第64話 目覚めは夜更けに

文字数 5,755文字

 エルフの村に夜が訪れる。
 空を覆っていた雲は彼方へ姿を消し、広場から見える枝枝の隙間からは、満天の星が広がっていた。枝から生える小さな葉を照らすのは月の光だ。太陽の光と比べると頼りないが、わずかなそれは村の木々を煌めかせる。緑の葉が夜の藍に溶け、月光を反射する。その様は、まるで木々に魔法がかかったかのように見えた。
 広場を明るく照らしていたたき火の炎は消え、黒く焼けた土だけが残る。ツリーハウスの何軒かはまだ明かりが灯っていた。まだ眠らぬ者がいる証である。

 蝋燭の明かりがゆらゆらと揺らめき、ツリーハウスの茶色を頼りなく照らす。溶けた蝋が、汗をかくように蝋燭を伝っていった。ガタガタと立て付けの悪い窓が風を受け、大きな音を立てる。
 クライヴはその窓に責めるような視線を向けた後、ベッドに眠るメルリアの様子をうかがう。頬にじっとりとした汗が流れた。クライヴはメルリアの額に置いたタオルに手を伸ばすと、その熱を確かめるように両面を触った。タオルを変えてから間もないというのに、もう熱い。古びたおけにタオルを浸すと、その熱を桶の水が吸収していった。十分に冷やした後、堅くタオルを絞り、二つ折りにして彼女の額に乗せた。クライヴの指先から水滴が一粒零れ、メルリアの髪に落ちる。それは重力に従い、彼女のしなやかな髪を伝って流れ落ちた。
 この夜、クライヴの目は冴えていた。普段なら眠りにつく時間が近づいても一向に眠気が訪れない。それどころか、頭ははっきりとしていて、まるで今が昼間であるかのように覚醒していた。彼にとって、真夜中に覚醒してしまうことは珍しくなかった。この旅の間でも何度か経験している。ベラミントを出発した日、ヴェルディグリに向かう最中の宿酒場、ヴェルディグリを出発する前、そして今日。ない方がいいことは確かだが、件の症状よりも幾分もマシだった。それに、メルリアの力になることなら、なんだってしたいと思っていた。
 改めてメルリアの表情を伺う。うなされている様子はなさそうだが、とにかく汗がひどい。呼吸も荒く、とても深く眠れているとは言えない。クライヴはふっと切なげに目を細める。
「……せめて、いい夢が見れているといいんだけどな」
 とてもそんな夢を見ているとは言い難い状況ではあるが、そう願うほかなかった。
 メルリアの額に置いたタオルに人差し指で触れる。それだけなのに、彼女の体温がタオル越しに伝わってきた。タオルを裏返しても意味はないだろう。それをもう一度おけに浸した。しばらく水に泳がせた後、再び固く絞ると、ぽたぽたと水がおけに戻っていく。手のひらが真っ赤になることも構わずに絞った後、メルリアの額にそれを乗せた。途端、メルリアの眉間にしわが寄る。ゆっくりと瞼が開き、とろんとした瞳のメルリアと視線が合う。
「……クライヴ、さん?」
 突然のことにクライヴは目を丸くした。左手が迷うように膝の上を行ったり来たり。やがて、静かに咳払いを一つする。
「大丈夫か? っていうか、起こしちゃったか?」
「ううん……。なんとなく、目が覚めちゃって」
 メルリアはつぶやくと、ベッドに横になったまま視線だけをゆっくりと動かした。後頭部を締め付けるような痛みを感じ、目を閉じる。その余韻が落ち着いた頃、おずおずと目を開いて、改めて周囲の様子を確認した。
 木製の壁に床、扉と窓が一つ。一軒家にしたらお世辞にも広いとは言えない部屋だが、宿酒場の部屋にしたら十分すぎるほどの広さである。部屋の隅には、メルリアが背負っていたリュックサックが壁に立てかけられている。テーブルには見慣れない小瓶にコップ、小皿と食器一式。彼女の知らない場所だった。
「えぇっと……」
 ゆっくりと上半身を起こすメルリアを、慌ててクライヴが制した。
 しかし彼女はベッドには横にならず、上体を起こしたまま制止する。ぽたり、と、膝の上に濡れたタオルが落ちた。メルリアはそれを手に取る。濡れているということは分かったが、それだけ。彼女の体温とすっかり同化し、冷たいとは感じられなかった。
「熱があるんだ、寝てないと……」
 メルリアはクライヴの顔をぼうっと見つめていた。どうやら自分は熱が出ているらしい――と、その言葉で自覚する。言われてみれば、体もだるいし、やたら暑い気がする。
「あぁ、いや、やっと起きたんだし、なにか食べないとまずいよな。さっきリンゴを擂ったんだ、食べるか?」
「うん……」
 メルリアはその言葉にゆっくりうなずいた。
 腹が減っているわけではなかった。しかし、自分は熱が出ているという。だとするならば、栄養をつけて眠って早く直して、迷惑を最小限に抑えるほかない。そう思ったからだ。
 クライヴはメルリアからタオルを受け取ると、再びそれをおけに浸した。テーブルの上から木製のスプーンを手に取る。同じく木製の器には、お化けリンゴの摺り下ろしが入っていた。その器に手を伸ばそうとしたクライヴだったが、思わず動きが止まってしまう。アラキナやリタの指示通り、皮ごと摺り下ろしたものだ。テーブルの器を恐る恐るのぞき込む。
 器の焦げ茶色と実の黄色が混ざっているおかげで、あの毒々しい色はあまり目立たない。あまり。それに、今は夜だ。ツリーハウス内を照らすのはわずかな蝋燭の光のみ。今ならば色素の濃いリンゴにしか見えない――かもしれない。クライヴは改めて器の中をまじまじと見つめる。色が視認しづらい暗い部屋では、灰色に近い塊としてそこに存在している。しかし。クライヴは息をのんだ。元の色を知っているせいで、毒々しい色にしか見えなくなっていたのだ。
 クライヴは乾いた笑みを一つ浮かべると、意を決して器を手に取った。ベッドで待つメルリアにスプーンと器を差し出す。
「ありがとう」
 メルリアはクライヴににこりと微笑みかけた。決して悪いことをしていないが、その笑顔になぜか良心が痛む。いただきますと手を合わせるメルリアを見て、慌ててクライヴは口を挟んだ。
「すごい色してると思うけど、危なくないから大丈夫だ。食べられる、俺も食べた。平気だった」
 必死に弁解するクライヴに、メルリアは首をかしげた。どうしてそんな風に慌てているのか理解できない。しかし頭がうまく動かないメルリアは、それを尋ねることはしなかった。そんな彼に構わず、スプーンで摺り下ろしたお化けリンゴをすくい、何の躊躇もなく口へ運んでいく。
 口当たりよく柔らかいリンゴをゆっくりと咀嚼するメルリアを見ながら、クライヴは胃がきゅっと締め付けられるような不快感を覚えた。
「おいしい。ありがとう」
 鼻に抜けるリンゴの爽やかな香り。一般的なものと比べると控えめな味ではあるが、その味は普通のリンゴと大差ない。メルリアはスプーンをもう一度口に含みながら、古い記憶を呼び起こしていた。
 ベラミントはリンゴの名産地である。彼女の周囲には当たり前のようにリンゴがあった。生のリンゴ、もしくはリンゴの料理を口にしない月はなかった。
 メルリアがまだ幼い頃――彼女が風邪を引いた時、まずはじめに食べさせられたのはリンゴの摺り下ろしだった。大丈夫だよと穏やかに笑う祖母の姿をふっと思い起こす。それはメルリアにとって随分と古い記憶だというのに、今起こっている出来事のように鮮やかに蘇った。目を閉じれば、祖母と住んでいた家、リビング、自分の使っていた部屋、好きだった絵本に、お気に入りの青いマグカップ。祖母の家族を描いた絵画、リンゴの形の丸い小皿――。大好きだった家の景色を、全て鮮明に見る事ができる。まるでその当時に戻ったかのように、はっきりと。
「おばあちゃん……懐かしいなぁ」
 メルリアはスプーンで器の中をすくう。ふと、その中に固形のリンゴを見つけた。小指の第一関節ほどくらいの大きさで、摺った後で周囲がざらざらとしていた。
「あ……悪い。そういえば、途中で折れたのがあったな」
 申し訳なさそうに頭をかくクライヴに、メルリアはううんと首を振って否定した。そうしてまた、スプーンの上に乗ったリンゴの固形を見つめる。
 こんなこと、前にもあった。けれど、ロバータが摺り下ろしたリンゴにはここまで大きい塊は入っていなかった。
 そうだ、あのひと。祖母の親戚だという男が作ったリンゴのすりおろしには、決まってそれがあった。メルリアがそれを今と同じように見つめていると、男は「ごめんごめん」と謝りつつも、少し困ったように笑っていた。
 今度は男の顔を思い浮かべながら、スプーンを口に運ぶ。固形のリンゴの食感は、メルリアの知るリンゴらしいものだ。
「……ごめん、メルリア。怖い思いをさせて」
「えっと……?」
 メルリアはその言葉にゆっくりと顔を上げる。肩に掛かっていた長い髪がさらさらと胸の方へ垂れた。
 目を覚ます前のことはよく覚えていない。思い出そうにもうまく頭が働かないのだ。恐る恐る記憶の縁を辿るメルリアは、一番新しい記憶として魔獣の姿を思い出す。魔獣の赤い瞳、銀色に光る爪先。それ以降の記憶は思い出せないが、それ以前の記憶は簡単に呼び起こせる。
 ネフリティスの工房から旅立ったこと。ヴェルディグリから出て、次はグローカスの夜半の屋敷へ向かうところだったこと。街道を行く途中クライヴに偶然会って、それから魔獣に襲われて、赤い色が見えて――。
「私、あれからどうなったの……?」
 メルリアは器の上にスプーンを置くと、ぽつりとつぶやく。
「広場に帰ろうとした時、川辺で気を失ったんだ」
「川……? 街道に川なんてあったっけ」
「街道? いや、さっきメルリアは――」
 食事の手がすっかり止まり、メルリアは過去を思い出すようにツリーハウスの壁へと視線を向けた。
 クライヴはその様子をまじまじと見つめる。しばらく様子をうかがうが、ぼうっとした表情のまま変わらない。瞬きを数度繰り返すだけだった。メルリアは冗談を言う子じゃない――そう思ったのは今日何度目だろうか。クライヴは一瞬疑いの目を向けてしまった自分を蔑むように、視線を足下へ逸らした。
「メルリア、一度夕方に目を覚ましてるんだ。それで、ここから北の方にある川辺にいたんだけど」
「……そうなの?」
 クライヴが事情を説明すると、メルリアはほんのわずかに目を見開いた。彼に向けてゆっくりと首をかしげる。
 本当に何も覚えていないんだろう、とクライヴは確信する。まさかとは思うが、しかし。当時のメルリアの様子を思い起こせば、無理もないことかもしれない。見つけたばかりの頃から熱が高かったとすれば、意識が朦朧としていても不思議ではないかもしれないし。それに、両親の話は、誰にもするつもりはなかったはずだ。聞かなかったことにしよう、忘れるべきだ――。クライヴは奥歯をきつく噛んだ。隠し事をするようで気は進まなかったが、しかしその話題には気安く触れてはいけない。
 だから、クライヴは笑顔を作る。笑顔と言うには不完全な、どこかいびつな形ではあった。
「熱、高かったから、覚えてないのも無理ないかもな」
 下手な作り笑いに違和感を覚えたメルリアだが、それを追求するだけの体力は残っていなかった。違和感はほんのわずかな時間脳の片隅に残り、しばらくすると熱の高さに溶けるように消えていく。
「どの辺まで覚えてるんだ?」
「魔獣に襲われて……、爪と、赤い色が見えたところまで。それ以降は全然、覚えてないな……」
 本当に何も覚えていない――その事実に、クライヴは一瞬寂しさを覚えた。その感情を否定するように頭を振る。その方がいいんだと切り替え、メルリアの言葉を頼りに自身の記憶を辿った。爪先は見えていた。赤い色というのは魔獣の目の色だろう。自分がメルリアを突き飛ばしてから、メルリアはずっと意識がなかったということになる。気づけなかった自分を悔やみ、眉間に深い皺が寄った。
 記憶をたぐり寄せていたメルリアが、はっと顔を上げる。頭を垂れるクライヴに向けて、ゆっくりと口を開いた。
「あの時、クライヴさんが助けてくれたの?」
 今思えば、自分の名前を呼ぶ声も、危ないと叫ぶ声も、次第に近くに聞こえていたような気がする。だからメルリアはそう思った。
 その言葉に、自然と下がっていた顔が上がる。一瞬目は合ったが、クライヴはばつが悪そうに視線を逸らした。
「いや……俺は大したことはしてないさ。魔獣を退治してくれたのはルーフスの魔術士で……。俺は、あの一撃を躱したくらいしか」
「私に魔獣の攻撃が当たらなかったのは、クライヴさんが何かしてくれたから?」
 言い淀むクライヴを見て、メルリアは言い方を変えてもう一度問う。
 芯の通った声にクライヴは思わずメルリアに視線を向ける。頬が赤いのは相変わらず、呼吸も深いとは言えないが、彼女の目つきだけは唯一平常に近いものであった。先ほどのように熱に浮かされている様子はない。クライヴは一瞬迷った後、吐き出すようにつぶやいた。
「咄嗟に突き飛ばしただけだ。お世辞にもいい方法とは言えない」
 膝の上に置かれたクライヴの手は、心の奥底の感情と共鳴するように小刻みに震えていた。
 メルリアは静かに手を伸ばすと、その拳にそっと触れる。咄嗟に顔を上げると、穏やかに笑うメルリアの表情が目に入った。
「クライヴさん、助けてくれてありがとう」
 その言葉に、はっとクライヴは目を見開いた。胸からいくつもの感情がわき上がって、自分自身で理解できないまま溢れていく。心の奥底にあった重荷がすっと抜けて、後悔や自責の念が薄れて、不甲斐ない自分に情けなくなって、けれど認めてくれて、安心して、メルリアは今こうして生きていて――。頭の中が整理できずに、ただ言葉を失った。何を言っていいか分からなかった。目元に違和感を覚え、クライヴは手のひらで目頭を押さえる。
「声をかけてくれたのに、動けなくてごめんなさい」
 クライヴは首を横に振る。けれど、言葉は出ない。眉間の辺りがじくじくと熱を持つ。出したらまともな声にならないと分かっていたからだ。
「うん……、守ってくれてありがとう」
 自分には不相応な言葉だと思った。
 けれど、咄嗟に感じた気持ちとは裏腹に、それはクライヴが一番欲しい言葉だった。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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