97.5話 疲労と薬

文字数 3,620文字

「それじゃ、オレはこれで。ありがとう、シャムロック」
 笑顔で部屋を後にするテオフィールに会釈すると、シャムロックはひとり息をついた。壁際に寄せられたティーカート、ソファで気だるそうに目を伏せるエルヴィーラの姿に視線を向ける。
 アラキナに頼まれてミスルトーへ向かっただけだったはずが、随分とたくさんの仕事をこなすことになってしまった。
 メルリアとテオフィールを会わせるための根回しと、クライヴに半夜であることの説明。更に三日間昼間の移動。帰ってきた後は、溜まった仕事の確認と、テオフィールの墓参りの相談――全てが終わる頃には、もうすっかり夜が更けていた。
 今日までの仕事は、全てウェンディがこなしている。自分の仕事は明日からだ。
 メルリアの捜し物の手がかりも見つかり、クライヴの問題も解決して、エルヴィーラも落ち着いて、自分の周りにある悩みの種は全て消えたことになる――そう思った途端、シャムロックの体に、今まで感じなかった疲労が押し寄せてくる。ずんと頭が重くなり、こめかみから後頭部にかけて鈍い痛みが走った。平衡感覚が消え、長い体がぬらりと怪しく揺れる。右足をひとつ前方に出すが、左足が地面につかない。不安定な体がそのまま左方へ倒れ込む。
 浮遊感に包まれていると、見かねたウェンディがすかさずシャムロックの体を抱き留める。
「シャム!?」
 エルヴィーラの慌てた声は耳に届いたが、しかしどうすることもできなかった。
 頭をかき乱されるような浮遊感の中、目眩をやり過ごそうと眉間を押さえる。やがて気味の悪い感覚が収まると、シャムロックは恐る恐る目を開いた。眼前に広がる景色は普段通りだ。色彩も、距離の感覚も、違和感はない。細い息を吐きながら、体勢を立て直した。
「だい……じょう、ぶ……?」
 エルヴィーラはか細い声で、彼を案じた。深紅の瞳が大きく見開かれ、不安げに揺れていた。胸の前にあてた手を固く握りしめ、彼の様子を怖ず怖ずと窺っている。
 相当心配させているな――そう感じたシャムロックは微笑を作る。気丈そうに振る舞ったが、その顔にはやはり陰りがあった。それを見た彼女の表情が晴れるはずもなく、眉をひそめて唇を閉じるのみだ。
「駄目ですね」
 そんな様子を見守っていたウェンディが、ぴしゃりと言い放った。
 二人の間に、それぞれ違った緊張が走る。しかし、ウェンディは決して普段と変わらぬ様子を貫いた。
「シャムロック様、本日はもうお休みください。近々の仕事は私とテオフィール様で片付けますので」
 ウェンディの鋭い視線がシャムロックを捉える。彼女は必要なことだけ言うと、今度はエルヴィーラに微笑を作った。傍らに駆け寄ると、耳元で何事かを囁く。首を動かさず、エルヴィーラは喉の奥から出した小さな声で、提案へ肯定の意思を伝える。
「――では、よろしく頼みましたよ。お嬢様」
「分かったわ」
 エルヴィーラは神妙な顔で頷くと、シャムロックの右手に触れた。彼の手は普段よりもずいぶん温かい。体調がすこぶる悪いせいだと、口よりも正直に伝えてくる。
「行きましょう、シャム」
 エルヴィーラは肯定も否定も確認せず、ただただその腕を引いた。
 シャムロックもそれに抵抗はしなかった。

 シャムロックの自室へ到着するなり、エルヴィーラは彼をベッドに横になるよう促した。
 一瞬の逡巡の後、シャムロックは素直に従う。ベッドに体を預け、上半身だけ起こした状態で、サイドテーブルに目をやった。そこには、後ろの方に栞を挟んだ小説が一冊。アラキナからの依頼がなければ、屋敷を出る翌日には読み終えていたものだ。最終的にどう帰着するのか興味深いが、今本を開いたら怒られてしまうだろう――と、扉の前にいるエルヴィーラへ視線を向ける。
 彼女は部屋の外からティーカートを持ち込み、その側で作業をしていた。ちょうどこちらに背を向けており、なにをしているかは分からない。ガラス製品が金属物にぶつかる。木製の台座に重い物が載る音は、材質ゆえ中和され、彼の耳にはっきりと届かない。
 作業に没頭していたはずのエルヴィーラが、不意に手を止めた。何かに気づいたように振り返る。お互いに目が合うと、彼女は怪訝そうに眉をひそめた。ため息をつくと、再び手元へ視線を落とす。その間に言葉はない。
 やがて、エルヴィーラは白いマグカップを手に、シャムロックの元へ歩み寄る。上半身を起こしたままの彼に、黙ってそれを差し出した。その中には、深紅の液体がカップ半分ほど注がれている。月明かりの青白い光をすべて飲み込むほど濃い色をしたそれ。シャムロックは一目でレーリンゼルであると判別した。それも、特別濃度の濃い。
 彼はすぐに口につけない。無表情のまま傍らに座るエルヴィーラを見つめながら苦笑した。
「食事だったら、先ほど済ませたが」
「薬みたいなものだから、飲んで」
 シャムロックはマグカップをそっと揺らした。深紅の水面が曖昧に揺れる。どう見ても普段口にしているものと変わらない。十分に食事をとることで病気療養になるという意味か、それとも、本当に成分が違うのか――意図を図るべくエルヴィーラの顔を窺い見ると、彼女は真剣にこちらを見つめていた。
「全部飲むまでここにいるから」
 普段とは異なり、強い口調だった。
 拒否権はないのだろう。困ったなと眉を寄せると、彼女はばつが悪そうに視線をそらす。
「……無理、してたのね。ずっと。ここに帰ってきてから。なのに」
 ――それなのに私は、自分のわがままであなたに負担をかけてしまった。
 言葉の真意をすべて伝えず、エルヴィーラは口を閉ざす。心の揺らぎと同調するように、彼女の深紅色の瞳が揺れた。
 寂寞に目を伏せるエルヴィーラに触れようと、シャムロックは右手を伸ばそうとした。が、その動きが止まる。腕が、身体が、鉛のように重い。思うように動かせなかった。ベッドに腰掛けたことで、たまっていた疲れが表れてしまったせいだった。
「エルヴィーラが謝ることじゃない」
 それだけ伝えてから、シャムロックはマグカップに口をつける。ずいぶんと鉄くさい匂いだ。普通のレーリンゼルと同じ――月満草と月赤草が入っていることは明らかだが、普通よりも月赤草の配分が多いだろう。それに、薄める水の量も少ない。かなり濃く、どろりとした舌触り。飲み物とは言いがたい感触だった。おまけに、舌の上に居座るような苦みを覚える。ただ、身体の重さがほんのわずかに軽くなったような――、一口飲んだだけで効き目があることは理解できた。
 シャムロックがマグカップから口を離した途端、エルヴィーラは彼の瞳を凝視した。その赤色がはっきりと、赤であると認識すると、安堵のため息を漏らす。問題なく薬が効いたようだ。強ばっていた表情から、次第に力が抜けていく。
 エルヴィーラの表情はほとんど変わらない。しかし、シャムロックはその変化をありありと感じていた。このわずかな緊張のほぐれで、どれほど心が動いたのか、きちんと理解していた。再びマグカップを傾け、普段より幾分も濃いそれを、口の中で十二分に味わってから胃の奥に流し込む。お世辞にも美味いとは言えない。しかし小言一つ漏らさず、表情一つ変えなかった。薬とはそういうものだと理解している。それに。
 ――これがあるだけ、今の状況は恵まれているのだ。
「全て飲んだよ。ありがとう」
「片付けておくわ。それじゃ、横になって今日はもう寝て」
 マグカップを受け取ると、エルヴィーラは念のため中身を確認した。残量は、底にわずかに溜まる程度。カップを傾けたとて、一滴しか残らないだろう。改めて彼の几帳面さに感心してから、取っ手を人差し指でなぞる。やがて、彼女はいたずらに笑った。
「よく眠れるように、少し細工してあるの。だから仕事しようとしても無駄よ」
「細工?」
「ちょっとした応用よ」
 エルヴィーラは目元を細めてうなずくと、もう一度シャムロックの表情をうかがった。疲労の色は消えないままだ。しかし、こちらを見つめる、少し困ったような顔は普段と何一つ変わりない。
「……それじゃあ、また明日ね」
「ああ。おやすみ、エルヴィーラ」
 エルヴィーラは彼の言葉を心の中で繰り返してから、背を向けた。ふわりと甘い月満草の匂いが香る。それは疲れたシャムロックにとって、眠気を誘うように作用した。
 ティーカートを押して出て行くエルヴィーラを見送った後、シャムロックはベッドに横になった。宿酒場のベッドとは異なり、柔らかい感触が彼の身体をしっかりと包み込む。よく知る部屋の匂い、手触りのいいシーツの感触、十分な月明かり。ここは安心できる場所だと、本能的に理解する。
 安堵の中、ゆっくりと目を閉じた。身体は重く怠いが、不思議と不快感は薄い。恐らくエルヴィーラが用意してくれた薬のおかげなのだろうと、ふっと笑みを零した。

 そのまま彼が眠りにつくまで、時間はかからなかった。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・ローウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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