第66話 ミスルトーの朝2
文字数 2,392文字
その日、メルリアが目を覚ましたのは昼過ぎのことだった。
カタンという物音に、寝返りを打つ。頭に乗っていたタオルが転がり落ち、左手に湿った感覚があった。無意識にそれを握る。自分の体温と変わらないはずのそれは、なぜかとても温かい。仰向けに寝転がった後、ゆっくり体を起こした。眠い目をこすりながら、大きなあくびを一つ。窓の外から差し込む光はどこか優しい。木の枠に降り注ぐそれは柔らかい色をしている。
メルリアはそれをぼうっと見つめていた。今日の目覚めは、この光のように穏やかだ。こんな気持ちで目覚めるのはいつぶりだろう。それはどうしてだろう……。目を細めると、昨日の夜のことが頭に浮かび上がる。
あの後――すりおろしたリンゴを食べ終え、用意してもらった薬を適切に飲んだ後、クライヴに促されるままベッドに横になった。彼はせっせと新しいタオルを額に乗せながら、眠れそうかと尋ねる。体はだるいし頭もぼうっとするが、眠気とはほど遠い。気づけばその問いを否定していた。すると、彼は真面目な顔で言う。
メルリアが眠れるまで傍にいるよ、と。
きっとクライヴのことだから、言葉通り傍にいてくれたのだろうとメルリアは気づいていた。
事実、彼はメルリアが眠るまでいたどころか、間もなく彼女とともに眠ってしまったのだが。
「……迷惑、かけちゃったかな」
ふっと視線を下ろすと、膝の上に置いた手を重ね合わせた。人差し指がそわそわと動く。自分の心の様子を映しているかのように。
思えば、魔獣の一撃から守ってくれたのもクライヴだというし、ここ数日間、彼に世話になりっぱなしだ。手を下ろし、ベッドの脇を撫でる。冷たいはずのそこに、まだ人の体温が残っている気がした。その熱に触れながら、心の中でつぶやく。傍にいてくれて嬉しかった、と。
シーツから指を離し、立ち上がった。一瞬感じた目眩に壁に手をつく。昨晩よりはずいぶんましになったとはいえ、まだ本調子というわけではなさそうだ。じくりと痛む頭を押さえながら、ドアノブを静かに引いた。
「わ……」
眼前に広がっていたのは、小規模な広場とそれを取り囲む木製の家々。それはどれも小さく、まるで木に吊されているようだ。小鳥の巣箱がいくつも並んでいるような、そんな不思議な光景。それは、子供の頃好きだった絵本の世界に迷い込んだかのように感じられた。あの世界は本当に実在したんだ、とメルリアは瞳を輝かせた。天を仰げば、清々しいほど澄み渡った青空がくっきりと切り取られている。枝枝がざわざわと揺れ、大形の鳥が村に影を落とした。
メルリアは扉に手をついたまま、しばしその様子を眺める。湿気を帯びた風もどこか心地いい。生き生きとした緑の風景を見ていると、次第に心地のよい気分になってきた。
右方から物音が聞こえる。それに合わせてツリーハウスがわずかに揺れた。思わずバランスを崩しかけ、慌てて壁により掛かる。ゆっくり顔を上げると、そこには男が腕を組んで立っていた。男の耳はエルフの形状であるが、体格はエルフに似つかわしくない恰幅のいい大男だ。身長はクライヴよりも五センチほど高い程度だが、体の幅や筋肉のせいで見た目よりも大きく見える。風が吹くような音で息を吐くと、こちらに数歩歩み寄る。メルリアに男の影が落ちた。
「テメェか……」
不快感を隠さぬような声をこぼし、男はこちらを観察するようにジロジロと鋭い視線を向けた。
あまりのその鋭さに、メルリアはびくりと体を震わせた。足が小刻みに揺れ、身動きがとれなくなる。逆光で顔に影が落ちている上、身長差のせいで男は前屈みの姿勢をとっている。更に、低い声と乱暴な口調。誰がどう見てもこちらを威圧しているようにしか見えない。
「あ、あの、……お邪魔、してます」
口の端が頼りなさそうにひくひくと震えるが、かろうじて言葉を発した。
「違うな」
すると男は姿勢を正し、こちらから背を向けた。
メルリアに落ちていた威圧の影が消えると、再びその体を森の優しい光が照らす。それがとても温かくて、ほっと息をついた。
「……チッ、イリスが運んできた女だってのに」
男は舌打ちすると、鬱陶しそうに頭を掻いた。
「イリス、さん……?」
イリス。その名を耳にした途端、メルリアは目を丸くした。巨大な背中に向けて、恐る恐る声を投げかける。
「あの、イリスさんって銀髪の女の人ですか?」
「そうだ、イリス・ゾラだ。それ以外のイリスなんぞどうでもいい」
「その話、詳しく――」
メルリアが息を吸い、一歩前へ出た。瞬間、頭の中がぐるぐると回り出す。突然目眩が襲い、気づけばその場に座り込んでいた。頭を下に向けたまま、何度か荒い呼吸を繰り返す。頬から汗が流れ、それは膝の上に丸いシミをひとつ作った。
「聞かせてください……」
はあはあと呼吸を乱しながら、なんとか言葉を口にする。未だ強いめまいは治まらず、目を開くことはできない。
「お前がイリスの情報吐くなら教えてやってもいいぜ」
男はメルリアを助けることもせず、手すりに腕を預けた。そのまま、彼女を見下ろし、ニッと笑ってみせる。
しかしメルリアが顔を上げる様子はない。それどころではないからだ。
なんとか返事をしなければ。何か行動を起こそうと腕を上げたが、続く目眩にとらわれ、どうすることもできなかった。ここがベッドの上であれば、そのまま横になってしまいたいと思うほど。動かない頭でどうしようか悩んでいると、軽やかな足音が響いてくる。
「ザックさん、その子病人! いじめちゃだめだよー!」
少女が慌ててツリーハウスの階段を上ると、メルリアをかばうように二人の間に立った。
責められた男は少女から視線をそらすと、森の奥を見つめる。その先には灰色の体を持つ小鳥がちょうど降り立ったところだった。しかしこちらと視線が合うと、小鳥は逃げるように飛び去っていった。
カタンという物音に、寝返りを打つ。頭に乗っていたタオルが転がり落ち、左手に湿った感覚があった。無意識にそれを握る。自分の体温と変わらないはずのそれは、なぜかとても温かい。仰向けに寝転がった後、ゆっくり体を起こした。眠い目をこすりながら、大きなあくびを一つ。窓の外から差し込む光はどこか優しい。木の枠に降り注ぐそれは柔らかい色をしている。
メルリアはそれをぼうっと見つめていた。今日の目覚めは、この光のように穏やかだ。こんな気持ちで目覚めるのはいつぶりだろう。それはどうしてだろう……。目を細めると、昨日の夜のことが頭に浮かび上がる。
あの後――すりおろしたリンゴを食べ終え、用意してもらった薬を適切に飲んだ後、クライヴに促されるままベッドに横になった。彼はせっせと新しいタオルを額に乗せながら、眠れそうかと尋ねる。体はだるいし頭もぼうっとするが、眠気とはほど遠い。気づけばその問いを否定していた。すると、彼は真面目な顔で言う。
メルリアが眠れるまで傍にいるよ、と。
きっとクライヴのことだから、言葉通り傍にいてくれたのだろうとメルリアは気づいていた。
事実、彼はメルリアが眠るまでいたどころか、間もなく彼女とともに眠ってしまったのだが。
「……迷惑、かけちゃったかな」
ふっと視線を下ろすと、膝の上に置いた手を重ね合わせた。人差し指がそわそわと動く。自分の心の様子を映しているかのように。
思えば、魔獣の一撃から守ってくれたのもクライヴだというし、ここ数日間、彼に世話になりっぱなしだ。手を下ろし、ベッドの脇を撫でる。冷たいはずのそこに、まだ人の体温が残っている気がした。その熱に触れながら、心の中でつぶやく。傍にいてくれて嬉しかった、と。
シーツから指を離し、立ち上がった。一瞬感じた目眩に壁に手をつく。昨晩よりはずいぶんましになったとはいえ、まだ本調子というわけではなさそうだ。じくりと痛む頭を押さえながら、ドアノブを静かに引いた。
「わ……」
眼前に広がっていたのは、小規模な広場とそれを取り囲む木製の家々。それはどれも小さく、まるで木に吊されているようだ。小鳥の巣箱がいくつも並んでいるような、そんな不思議な光景。それは、子供の頃好きだった絵本の世界に迷い込んだかのように感じられた。あの世界は本当に実在したんだ、とメルリアは瞳を輝かせた。天を仰げば、清々しいほど澄み渡った青空がくっきりと切り取られている。枝枝がざわざわと揺れ、大形の鳥が村に影を落とした。
メルリアは扉に手をついたまま、しばしその様子を眺める。湿気を帯びた風もどこか心地いい。生き生きとした緑の風景を見ていると、次第に心地のよい気分になってきた。
右方から物音が聞こえる。それに合わせてツリーハウスがわずかに揺れた。思わずバランスを崩しかけ、慌てて壁により掛かる。ゆっくり顔を上げると、そこには男が腕を組んで立っていた。男の耳はエルフの形状であるが、体格はエルフに似つかわしくない恰幅のいい大男だ。身長はクライヴよりも五センチほど高い程度だが、体の幅や筋肉のせいで見た目よりも大きく見える。風が吹くような音で息を吐くと、こちらに数歩歩み寄る。メルリアに男の影が落ちた。
「テメェか……」
不快感を隠さぬような声をこぼし、男はこちらを観察するようにジロジロと鋭い視線を向けた。
あまりのその鋭さに、メルリアはびくりと体を震わせた。足が小刻みに揺れ、身動きがとれなくなる。逆光で顔に影が落ちている上、身長差のせいで男は前屈みの姿勢をとっている。更に、低い声と乱暴な口調。誰がどう見てもこちらを威圧しているようにしか見えない。
「あ、あの、……お邪魔、してます」
口の端が頼りなさそうにひくひくと震えるが、かろうじて言葉を発した。
「違うな」
すると男は姿勢を正し、こちらから背を向けた。
メルリアに落ちていた威圧の影が消えると、再びその体を森の優しい光が照らす。それがとても温かくて、ほっと息をついた。
「……チッ、イリスが運んできた女だってのに」
男は舌打ちすると、鬱陶しそうに頭を掻いた。
「イリス、さん……?」
イリス。その名を耳にした途端、メルリアは目を丸くした。巨大な背中に向けて、恐る恐る声を投げかける。
「あの、イリスさんって銀髪の女の人ですか?」
「そうだ、イリス・ゾラだ。それ以外のイリスなんぞどうでもいい」
「その話、詳しく――」
メルリアが息を吸い、一歩前へ出た。瞬間、頭の中がぐるぐると回り出す。突然目眩が襲い、気づけばその場に座り込んでいた。頭を下に向けたまま、何度か荒い呼吸を繰り返す。頬から汗が流れ、それは膝の上に丸いシミをひとつ作った。
「聞かせてください……」
はあはあと呼吸を乱しながら、なんとか言葉を口にする。未だ強いめまいは治まらず、目を開くことはできない。
「お前がイリスの情報吐くなら教えてやってもいいぜ」
男はメルリアを助けることもせず、手すりに腕を預けた。そのまま、彼女を見下ろし、ニッと笑ってみせる。
しかしメルリアが顔を上げる様子はない。それどころではないからだ。
なんとか返事をしなければ。何か行動を起こそうと腕を上げたが、続く目眩にとらわれ、どうすることもできなかった。ここがベッドの上であれば、そのまま横になってしまいたいと思うほど。動かない頭でどうしようか悩んでいると、軽やかな足音が響いてくる。
「ザックさん、その子病人! いじめちゃだめだよー!」
少女が慌ててツリーハウスの階段を上ると、メルリアをかばうように二人の間に立った。
責められた男は少女から視線をそらすと、森の奥を見つめる。その先には灰色の体を持つ小鳥がちょうど降り立ったところだった。しかしこちらと視線が合うと、小鳥は逃げるように飛び去っていった。