27.5話 夜半の屋敷にて
文字数 3,708文字
深い黒色に染まった空は、東から徐々に藍色へ。その濃淡は、夜の終わりを告げていた。このまま朝が来れば、夜闇に溶けるような二人の存在が浮かび上がるだろう。
シャムロックは東の空に視線を向けた。やがて朝が来る藍色の空にもわずかに星が瞬いている。夜と朝の境目の空だ。今日もまた夜が明ける。昨日が終わり、明日が始まる。誰もが当たり前に思う何気ない瞬間を、目を細めて見つめていた。その瞬間を、尊く感じていた。
「シャム? どうかした?」
隣を歩いていたエルヴィーラが、黙って空を仰ぐシャムロックに声をかける。なんでもないと首を振り、彼は歩を進める。
二人は帰路についた。
「――おかえりなさいませ。シャムロック様、お嬢様」
シャムロックが屋敷の扉を開けると、示し合わせたかのようにメイドのウェンディが玄関先で待っていた。彼女は二人に頭を下げる。
「私はもう眠るわ。ウェンディ、後はお願い」
大きなあくびを一つ漏らすと、エルヴィーラは衣類の入った鞄をメイドへ手渡した。
「畏まりました。おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ。シャムも、おやすみ……」
「ああ、ゆっくり休めよ」
目を擦りながら、エルヴィーラは手すりを頼りに階段を上っていく。眠気がほぼ限界に達していた彼女の足取りは、ふらふらとした動きで危なっかしい。しかしバランスを崩すことなく、無事に階段を上り部屋へと戻っていく。
何事もなくてよかったとほっとため息をつくシャムロックに、ウェンディは淡々と伝える。
「……ああ。そういえば、あの方がお戻りになりましたよ」
シャムロックはその言葉に表情を硬くする。驚き半分、困惑半分といったところだ。
その反応を疑問に思ったウェンディは、なお彼に淡々と問う。
「何か問題でも?」
「いや……」
シャムロックは先の出来事の姿を思い出すため、静かに目を伏せる。彼の瞼の裏には、数時間前の風景がくっきりと映し出されていた。メルリアの容姿、自分がメルリアと会話した時の違和感、メルリアが過去の記憶を見ていた様子――。あれらの特徴を持つ彼女が、エルヴィーラと出会ったことは単なる偶然ではない。
……これも天運なのだろう。シャムロックは短く息を吐いた。呆れではない。ただただ、自分達の持つ特異な巡り合わせを感じ入っていた。
「もう眠っているか?」
「いえ。現在はリビングルームにいらっしゃいます」
「分かった、顔を出す」
荷物を預かると言った意で、ウェンディはシャムロックに手を差し出す。しかし彼はその申し出を断り、そのまま歩を進めた。
そんな扱いに、ウェンディはため息をつく。彼が背を向けているのをいいことに、呆れた表情を前面に出した。じっとりとした視線にも主は振り返らない。肩をすくめると、彼と共にリビングへ向かった。
シャムロックは、両開きの戸をゆっくりと押し開ける。
扉の奥には、椅子に腰掛ける男の姿があった。容姿はシャムロックよりも年上で、やや中年といった風貌だが、顔立ちは整っている。黒髪、中肉中背。男は扉側に背を向け、東の空を惜しむように眺めている。手にしたカップからは湯気がゆらゆらと立ち上る。コーヒーの香りは部屋中に漂い、入り口まで香るほどだ。
シャムロックが声をかける前に、男は振り向いた。にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべながら、右手を振る。
「おかえり~。エルヴィーラと一緒にヴェルディグリに行ってきたんだって? 大変だったね、ほら、座って座って」
男は極めて明るく振る舞いながら手招きする。普段通りの光景だった。
しかし、その様子が今はどうにも落ち着かない。シャムロックは促されるまま、男の正面にある椅子に腰掛けた。
夜空からは星が一つまた一つと姿を消していく。太陽の光に飲み込まれるように、その輝きは薄く弱々しい。
「ありがとう。そちらも大変だっただろう」
「ううん、今回は楽だったよ。外国とはいえ、ユカリノは近いしさ」
「……そうか」
どう切り出そうか悩んでいると、かすかに右側から陶器の音が聞こえた。ウェンディが飲み物を用意した音だ。コーヒー豆の香ばしい匂いに、シャムロックが一番好きな麦の香りが漂う。
「おおっ、いいね~。好きなもので喉が潤うなんて、これ以上ない贅沢だよねぇ」
どうぞと差し出すウェンディに礼を伝え、シャムロックはティーカップを手に取った。生クリームの白で底の見えないそれを、口内を潤す程度に口に含む。カップをソーサーに置き、しばし目を閉じた。
「シャムロック。俺はいつでも話を聞けるからね」
シャムロックよりも濃く明るい真紅の瞳を細め、男は言った。
やはり気を遣わせていたか、とシャムロックは苦笑する。それを見た男は対照的に笑顔を浮かべ、明るく取り繕った。話しやすくしようとする彼なりの配慮だったし、シャムロックもそのことには気づいていた。
「単刀直入に聞いても構わないか?」
「どうぞどうぞ」
それでもなお、男は調子を崩さない。
シャムロックは躊躇いがちに問いかけた。
「テオフィール。空色の髪の――メルリアという少女を知っているか?」
男――テオフィールの表情から、ふっと笑顔が消える。虚を突かれたせいだ。
「……なん、で、シャムロックがその名前を?」
テオフィールのその反応が、彼にとって全ての疑問の答えだった。
「昨晩、ヴェルディグリで出会ったんだ。あの子が半夜だとは思ったが……、これも天運なのだろうな」
テオフィールは苦笑した。言葉が見つからず、声だけで薄ら笑いを浮かべる。顔は笑っていなかった。彼の動揺は隠せない。隠せていると思っているのは本人だけだった。
「まだ、生きてる……んだ」
息を吐くと、テオフィールはグラスを手に取る。底をわずかに満たすウォッカを一気に呷ると、ため息に似た息を吐き出した。
「その子、いくつだった? 学業は終わったのかな、もうお酒は飲める? それとも俺と同じくらいの……いや、あの時のロバータと同じ……?」
十、十二、四十、六十……。彼の中で、色々な疑問が浮かんでは消えていく。怖ず怖ずとテオフィールは指折り悩んでいた。その姿は困惑の色を映している。
シャムロックは返事をせず、コーヒーカップを手に取った。まだわずかに白い湯気が上がっている。その先を見つめ、目を細めた。
人間と月夜鬼は異なる時の流れを生きている。そんな当たり前の現実が、心の奥に針を刺すようにチクリと痛む。
「俺には成人したばかりに見えた。詳しくは聞いていないが」
シャムロックが伝えると、テオフィールは脱力したようにため息をつく。
「そ、っか。まだ八年か……」
気が抜けたような声でそう零して、テオフィールは椅子の背もたれに体を預けた。心地のいい感覚に任せるように目を伏せる。肺の空気を全て吐き出すように大きな呼吸を一つ。再び瞼を開くと、真紅の瞳が力なく天井を見つめる。
「俺、その子に昔――八年前に会ったんだ。ほら、俺が五年間帰らなかった時期があったでしょ。その時に」
シャムロックは静かに頷いた。その時の事はよく覚えている。あれから八年も経ったのかという思いと、まだ八年しか経っていないのかという二つの思いが、頭に浮かんだ。己の時計も少し古びてきているようだ――飲み頃のコーヒーに口をつける。口を湿らせる程度含み、ゆっくりと飲み下した。
「……メルリアの家族、ネラに里帰りした時に亡くなったんだ」
静かに話を聞いていたシャムロックの瞳が揺れる。
「魔獣被害でね。ほとんどの国民が魔術を扱えるネラでは、その数がどうしても多い。不幸な出来事が重なったそうだ」
その言葉に、シャムロックは視線を落とした。
北西に位置する魔術大国ネラ。誰もが魔術を使えるとされるネラは、大陸全土で魔獣の数が最も多い。魔獣被害で死傷者が出るという話も、ネラに限っては珍しい話ではなかった。
「それで、俺の娘……メルリアから見たら祖母になるね、ロバータがメルリアの母親代わりになってたんだ。その後はシャムロックも知っている通りだよ」
そこまで聞いて、シャムロックはあの時覚えた違和感にようやく合点がいった。
昨晩、ヴェルディグリの宿での出来事だ。あの時、エルヴィーラと共にいたメルリアの表情、共に来るかと誘いを断った表情。自分に向けられた、押し殺すような悲痛の思い。あの返答の理由は生い立ちにあるのだと感付いた。
"当たり前"の幸せが得られない事ほど、苦しいものはない。シャムロックはそれを十分すぎるほど知っていた。忘れていたはずの心の傷が、ほんの少し痛んだ。
「……連れてくるべきだっただろうか」
「その必要はないんじゃないかな」
落ち着きを取り戻したテオフィールは、ゆっくりと首を振る。苦笑を浮かべた彼の表情からは、動揺の色が消えていた。
「俺がロバータに見つかったように、シャムロックがメルリアに会ったように……。俺達は呼び合う生き物だからね」
テオフィールの瞳は遙か遠く、過去の景色を映していた。
「そうだな」
シャムロックは頷くと、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
未明から明け方へ。空が徐々に明るく、夜の藍色を照らしてゆく。
屋敷の夜が明けようとしていた。
シャムロックは東の空に視線を向けた。やがて朝が来る藍色の空にもわずかに星が瞬いている。夜と朝の境目の空だ。今日もまた夜が明ける。昨日が終わり、明日が始まる。誰もが当たり前に思う何気ない瞬間を、目を細めて見つめていた。その瞬間を、尊く感じていた。
「シャム? どうかした?」
隣を歩いていたエルヴィーラが、黙って空を仰ぐシャムロックに声をかける。なんでもないと首を振り、彼は歩を進める。
二人は帰路についた。
「――おかえりなさいませ。シャムロック様、お嬢様」
シャムロックが屋敷の扉を開けると、示し合わせたかのようにメイドのウェンディが玄関先で待っていた。彼女は二人に頭を下げる。
「私はもう眠るわ。ウェンディ、後はお願い」
大きなあくびを一つ漏らすと、エルヴィーラは衣類の入った鞄をメイドへ手渡した。
「畏まりました。おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ。シャムも、おやすみ……」
「ああ、ゆっくり休めよ」
目を擦りながら、エルヴィーラは手すりを頼りに階段を上っていく。眠気がほぼ限界に達していた彼女の足取りは、ふらふらとした動きで危なっかしい。しかしバランスを崩すことなく、無事に階段を上り部屋へと戻っていく。
何事もなくてよかったとほっとため息をつくシャムロックに、ウェンディは淡々と伝える。
「……ああ。そういえば、あの方がお戻りになりましたよ」
シャムロックはその言葉に表情を硬くする。驚き半分、困惑半分といったところだ。
その反応を疑問に思ったウェンディは、なお彼に淡々と問う。
「何か問題でも?」
「いや……」
シャムロックは先の出来事の姿を思い出すため、静かに目を伏せる。彼の瞼の裏には、数時間前の風景がくっきりと映し出されていた。メルリアの容姿、自分がメルリアと会話した時の違和感、メルリアが過去の記憶を見ていた様子――。あれらの特徴を持つ彼女が、エルヴィーラと出会ったことは単なる偶然ではない。
……これも天運なのだろう。シャムロックは短く息を吐いた。呆れではない。ただただ、自分達の持つ特異な巡り合わせを感じ入っていた。
「もう眠っているか?」
「いえ。現在はリビングルームにいらっしゃいます」
「分かった、顔を出す」
荷物を預かると言った意で、ウェンディはシャムロックに手を差し出す。しかし彼はその申し出を断り、そのまま歩を進めた。
そんな扱いに、ウェンディはため息をつく。彼が背を向けているのをいいことに、呆れた表情を前面に出した。じっとりとした視線にも主は振り返らない。肩をすくめると、彼と共にリビングへ向かった。
シャムロックは、両開きの戸をゆっくりと押し開ける。
扉の奥には、椅子に腰掛ける男の姿があった。容姿はシャムロックよりも年上で、やや中年といった風貌だが、顔立ちは整っている。黒髪、中肉中背。男は扉側に背を向け、東の空を惜しむように眺めている。手にしたカップからは湯気がゆらゆらと立ち上る。コーヒーの香りは部屋中に漂い、入り口まで香るほどだ。
シャムロックが声をかける前に、男は振り向いた。にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべながら、右手を振る。
「おかえり~。エルヴィーラと一緒にヴェルディグリに行ってきたんだって? 大変だったね、ほら、座って座って」
男は極めて明るく振る舞いながら手招きする。普段通りの光景だった。
しかし、その様子が今はどうにも落ち着かない。シャムロックは促されるまま、男の正面にある椅子に腰掛けた。
夜空からは星が一つまた一つと姿を消していく。太陽の光に飲み込まれるように、その輝きは薄く弱々しい。
「ありがとう。そちらも大変だっただろう」
「ううん、今回は楽だったよ。外国とはいえ、ユカリノは近いしさ」
「……そうか」
どう切り出そうか悩んでいると、かすかに右側から陶器の音が聞こえた。ウェンディが飲み物を用意した音だ。コーヒー豆の香ばしい匂いに、シャムロックが一番好きな麦の香りが漂う。
「おおっ、いいね~。好きなもので喉が潤うなんて、これ以上ない贅沢だよねぇ」
どうぞと差し出すウェンディに礼を伝え、シャムロックはティーカップを手に取った。生クリームの白で底の見えないそれを、口内を潤す程度に口に含む。カップをソーサーに置き、しばし目を閉じた。
「シャムロック。俺はいつでも話を聞けるからね」
シャムロックよりも濃く明るい真紅の瞳を細め、男は言った。
やはり気を遣わせていたか、とシャムロックは苦笑する。それを見た男は対照的に笑顔を浮かべ、明るく取り繕った。話しやすくしようとする彼なりの配慮だったし、シャムロックもそのことには気づいていた。
「単刀直入に聞いても構わないか?」
「どうぞどうぞ」
それでもなお、男は調子を崩さない。
シャムロックは躊躇いがちに問いかけた。
「テオフィール。空色の髪の――メルリアという少女を知っているか?」
男――テオフィールの表情から、ふっと笑顔が消える。虚を突かれたせいだ。
「……なん、で、シャムロックがその名前を?」
テオフィールのその反応が、彼にとって全ての疑問の答えだった。
「昨晩、ヴェルディグリで出会ったんだ。あの子が半夜だとは思ったが……、これも天運なのだろうな」
テオフィールは苦笑した。言葉が見つからず、声だけで薄ら笑いを浮かべる。顔は笑っていなかった。彼の動揺は隠せない。隠せていると思っているのは本人だけだった。
「まだ、生きてる……んだ」
息を吐くと、テオフィールはグラスを手に取る。底をわずかに満たすウォッカを一気に呷ると、ため息に似た息を吐き出した。
「その子、いくつだった? 学業は終わったのかな、もうお酒は飲める? それとも俺と同じくらいの……いや、あの時のロバータと同じ……?」
十、十二、四十、六十……。彼の中で、色々な疑問が浮かんでは消えていく。怖ず怖ずとテオフィールは指折り悩んでいた。その姿は困惑の色を映している。
シャムロックは返事をせず、コーヒーカップを手に取った。まだわずかに白い湯気が上がっている。その先を見つめ、目を細めた。
人間と月夜鬼は異なる時の流れを生きている。そんな当たり前の現実が、心の奥に針を刺すようにチクリと痛む。
「俺には成人したばかりに見えた。詳しくは聞いていないが」
シャムロックが伝えると、テオフィールは脱力したようにため息をつく。
「そ、っか。まだ八年か……」
気が抜けたような声でそう零して、テオフィールは椅子の背もたれに体を預けた。心地のいい感覚に任せるように目を伏せる。肺の空気を全て吐き出すように大きな呼吸を一つ。再び瞼を開くと、真紅の瞳が力なく天井を見つめる。
「俺、その子に昔――八年前に会ったんだ。ほら、俺が五年間帰らなかった時期があったでしょ。その時に」
シャムロックは静かに頷いた。その時の事はよく覚えている。あれから八年も経ったのかという思いと、まだ八年しか経っていないのかという二つの思いが、頭に浮かんだ。己の時計も少し古びてきているようだ――飲み頃のコーヒーに口をつける。口を湿らせる程度含み、ゆっくりと飲み下した。
「……メルリアの家族、ネラに里帰りした時に亡くなったんだ」
静かに話を聞いていたシャムロックの瞳が揺れる。
「魔獣被害でね。ほとんどの国民が魔術を扱えるネラでは、その数がどうしても多い。不幸な出来事が重なったそうだ」
その言葉に、シャムロックは視線を落とした。
北西に位置する魔術大国ネラ。誰もが魔術を使えるとされるネラは、大陸全土で魔獣の数が最も多い。魔獣被害で死傷者が出るという話も、ネラに限っては珍しい話ではなかった。
「それで、俺の娘……メルリアから見たら祖母になるね、ロバータがメルリアの母親代わりになってたんだ。その後はシャムロックも知っている通りだよ」
そこまで聞いて、シャムロックはあの時覚えた違和感にようやく合点がいった。
昨晩、ヴェルディグリの宿での出来事だ。あの時、エルヴィーラと共にいたメルリアの表情、共に来るかと誘いを断った表情。自分に向けられた、押し殺すような悲痛の思い。あの返答の理由は生い立ちにあるのだと感付いた。
"当たり前"の幸せが得られない事ほど、苦しいものはない。シャムロックはそれを十分すぎるほど知っていた。忘れていたはずの心の傷が、ほんの少し痛んだ。
「……連れてくるべきだっただろうか」
「その必要はないんじゃないかな」
落ち着きを取り戻したテオフィールは、ゆっくりと首を振る。苦笑を浮かべた彼の表情からは、動揺の色が消えていた。
「俺がロバータに見つかったように、シャムロックがメルリアに会ったように……。俺達は呼び合う生き物だからね」
テオフィールの瞳は遙か遠く、過去の景色を映していた。
「そうだな」
シャムロックは頷くと、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
未明から明け方へ。空が徐々に明るく、夜の藍色を照らしてゆく。
屋敷の夜が明けようとしていた。