、錬金術師の……。ネフリティスさんから、こちらにこの包みを届けて欲しいと」
メルリアは両手に持った包みを手渡した。ずっしりとした重みのそれが、メルリアの両手から離れる。女はそれを受け取ると、包みにある文字に目を通した。やがて、納得した声を漏らす。
女はほんの少し表情を崩し、笑みを浮かべる。
「あぁ、本日でしたね。確かに受け取りまし……」
「せんせえー、にじのご本どこぉー?」
開いた扉の奥から、子供の大きな声が聞こえる。女は包みを持ったまま、くるりと振り返った。
「はぁい、今行きまぁす! 待っていてくださいねー!」
ほんの数秒前、メルリアの目の前にいたのは、低く澄んだ声の女性だった。厳しさを思わせる雰囲気で、託児所の先生が務まるのかどうか不安になるほどの。だが今はどうだろう。先ほどとは打って変わって、高くふやけたような声だ。例えるならば、激務の後、自宅で待つ犬猫に構う飼い主のように。
実際、女は部屋の中にいる子供に満面の笑みを向けていた。きりりと引き締まった表情は跡形もなく、でれでれとしている。
女の表情はメルリアからは見えないが、大体察しはついた。
女はくるりと振り返る。余韻のせいで、ほんの一瞬緩んだ表情をメルリアに見せた。しかし、すぐに先ほどの冷たい表情に切り替えた。
「それでは私はこれで。失礼いたします」
低い声で女は言うと、静かにドアノブに手をかける。あっけにとられていたメルリアは慌てて女に頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
……すごいものを見てしまった気がする。
メルリアは胸に手を当て、心臓の音を聞く。不自然に早く脈打っていた。
メルリアは早々に次の配達先へ向かった。
ずっしりと重みのある小包を、大切に抱えながら歩いて行く。一件目とは異なり、メルリアの足取りは確かだ。工房と同じ道に面していたため、五分と立たずに目的地へ到着した。
店の前にたどり着くと、メルリアは顔を上げた。猫の顔を模った看板が、風でカラカラと揺れている。メルリアは目を細めた。たった昨晩のことなのに、もうずっと昔のような気がする――胸の奥にチクリと広がる寂しい感情をため息で紛らわす。これ以上引きずられないようにと、メルリアはシャノワールの扉を開けた。
「ごめんください」
カラン、と扉につけられたベルが店内に来客を知らせた。メルリアは店の奥に声をかけ、静かに足を踏み入れる。相変わらず客の姿はなかった。全体的に焦げ茶色の落ち着いた店内だ。壁には黒猫を模った白い文字盤の時計。ガラス張りの棚には、黒猫がデザインされた皿やティーカップなどが展示されている。昨夜見た風景と同じだった。それらに目を向けていると、メルリアの頭上でコトンと物音がした。顔を上げると、ちょうど棚の上に乗った黒猫と目が合う。昨日、エルヴィーラに懐いてきた黒猫のアステルだ。昨日とは異なり、アステルは棚の上から動こうとしない。メルリアの存在は認識したが、ちらりと目をやっただけで、つまらなそうにカウンターの奥へ視線を逸らした。アステルがピクリと耳を動かすと、カウンター奥の扉がゆっくりと開く。
「すみません、お待たせしてしまいましたね」
昨晩会った中年の男が顔を出した。メルリアは、慌てて首を横に振る。両手は塞がっていた。
男はメルリアの顔を見ると、ふっと笑みを浮かべる。
「アステルが気になりますか?」
「はい、少し……。やっぱり、普段はああしているんですか?」
メルリアが苦笑を交え、棚の上に上ったアステルに視線を向ける。眠たそうに目を開いていたアステルは、やがてくわっと大きく口を開け、欠伸をした。鋭い二本の歯が光る。
「ええ。昨夜は驚きました。……とはいえ、この子も黒猫ですから」
どういうことだろう? メルリアはカウンターの奥にいる男を見た。男は穏やかな表情を変えないまま、目を細める。
「判るんでしょうね。仕えるべきものが何か」
その言葉を聞いた途端、メルリアの脳裏にはエルヴィーラの姿が浮かんでいた。初めて会った時から不思議な雰囲気の人物だと思っていた。とても綺麗で、どこか神秘的な人。詳しいことは聞いていないが、実際、あんな豪華なホテルに部屋を取っている人だ。本当にお金持ちのお嬢様なのかもしれない――。動物は人間より勘が鋭いところがあるという。きっと人の雰囲気が分かるんだろう、と、メルリアは一人頷いた。
「……さて。本日はどういったご用件ですか」
にこにこと微笑みかける男に、メルリアははっとした。両手に持っている小包の存在を忘れていたからだ。
「あ、あの、今日はこれを……。錬金術師の、ネフリティスさんの代わりに、お届けに!」
メルリアはカウンターへ向かうと、男に包みを手渡した。男はそれを受け取ると、カウンターの端にゆっくり置いた。
「確かに受け取りました。ありがとうございます」
「あ、あの、今日はこれで……また伺います!」
メルリアは慌てて頭を下げる。
「ええ、お待ちしております」
男の声にもう一度頭を下げてから、メルリアは男に背を向けた。店の扉を引くと、ベルがカランと音を立てた。その音の中で、アステルがニャアと短く鳴く。ベルの音にかき消され、アステルの声はメルリアの耳に届くことはなかった。
ネフリティスのメモ書きはひどく曖昧だった。『託児所陽溜まり宛て。住宅街の通りの東側、看板アリ』――何かの暗号のようなものが、走り書きのように読みづらい文字で記されている。ほんのわずかな情報に、お世辞にも綺麗とは言えない走り書き。人にものを頼む態度として、お世辞にもよいものとはいえないが、メルリアはこの状況を苦だとは感じていなかった。前を向く彼女の表情は明るい。
住宅街を何往復かして、ようやくメルリアは目的地にたどり着く。ノックを数度、「ごめんください」の声をかける。しばらくしてから、玄関の扉がゆっくりと開いた。それと同時に、子供の泣き声や笑い声がドアの奥から飛び出してくる。
扉の前に立っていたのは、エプロン姿の女だった。髪を低い位置で一つにまとめた女は、およそ託児所に似合わないしゃんとした表情をメルリアに向ける。メルリアの後ろ、そして足下を確認すると、女は一つ咳払いを零した。
女の様子や雰囲気は、とても託児所の先生とは思えない。役所勤めや医者だといった、きっちりとした仕事の方が合いそうだ。子供から怖い印象を持たれていないだろうか? と、メルリアはいらぬ心配を抱く。
「どういったご用件でしょうか?」
低く澄んだ声の女性は、淡々とメルリアに問うた。その声にはっと顔を上げ、慌てて状況を説明する。
「あの、私、錬金術師の……。ネフリティスさんから、こちらにこの包みを届けて欲しいと」
メルリアは両手に持った包みを手渡した。ずっしりとした重みのそれが、メルリアの両手から離れる。女はそれを受け取ると、包みにある文字に目を通した。やがて、納得した声を漏らす。
女はほんの少し表情を崩し、笑みを浮かべる。
「あぁ、本日でしたね。確かに受け取りまし……」
「せんせえー、にじのご本どこぉー?」
開いた扉の奥から、子供の大きな声が聞こえる。女は包みを持ったまま、くるりと振り返った。
「はぁい、今行きまぁす! 待っていてくださいねー!」
ほんの数秒前、メルリアの目の前にいたのは、低く澄んだ声の女性だった。厳しさを思わせる雰囲気で、託児所の先生が務まるのかどうか不安になるほどの。だが今はどうだろう。先ほどとは打って変わって、高くふやけたような声だ。例えるならば、激務の後、自宅で待つ犬猫に構う飼い主のように。
実際、女は部屋の中にいる子供に満面の笑みを向けていた。きりりと引き締まった表情は跡形もなく、でれでれとしている。
女の表情はメルリアからは見えないが、大体察しはついた。
女はくるりと振り返る。余韻のせいで、ほんの一瞬緩んだ表情をメルリアに見せた。しかし、すぐに先ほどの冷たい表情に切り替えた。
「それでは私はこれで。失礼いたします」
低い声で女は言うと、静かにドアノブに手をかける。あっけにとられていたメルリアは慌てて女に頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
……すごいものを見てしまった気がする。
メルリアは胸に手を当て、心臓の音を聞く。不自然に早く脈打っていた。
メルリアは早々に次の配達先へ向かった。
ずっしりと重みのある小包を、大切に抱えながら歩いて行く。一件目とは異なり、メルリアの足取りは確かだ。工房と同じ道に面していたため、五分と立たずに目的地へ到着した。
店の前にたどり着くと、メルリアは顔を上げた。猫の顔を模った看板が、風でカラカラと揺れている。メルリアは目を細めた。たった昨晩のことなのに、もうずっと昔のような気がする――胸の奥にチクリと広がる寂しい感情をため息で紛らわす。これ以上引きずられないようにと、メルリアはシャノワールの扉を開けた。
「ごめんください」
カラン、と扉につけられたベルが店内に来客を知らせた。メルリアは店の奥に声をかけ、静かに足を踏み入れる。相変わらず客の姿はなかった。全体的に焦げ茶色の落ち着いた店内だ。壁には黒猫を模った白い文字盤の時計。ガラス張りの棚には、黒猫がデザインされた皿やティーカップなどが展示されている。昨夜見た風景と同じだった。それらに目を向けていると、メルリアの頭上でコトンと物音がした。顔を上げると、ちょうど棚の上に乗った黒猫と目が合う。昨日、エルヴィーラに懐いてきた黒猫のアステルだ。昨日とは異なり、アステルは棚の上から動こうとしない。メルリアの存在は認識したが、ちらりと目をやっただけで、つまらなそうにカウンターの奥へ視線を逸らした。アステルがピクリと耳を動かすと、カウンター奥の扉がゆっくりと開く。
「すみません、お待たせしてしまいましたね」
昨晩会った中年の男が顔を出した。メルリアは、慌てて首を横に振る。両手は塞がっていた。
男はメルリアの顔を見ると、ふっと笑みを浮かべる。
「アステルが気になりますか?」
「はい、少し……。やっぱり、普段はああしているんですか?」
メルリアが苦笑を交え、棚の上に上ったアステルに視線を向ける。眠たそうに目を開いていたアステルは、やがてくわっと大きく口を開け、欠伸をした。鋭い二本の歯が光る。
「ええ。昨夜は驚きました。……とはいえ、この子も黒猫ですから」
どういうことだろう? メルリアはカウンターの奥にいる男を見た。男は穏やかな表情を変えないまま、目を細める。
「判るんでしょうね。仕えるべきものが何か」
その言葉を聞いた途端、メルリアの脳裏にはエルヴィーラの姿が浮かんでいた。初めて会った時から不思議な雰囲気の人物だと思っていた。とても綺麗で、どこか神秘的な人。詳しいことは聞いていないが、実際、あんな豪華なホテルに部屋を取っている人だ。本当にお金持ちのお嬢様なのかもしれない――。動物は人間より勘が鋭いところがあるという。きっと人の雰囲気が分かるんだろう、と、メルリアは一人頷いた。
「……さて。本日はどういったご用件ですか」
にこにこと微笑みかける男に、メルリアははっとした。両手に持っている小包の存在を忘れていたからだ。
「あ、あの、今日はこれを……。錬金術師の、ネフリティスさんの代わりに、お届けに!」
メルリアはカウンターへ向かうと、男に包みを手渡した。男はそれを受け取ると、カウンターの端にゆっくり置いた。
「確かに受け取りました。ありがとうございます」
「あ、あの、今日はこれで……また伺います!」
メルリアは慌てて頭を下げる。
「ええ、お待ちしております」
男の声にもう一度頭を下げてから、メルリアは男に背を向けた。店の扉を引くと、ベルがカランと音を立てた。その音の中で、アステルがニャアと短く鳴く。ベルの音にかき消され、アステルの声はメルリアの耳に届くことはなかった。