第71話 炎火
文字数 3,567文字
広場には空席の椅子が点々としていた。
テーブルには使い終わった皿が何枚も積み上げられ、てっぺんにはナイフとフォーク、スプーンが乱雑している。空になったグラスの山、底に薄い茶色を残すティーポット。
空には満天の星が広がり、少し痩せた月が顔をのぞかせる。青緑色の枝枝が音もなく揺れ、枝から離れた葉が風に乗ってゆっくり地面へ落ちる。森の木々はそれを受け止めるよう、ただそこにあった。まさに宴の後である。
そんな中、メルリア、クライヴ、リタの三人は、たき火の傍らに腰掛け、揺らめく炎を見つめていた。
「クライヴ、メルリア、ちゃんと旅支度はしておくんだよ? 忘れ物したら大変だからねー」
――アラキナの宣言通り、翌日にはメルリアの熱がすっかり落ち着いていた。体のだるさや重さは消え、普段と変わらずぬ生活ができるほどに。今にでも動き出したいメルリアを、大事を取って今日まで休めと引き留めたのはクライヴとリタの二人がかりだった。
「うん……。借りてたお部屋、明日ちゃんとお掃除するからね」
ひらひらと手を前後に振っていたリタだったが、手の動き左右に変える。
「いいっていいって。それに、一番頑張ったのはクライヴだよー」
リタの言葉にクライヴは目を丸くした。驚きが消えないまま、メルリアは彼の顔をのぞき込む。すると、その金色の瞳がわずかに揺れた。
何か伝えなければとメルリアが迷っていると、リタが耳元でささやく。
「だから、お世話になった相手にちゃんとお礼しないとね」
メルリアは静かにうなずいた。
魔女の村では終始クライヴに世話になりっぱなしだった。魔獣の件も、熱に浮かされていたときも。一昨日食べたスープに入っていた豆は、クライヴ達がわざわざ潰してくれたものだという。それだけじゃない。ここ最近はずっと体調のことを気遣ってくれた。
たき火の炎がパチリと弾け、火の粉が周囲に散った。その光は幾ばくか空中に滞在した後、森に溶け込むように色を失っていく。
メルリアは胸の前でぎゅっと手を握ると、彼の目を見据える。いたたまれなさとわずかな居心地の悪さに視線が泳ぎそうになるクライヴだったが、それをなんとか抑え、同じようにメルリアの瞳を見た。彼女の瞳は青く澄んだ色をしている。
「クライヴさん、ありがとう」
クライヴは両手を前に出す。いや、と否定しようとしたが、その言葉はうまく出てこない。照れくさそうに視線をそらすと、困ったように笑顔を浮かべた。自然に微笑むメルリアとは対照的だ。
「大したことはしてないよ」
顔に当たるたき火の炎が熱いという風を装って、クライヴは空を仰いだ。
穏やかな空気と、気もそぞろな空気。落ち着く静寂、落ち着かない静寂。いまいちどこかかみ合わない二人の距離を、たき火の熱が曖昧にぼかしていく。
その二つの色をはっきりと見分けたリタは、不意に立ち上がった。
「じゃー、私は明日の準備しよっかな。おやすみなさーい」
ふらふらと手を振るリタに、二人はおやすみと言葉をかけて見送る。普段と同じように、広場中央のツリーハウスの中へ姿を消した。クライヴは静かに、メルリアは名残惜しそうにその背中を見つめていた。
ざあざあと木々がざわめき、目の前で揺らめく炎が風を受けて柔らかく曲がった。天に昇らんとするが如く、時折それが高く伸びる。
メルリアは形を変え続ける炎をぼんやり見つめながら、漠然と考えていた。
……明日、自分は魔女の村を出発する。約束通り夜半の屋敷へ向かい、シャムロックが詳しいという花について尋ねることになるだろう。久しぶりの旅の再開だ。どこまでの話が聞けるのか、どれくらい祖母との約束が近づくのか――。それが楽しみだった。思わず笑みがこぼれる。しかしその途端、胸の奥に得体の知れない感情があることに気づき、首をかしげた。快か不快で言ったら不快に近い、暗い感情。どうしてそれが存在するのか、自分がどう思っているのか、これはどこからわき上がってくるのか、よく分からなかった。
「メルリア。明日、ミスルトーを出た後の話なんだけど」
クライヴの何気ない一言に、メルリアははっと顔を上げた。その言葉にドキリとする。心の奥が通じていたような、不思議な感覚があった。
「俺も途中まで一緒に行かせてくれ」
先ほどの迷うように頼りない様子とは異なり、彼はじっとこちらの目を見ていた。
その問いを受け、メルリアは言葉を詰まらせた。普段ならすぐに大丈夫だと誘いを断るところだが、今日は違った。そこまでしてもらうのは悪いと思う。けれど、一人で街道を行くのは少し怖い。おずおずと顔を上げると、窺うような視線を向けた。
「……迷惑じゃない?」
「ああ」
しっかりとうなずくクライヴを見て、メルリアは胸の違和感――そこにある不快感が緩和されたような気がして、ほっとため息をつく。
二人の間に穏やかな風が抜ける。木の葉が舞い、湿気をはらんだ土の匂いが漂った。背中から吹く風は、目の前で燃え続けるたき火の炎を遠ざけた。わずかにそれが離れただけで、体の熱が一、二度下がったような感覚がある。クライヴは遠ざかる熱を見つめながら、手を組んだ。
「メルリアは探していた花が見つかったらどうするんだ?」
メルリアは言葉を失った。旅の終わりの後のことなど考えたこともなかったからだ。
ロバータが他界してから、まもなく三年が経つ。その間、メルリアは祖母との約束を叶えるためだけに精一杯生きてきた。エプリ食堂で働いて旅費を稼ぎ、ベラミントを出てからは花の手がかりを求める日々。あの約束を一日でも早く叶えたい。それだけだった。だから、本当に見つけた後のことは……。自分のためにやりたいことはない。いずれきちんとした仕事を探すべきだとは思っているが、その当ては何もない。働きたい職種も思い当たらない。メルリアの頭が、やがて真っ白になっていく。
「……考えたこと、なかった」
行き着く先がないことに気づいた途端、そう零していた。膝に置いた手をきゅっと掴むと、スカートに皺ができる。
漠然とした様子で告げるメルリアに対して、クライヴは深呼吸を繰り返していた。話題を切り出すために、ドクドクと脈打つ心臓を落ち着けるために。口の端が落ち着かぬように何度も形を変える。やがて意を決したクライヴは、すっと短く息を吸った。その一瞬、鼻腔を刺激する甘い匂い。砂糖菓子とも、お化けリンゴとも異なる、花の蜜に近いような。疑問には思ったが、それに構わず手を伸ばす。右手がメルリアの肩に触れ、その感触に彼女は顔を上げた。二人の目が合う。
「――ッ!」
「え……」
二人は驚きに目を見開いたが、両者とも動くことができない。
根元から崩れたたき火が、ひときわ大きな音を立てて火の粉をいくつも散らした。無数の粉が森の宵闇に吸い込まれて消えていく。炎の形がバランスを崩した右方へと湾曲し、そしてまた燃え続ける。
「く、そ……」
クライヴだけが感じている甘い匂いは、やがてむせ返るほど強く濃く変わる。喉の奥がじわりじわりと疼きはじめた。ここで彼はようやく理解する。あの症状だ、と。苦しげに目を細め、メルリアから手を離す。眉間に深い皺を寄せ、口元を手で押さえた。べっとりと湿った感触が気持ち悪い。肩で繰り返す呼吸は浅く、頬に汗が流れ落ちた。指の隙間からは荒い気息。それは言葉を失った獣のようだった。
「クライヴさん……?」
メルリアは恐る恐るクライヴに手を伸ばした。これに居合わせるのはもう三度目になる。彼に以前聞いた症状とはこの事だろう――様子のおかしい彼を気にかけるが、それを問うことはしなかった。彼に余裕がないのは、火を見るより明らかだ。
「水、持ってくるね?」
メルリアはゆっくりと立ち上がる。返事はない。苦痛に歪む表情を一瞥した後、彼に背を向けて歩き出した。瞬間、左腕が冷たい手に引っ張られる。衝撃に歩みを止めざるを得なくなった。クライヴの親指が、上腕骨を滑る。その力は強く、締め付けられるようにじんと痛んだ。
「俺が欲しいのは、水じゃない……」
聞こえた音は酷く掠れて、やつれ、普段のクライヴからは想像もできないほど疲れた声だった。
メルリアはその腕を振り払わなかった。じんわりと残る痛みに耐えながら、彼の様子を窺う。
「俺が欲しいのは……!」
絞り出すようなか細い声を漏らしたかと思うと、クライヴははっと目を見開く。突き放すように手を離すと、数歩後ずさった。荒い呼吸を繰り返したまま、背後を確認し、黙って走り去った。その動きに躊躇はない。その姿はあっという間に森の闇に紛れ消えていく。
勢いをなくしたたき火の炎が静かに揺れ、灰色の煙だけが空の穴に向かってか細く伸びていく。
メルリアはその場に立ち尽くした。
どうしたらいいのか分からなかった。
テーブルには使い終わった皿が何枚も積み上げられ、てっぺんにはナイフとフォーク、スプーンが乱雑している。空になったグラスの山、底に薄い茶色を残すティーポット。
空には満天の星が広がり、少し痩せた月が顔をのぞかせる。青緑色の枝枝が音もなく揺れ、枝から離れた葉が風に乗ってゆっくり地面へ落ちる。森の木々はそれを受け止めるよう、ただそこにあった。まさに宴の後である。
そんな中、メルリア、クライヴ、リタの三人は、たき火の傍らに腰掛け、揺らめく炎を見つめていた。
「クライヴ、メルリア、ちゃんと旅支度はしておくんだよ? 忘れ物したら大変だからねー」
――アラキナの宣言通り、翌日にはメルリアの熱がすっかり落ち着いていた。体のだるさや重さは消え、普段と変わらずぬ生活ができるほどに。今にでも動き出したいメルリアを、大事を取って今日まで休めと引き留めたのはクライヴとリタの二人がかりだった。
「うん……。借りてたお部屋、明日ちゃんとお掃除するからね」
ひらひらと手を前後に振っていたリタだったが、手の動き左右に変える。
「いいっていいって。それに、一番頑張ったのはクライヴだよー」
リタの言葉にクライヴは目を丸くした。驚きが消えないまま、メルリアは彼の顔をのぞき込む。すると、その金色の瞳がわずかに揺れた。
何か伝えなければとメルリアが迷っていると、リタが耳元でささやく。
「だから、お世話になった相手にちゃんとお礼しないとね」
メルリアは静かにうなずいた。
魔女の村では終始クライヴに世話になりっぱなしだった。魔獣の件も、熱に浮かされていたときも。一昨日食べたスープに入っていた豆は、クライヴ達がわざわざ潰してくれたものだという。それだけじゃない。ここ最近はずっと体調のことを気遣ってくれた。
たき火の炎がパチリと弾け、火の粉が周囲に散った。その光は幾ばくか空中に滞在した後、森に溶け込むように色を失っていく。
メルリアは胸の前でぎゅっと手を握ると、彼の目を見据える。いたたまれなさとわずかな居心地の悪さに視線が泳ぎそうになるクライヴだったが、それをなんとか抑え、同じようにメルリアの瞳を見た。彼女の瞳は青く澄んだ色をしている。
「クライヴさん、ありがとう」
クライヴは両手を前に出す。いや、と否定しようとしたが、その言葉はうまく出てこない。照れくさそうに視線をそらすと、困ったように笑顔を浮かべた。自然に微笑むメルリアとは対照的だ。
「大したことはしてないよ」
顔に当たるたき火の炎が熱いという風を装って、クライヴは空を仰いだ。
穏やかな空気と、気もそぞろな空気。落ち着く静寂、落ち着かない静寂。いまいちどこかかみ合わない二人の距離を、たき火の熱が曖昧にぼかしていく。
その二つの色をはっきりと見分けたリタは、不意に立ち上がった。
「じゃー、私は明日の準備しよっかな。おやすみなさーい」
ふらふらと手を振るリタに、二人はおやすみと言葉をかけて見送る。普段と同じように、広場中央のツリーハウスの中へ姿を消した。クライヴは静かに、メルリアは名残惜しそうにその背中を見つめていた。
ざあざあと木々がざわめき、目の前で揺らめく炎が風を受けて柔らかく曲がった。天に昇らんとするが如く、時折それが高く伸びる。
メルリアは形を変え続ける炎をぼんやり見つめながら、漠然と考えていた。
……明日、自分は魔女の村を出発する。約束通り夜半の屋敷へ向かい、シャムロックが詳しいという花について尋ねることになるだろう。久しぶりの旅の再開だ。どこまでの話が聞けるのか、どれくらい祖母との約束が近づくのか――。それが楽しみだった。思わず笑みがこぼれる。しかしその途端、胸の奥に得体の知れない感情があることに気づき、首をかしげた。快か不快で言ったら不快に近い、暗い感情。どうしてそれが存在するのか、自分がどう思っているのか、これはどこからわき上がってくるのか、よく分からなかった。
「メルリア。明日、ミスルトーを出た後の話なんだけど」
クライヴの何気ない一言に、メルリアははっと顔を上げた。その言葉にドキリとする。心の奥が通じていたような、不思議な感覚があった。
「俺も途中まで一緒に行かせてくれ」
先ほどの迷うように頼りない様子とは異なり、彼はじっとこちらの目を見ていた。
その問いを受け、メルリアは言葉を詰まらせた。普段ならすぐに大丈夫だと誘いを断るところだが、今日は違った。そこまでしてもらうのは悪いと思う。けれど、一人で街道を行くのは少し怖い。おずおずと顔を上げると、窺うような視線を向けた。
「……迷惑じゃない?」
「ああ」
しっかりとうなずくクライヴを見て、メルリアは胸の違和感――そこにある不快感が緩和されたような気がして、ほっとため息をつく。
二人の間に穏やかな風が抜ける。木の葉が舞い、湿気をはらんだ土の匂いが漂った。背中から吹く風は、目の前で燃え続けるたき火の炎を遠ざけた。わずかにそれが離れただけで、体の熱が一、二度下がったような感覚がある。クライヴは遠ざかる熱を見つめながら、手を組んだ。
「メルリアは探していた花が見つかったらどうするんだ?」
メルリアは言葉を失った。旅の終わりの後のことなど考えたこともなかったからだ。
ロバータが他界してから、まもなく三年が経つ。その間、メルリアは祖母との約束を叶えるためだけに精一杯生きてきた。エプリ食堂で働いて旅費を稼ぎ、ベラミントを出てからは花の手がかりを求める日々。あの約束を一日でも早く叶えたい。それだけだった。だから、本当に見つけた後のことは……。自分のためにやりたいことはない。いずれきちんとした仕事を探すべきだとは思っているが、その当ては何もない。働きたい職種も思い当たらない。メルリアの頭が、やがて真っ白になっていく。
「……考えたこと、なかった」
行き着く先がないことに気づいた途端、そう零していた。膝に置いた手をきゅっと掴むと、スカートに皺ができる。
漠然とした様子で告げるメルリアに対して、クライヴは深呼吸を繰り返していた。話題を切り出すために、ドクドクと脈打つ心臓を落ち着けるために。口の端が落ち着かぬように何度も形を変える。やがて意を決したクライヴは、すっと短く息を吸った。その一瞬、鼻腔を刺激する甘い匂い。砂糖菓子とも、お化けリンゴとも異なる、花の蜜に近いような。疑問には思ったが、それに構わず手を伸ばす。右手がメルリアの肩に触れ、その感触に彼女は顔を上げた。二人の目が合う。
「――ッ!」
「え……」
二人は驚きに目を見開いたが、両者とも動くことができない。
根元から崩れたたき火が、ひときわ大きな音を立てて火の粉をいくつも散らした。無数の粉が森の宵闇に吸い込まれて消えていく。炎の形がバランスを崩した右方へと湾曲し、そしてまた燃え続ける。
「く、そ……」
クライヴだけが感じている甘い匂いは、やがてむせ返るほど強く濃く変わる。喉の奥がじわりじわりと疼きはじめた。ここで彼はようやく理解する。あの症状だ、と。苦しげに目を細め、メルリアから手を離す。眉間に深い皺を寄せ、口元を手で押さえた。べっとりと湿った感触が気持ち悪い。肩で繰り返す呼吸は浅く、頬に汗が流れ落ちた。指の隙間からは荒い気息。それは言葉を失った獣のようだった。
「クライヴさん……?」
メルリアは恐る恐るクライヴに手を伸ばした。これに居合わせるのはもう三度目になる。彼に以前聞いた症状とはこの事だろう――様子のおかしい彼を気にかけるが、それを問うことはしなかった。彼に余裕がないのは、火を見るより明らかだ。
「水、持ってくるね?」
メルリアはゆっくりと立ち上がる。返事はない。苦痛に歪む表情を一瞥した後、彼に背を向けて歩き出した。瞬間、左腕が冷たい手に引っ張られる。衝撃に歩みを止めざるを得なくなった。クライヴの親指が、上腕骨を滑る。その力は強く、締め付けられるようにじんと痛んだ。
「俺が欲しいのは、水じゃない……」
聞こえた音は酷く掠れて、やつれ、普段のクライヴからは想像もできないほど疲れた声だった。
メルリアはその腕を振り払わなかった。じんわりと残る痛みに耐えながら、彼の様子を窺う。
「俺が欲しいのは……!」
絞り出すようなか細い声を漏らしたかと思うと、クライヴははっと目を見開く。突き放すように手を離すと、数歩後ずさった。荒い呼吸を繰り返したまま、背後を確認し、黙って走り去った。その動きに躊躇はない。その姿はあっという間に森の闇に紛れ消えていく。
勢いをなくしたたき火の炎が静かに揺れ、灰色の煙だけが空の穴に向かってか細く伸びていく。
メルリアはその場に立ち尽くした。
どうしたらいいのか分からなかった。