第17話 雨の日1
文字数 2,075文字
メルリアが危惧した通り、うまく事は進まなかった。
今回の雨は中々しぶとい。連日の雨が続き、ヴェルディグリは影すら見えなかった。なかなか思うように進めず、シーバから五日かけてようやく半分だ。このまま晴れてくれれば十日程度で到着できるかもしれないが、当初の予定の七日――つまりあと二日での到着には無理があった。
宿酒場にたどり着いたメルリアは、部屋のベッドに身を投げ出していた。居心地がいいとはいえない固い布団に、両手を伸ばすと壁に手が届くほど狭い室内。半分開いたカーテンからは、空を覆い尽くす灰色の雲が覗く。雲はずいぶんと厚く、月はおろか日の光すら完全に遮っていた。壁の脇に立てかけたリュックが、外の湿気を吸い、水を与えられていない植物のようにしなびていた。メルリアの表情もそれと同じように元気がない。
一日でも早くヴェルディグリにたどり着きたかった。図書館であの花のヒントを見つけ出して、実際に花を探して、見つけて、約束を叶えたと祖母に報告したい。そしてあの花を供えたい――それだけが今のメルリアの願いで、彼女の生き甲斐だった。
たとえ固くても布団は布団だ。暖かい布団と誰もいない空間に包まれて、メルリアは夕食も忘れ、うとうととまどろみ始める。何か食べないと――という意識はあるものの、このまま眠ってしまった方がいいのではないかという思考が浮かんだ。メルリアは眠気にあらがうよう、ベッドに横たわったまま手を伸ばす。がしかし、その手はベッドに沈んでいった。
勝ったのは後者だった。
メルリアが目を覚ましたのは、日付が変わる直前だった。
濃い曇り空は晴れる気配がなく、晴天の夜よりもいくらか明るい空が続く。通り雨が去った後の雨粒が重力に従い、軌跡を残して線を引いた。うっすらと目を開けたメルリアは、その軌道をぼんやりと眺めていた。
まだ真夜中だ。目覚めるにはずいぶん早い。もう少し体を休めないと……。メルリアは目を閉じ、二度目の眠りに入ろうと試みた。しかし、そうすればそうするほど目が冴えていく。次第に心地のいい浮遊感や眠気が引いていく。夜であるのに朝であるかのような感覚。まどろみの世界から現実へと引き戻されていく。これではもう眠れない――メルリアも分かっていたが、それでもなお抗うように寝返りを打つ。横向きになると、己の体を覆うように布団をかぶった。どこで切ったのか、右の手の甲にできていた傷がじくりと痛む。それを無視するように固く目を閉じた。
しかし。
まるで獣のうめき声のような音が聞こえる。それはメルリアに何かを訴える音だった。その音はメルリアのすぐそばで――具体的には布団の中で。腹の虫が言う。
何か食いたい、と。
それを合図に、メルリアはしぶしぶベッドから起き上がる。
宿酒場の酒場は二十四時間営業している。この宿も例外ではない。何か軽い物でも作ってもらえるだろうか。すっかり覚醒しきった顔で、メルリアは宿の階段を下りていった。
メルリアは酒場の扉をゆっくりと引いた。
三十弱ほどの席がある広々とした空間には客が四人。カウンターには二人、テーブルには二人。皆、それぞれ思い思いの飲み物を手に取っている。ほとんどが酒だった。十二時を回っているからか、常識人が多いのか、酒場という言葉に似つかわしくない静寂を保っている。
客のほとんどはメルリアの足音に見向きもしなかったが、テーブルに座った少年は、彼女の方を確認した後、つまらなそうに視線を逸らす。少年は向かいの女になんでもないと話の続きを催促した。
メルリアは室内をぐるりと見回す。カウンター席は奥の左端と手前の右端に客が座り、中央は五席分空いている。割って入るようで少し気が引けるが、二席以上空けることができるから十分だろう。中央へ向かっていくと、手前に座る茶髪の男が顔を上げた。ちょうどカウンターの方を見ていたメルリアと目が合う。目が合った途端、二人同時にきょとんと目を丸くした。そこにいたのは、クライヴだったのだ。
しばらくの緊張が続く。二人は何も言わなかった。しかし、そんな張り詰めた空気を破ったのはクライヴの方だった。真っ赤に染まった頬の上に涙が伝う。
「……よかった」
彼のつぶやく声が聞こえないメルリアは、どうしていいか分からず立ち尽くす。悪いことをしてしまったのではないかと、彼女の表情はみるみる青くなっていった。クライヴは腕で涙を拭うと、唐突に立ち上がる。メルリアの前に立つと、右肩に手を置いた。先日よりもずいぶんと温かい手だった。
「間に合わなくなるかと思った……、謝りたかったんだ」
「え? えっと……」
事実が飲み込めず、メルリアは困惑する。困った、どうしよう、と次第に呼吸が荒く変わっていく。そんなメルリアの鼻腔を、アルコールのにおいが刺激した。ふとクライヴの座っていたカウンターを見ると、干し肉の横に口のすぼんだ陶器があった。花浅葱色のそれに見覚えがある。あれは米酒を入れる器だ。つまり、クライヴは酒を飲んで酔っ払っている。それを理解したメルリアは、胸を撫で下ろした。
今回の雨は中々しぶとい。連日の雨が続き、ヴェルディグリは影すら見えなかった。なかなか思うように進めず、シーバから五日かけてようやく半分だ。このまま晴れてくれれば十日程度で到着できるかもしれないが、当初の予定の七日――つまりあと二日での到着には無理があった。
宿酒場にたどり着いたメルリアは、部屋のベッドに身を投げ出していた。居心地がいいとはいえない固い布団に、両手を伸ばすと壁に手が届くほど狭い室内。半分開いたカーテンからは、空を覆い尽くす灰色の雲が覗く。雲はずいぶんと厚く、月はおろか日の光すら完全に遮っていた。壁の脇に立てかけたリュックが、外の湿気を吸い、水を与えられていない植物のようにしなびていた。メルリアの表情もそれと同じように元気がない。
一日でも早くヴェルディグリにたどり着きたかった。図書館であの花のヒントを見つけ出して、実際に花を探して、見つけて、約束を叶えたと祖母に報告したい。そしてあの花を供えたい――それだけが今のメルリアの願いで、彼女の生き甲斐だった。
たとえ固くても布団は布団だ。暖かい布団と誰もいない空間に包まれて、メルリアは夕食も忘れ、うとうととまどろみ始める。何か食べないと――という意識はあるものの、このまま眠ってしまった方がいいのではないかという思考が浮かんだ。メルリアは眠気にあらがうよう、ベッドに横たわったまま手を伸ばす。がしかし、その手はベッドに沈んでいった。
勝ったのは後者だった。
メルリアが目を覚ましたのは、日付が変わる直前だった。
濃い曇り空は晴れる気配がなく、晴天の夜よりもいくらか明るい空が続く。通り雨が去った後の雨粒が重力に従い、軌跡を残して線を引いた。うっすらと目を開けたメルリアは、その軌道をぼんやりと眺めていた。
まだ真夜中だ。目覚めるにはずいぶん早い。もう少し体を休めないと……。メルリアは目を閉じ、二度目の眠りに入ろうと試みた。しかし、そうすればそうするほど目が冴えていく。次第に心地のいい浮遊感や眠気が引いていく。夜であるのに朝であるかのような感覚。まどろみの世界から現実へと引き戻されていく。これではもう眠れない――メルリアも分かっていたが、それでもなお抗うように寝返りを打つ。横向きになると、己の体を覆うように布団をかぶった。どこで切ったのか、右の手の甲にできていた傷がじくりと痛む。それを無視するように固く目を閉じた。
しかし。
まるで獣のうめき声のような音が聞こえる。それはメルリアに何かを訴える音だった。その音はメルリアのすぐそばで――具体的には布団の中で。腹の虫が言う。
何か食いたい、と。
それを合図に、メルリアはしぶしぶベッドから起き上がる。
宿酒場の酒場は二十四時間営業している。この宿も例外ではない。何か軽い物でも作ってもらえるだろうか。すっかり覚醒しきった顔で、メルリアは宿の階段を下りていった。
メルリアは酒場の扉をゆっくりと引いた。
三十弱ほどの席がある広々とした空間には客が四人。カウンターには二人、テーブルには二人。皆、それぞれ思い思いの飲み物を手に取っている。ほとんどが酒だった。十二時を回っているからか、常識人が多いのか、酒場という言葉に似つかわしくない静寂を保っている。
客のほとんどはメルリアの足音に見向きもしなかったが、テーブルに座った少年は、彼女の方を確認した後、つまらなそうに視線を逸らす。少年は向かいの女になんでもないと話の続きを催促した。
メルリアは室内をぐるりと見回す。カウンター席は奥の左端と手前の右端に客が座り、中央は五席分空いている。割って入るようで少し気が引けるが、二席以上空けることができるから十分だろう。中央へ向かっていくと、手前に座る茶髪の男が顔を上げた。ちょうどカウンターの方を見ていたメルリアと目が合う。目が合った途端、二人同時にきょとんと目を丸くした。そこにいたのは、クライヴだったのだ。
しばらくの緊張が続く。二人は何も言わなかった。しかし、そんな張り詰めた空気を破ったのはクライヴの方だった。真っ赤に染まった頬の上に涙が伝う。
「……よかった」
彼のつぶやく声が聞こえないメルリアは、どうしていいか分からず立ち尽くす。悪いことをしてしまったのではないかと、彼女の表情はみるみる青くなっていった。クライヴは腕で涙を拭うと、唐突に立ち上がる。メルリアの前に立つと、右肩に手を置いた。先日よりもずいぶんと温かい手だった。
「間に合わなくなるかと思った……、謝りたかったんだ」
「え? えっと……」
事実が飲み込めず、メルリアは困惑する。困った、どうしよう、と次第に呼吸が荒く変わっていく。そんなメルリアの鼻腔を、アルコールのにおいが刺激した。ふとクライヴの座っていたカウンターを見ると、干し肉の横に口のすぼんだ陶器があった。花浅葱色のそれに見覚えがある。あれは米酒を入れる器だ。つまり、クライヴは酒を飲んで酔っ払っている。それを理解したメルリアは、胸を撫で下ろした。