第61話 クライヴとハル3
文字数 4,144文字
魔女の村は決して夕刻を教えてはくれない。
深緑の木々は夕暮れ時の儚い光を飲み込むように奪い去ってしまうからだ。それ故、この村で夕暮れを知りたければ、広場へ向かうことだ。木々の間から唯一広い空を窺えるこの場所ならば、天を仰げば望む答えにたどり着けるのだから。
空色と橙色が入り交じったあやふやな色の半分を、濃い灰色の雲が覆う。その西側は燃えるように赤く、それは間もなく夜が訪れる事を意味していた。
弱々しい灰色の筋が一本、広場にぽっかり空いた森の穴に向かって上っていく。やがてその筋は徐々に太く、力強く変わっていった。
広場へ戻ってきたクライヴを待っていたのは、見知らぬエルフの男だった。名前はレニーという。見た目は二十歳前後。髪は短く、顔立ちの割に背が低い。
彼は、「事情はリタから聞いた。やることがないならこちらの手伝いをしてくれ」と言い出した。まだ夕方の少し前。ハルも見つからず、今のままでは手持ち無沙汰だ。それに、やはり世話になってばかりだというのは気が引けた。こちらに断る理由はなく、彼の雑用を手伝うことになったのだ。
木箱の運送に荷台の修理、薪の補充――。今はちょうど、夕飯に使う食材の運送を手伝ったばかり。クライヴは五キロ程度のお化けカボチャを両手で運び、簡易的に設置された調理場の隣に音を立てぬようゆっくり置いた。紫色の皮目の中に、動物の顔のような模様が黄色く浮かび上がっている。一瞬それと目が合ったような気がして、クライヴは全力で目をそらした。額の汗を右腕ででぬぐい、ため息をつく。
「レニー。ここに置いたぞ」
「分かった」
レニーはそれだけ答えると、広場におこしたたき火へ新しい薪を一本投げ入れた。頼りなく揺れていた炎の中に、がらんと重い音を立てて新たな燃料が投入される。薄黄色の木の肌が、次第に炎に包まれその色ごと飲み込んでいく。パチッと音が響くと、土台になった薪の足場がわずかに崩れた。
火の様子は安定しているようだ。一部始終を目で追っていたクライヴはほっとため息をつく。
火をおこしたレニーはというと、さっそくカボチャの泥や土を落としていた。魔法でまな板の上にカボチャを移動させると、手にした包丁を突き刺す。顔のような模様がぱっくりと真っ二つに割れた。
「何か他に手伝うことはあるか?」
レニーは一瞬手を止めた。広場から上る煙の線を目で追いながら、天を仰ぐ。西側の空は未だ橙色に染まっているが、辺りを浮かぶ雲は灰色と白が混ざった静かな色合いだ。日没は近い。彼はゆっくりと首を振った。
「もうない。強いて言えば、あれの相手」
レニーは己の後ろを親指で指さした。クライヴがそちらへと視線を向けると、木の後ろからこちらを伺うハルの姿が見える。こちらと目が合うと、ハルは瞬時に目をそらした。しかし以前とは異なり、逃げる様子はない。周囲の様子を入念に確認しつつ、こちらへゆっくりと歩み寄ってきた。
クライヴは広場の橋によけられていた木製の椅子を二脚、火を囲むように置いた。それぞれ二脚ほどの間を作って。他人といえども広すぎるほどのスペースを空けたのにはわけがある。ハルにとってはその方がいいだろうと判断したからだ。ハルを椅子に座るよう促しながら、クライヴはゆっくりと尋ねる。
「落ち着いたか?」
「まあ……。先輩に聞かれたって分かった時は、心臓止まるかと思いましたけど」
ハルは苦笑しながら胸に手を置いた。ドクドクと早鐘を打つ心臓は、決して落ち着いているとは言い難い。それに構わずに、パチパチと音を立てて燃え続ける炎を見つめた。クライヴには目を合わせない。
ハルに倣って、クライヴもたき火に視線を向けた。風に揺られて炎の形がぐにゃりと歪む。
「あがり症と、暴走気味ってところを少し抑えられれば、ハルは十分大丈夫だと俺は思うよ」
ボッと音が立ち、火の粉が舞い散る。ハルはその光を視線だけで追った。
「全く興味ない俺とも、こうやって話ができるんだからさ。俺はいいとして、リタ以外にも話をしてみると楽しいかもしれないぞ?」
クライヴはたき火からほんのわずかに視線を逸らして笑った。したがらないだけで、決して他人と会話ができないわけではない。人と関わりたくないというのはもったいないが、ハルがその気になれば人と関わることができるということだ。
「……ぼくにとって、リタさんは特別なんです。あの人だけは」
ぽつりとつぶやいた何気ない言葉。そのつぶやきを聞いて、クライヴは咄嗟にハルを見た。顔に当たっていたたき火の熱がなくなり、顔全体の熱があっという間に引いていく。ハルは動かない。揺らめく炎の形にも、燃え上がる灰色の煙にも、時折散る火の粉にも視線を動かさず、ただただ黒く変色していく薪を見つめていた。
「そう、なのか……」
クライヴはゆっくりと視線を動かす。レニーが最後に投入した薪もすっかり色を失い、情けなく炎の中で横たわっている。傍に用意された薪を一本たき火に投げ入れると、再び弾けるような音を立てて炎が大きく燃え上がった。静かに風が吹き、細長い薪が高い炎に飲み込まれていく。
「……!」
一切視線を動かさなかったハルが顔を上げた。炎の奥に見えるツリーハウスから人が出てきたのだ。彼女はツリーハウスへ向けて何か喋った後、扉を閉めると、その場からこちらに向かって手を振る。その様子に、ガチン、とハルは石のように固まった。
クライヴからはその人物が誰かまで視認することはできなかったが、背格好とハルの様子を見るに、あれはリタだったのだろうと察する。さすがにすぐは無理だよな、と苦笑した。
リタはすぐにこちら隣のツリーハウスの扉を引く。しかし部屋には入らず、その入り口で漠然と立ち尽くしていた。五秒間の沈黙の後、リタは突然走り出す。
「ちょっ、大変~!」
息を切らせながら、リタは二人の傍に駆け寄ってくる。そのさなか、クライヴはチラリとハルの様子をうかがう。たき火のせいかリタが近くに来たせいかどちらかは判別がつかなかったが、顔を赤くしたまま微動だにしない。自分から話しかけた方がいいのかと考えつつ、クライヴは立ち上がる。
「どうしたんだ?」
リタはゆっくりと立ち止まると、肩を上下させ浅い呼吸を繰り返した。そのままツリーハウスを指さすが、すぐに言葉が出てこない。たった一日の付き合いでしかないが、リタがここまで慌てているのは初めて見た。疑問に腕を組みながら、彼女の言葉をじっと待つ。
やがて、リタは浅い呼吸のまま、首を横に振った。
「メルリア、見なかった? 今見たら、どこにもいないんだけど……!」
「――え」
ひときわ大きな音を立て、たき火の薪が形を崩す。その衝撃で、周囲に火の粉が荒々しく舞った。
クライヴは辛うじて首を横に振った。それを見るなり、彼の奥で包丁を振るうレニーに向けてリタが問う。
「レニーは知らない? 人間の女の子」
「見ていない。見たらとっくに報告している。少なくとも昼過ぎから四時前くらいにはいなかった」
二人の会話をぼんやりと聞き流しながら、クライヴは必死に昼から今までの記憶を辿っていた。昼過ぎは見ていないし、リタに薬の説明を受けた時も、ハルと広場にいた時も見ていない。川にいた時間はレニーが見ていないという。その後、レニーの手伝いをしていた間は、自分もレニーも広場から離れていた時があった。だったら、その間に……?
クライヴの頭が徐々に真っ白になっていく。すぐ近くで燃えるたき火の熱も感じず、薪が爆ぜる音も耳に届かない。ただただ呆然と立ち尽くしていた。
そんな中、ツリーハウスの間から一人のエルフが顔を出す。リタはその男に全力で手を振って、こちらへ来いと合図した。男のエルフ――ザックは面倒くさいと言った風に眉をひそめ、大きな欠伸をしながら歩み寄る。リタが手招きする手の速度に合わずマイペースな動きだ。痺れを切らしたリタは、三メートルほど空いた距離でも構わずに叫んだ。
「おーい、ザック! ねえ、人間の女の子見なかったー?」
「あ? 人間の女? あぁ、イリスが置いてったヤツか。川辺でボケーッとしてたなァ……」
ザックはだるそうに両腕を交互に伸ばしながらよろよろと歩いた。
クライヴはその言葉にはっと顔を上げる。男の姿を認識するなり、咄嗟に口を開いた。
「川辺って、さっきの川辺ですか」
「ん? オメェ、さっきの人間か」
ザックはくあっと大きな口を開けて、もう一度ゆっくり欠伸する。
嫌な予感、期待、緊張――それらで早鐘を打つ心臓の鼓動を、耳のずっと近くで聞きながら、クライヴはザックが口を開くのを待った。その遅すぎる動作が速く終わることを願いながら。
「ああそうだ、ハルのヤローがクッソ恥ずかしい告白してた場所――」
「ありがとうございます!」
たき火の傍で、ぼとっと何かが落ちた。ハルが椅子ごと地面に崩れ落ちた音だ。それにも気づかず、クライヴは言葉の途中で彼に頭を下げ、その場から飛び出した。一度しか来ていない道ではあるが、数時間前に往復した道だ。場所は覚えている――。大丈夫だと確信を持ち、クライヴは暗い森の中へ消えていった。
「ふーん、アイツ意外と根性あるなァ」
その後ろ姿を目で追いながら、ザックはケラケラと笑う。
対してリタはふっと視線を落とすと、たき火向こうにある塊を見つめた。
「あー……」
ハルが椅子ごと転倒したせいで、椅子の部品それぞれがバラバラに外れていた。パーツの部分部分が広場に散らばり、おまけに脚の一つは炎に飲み込まれている。ずいぶんと古いものだとはいえ、丁寧に使えばもう少し持ったかもしれない。
ザックは振り返ると、立ち尽くすリタを見てニヤニヤ笑う。
「お? なんだリタ、オメェ――」
「くだらない妄想している暇があったら椅子直して」
リタはぴしゃりと言い放つと、後は任せたからとツリーハウスへ戻っていく。
やれやれとザックはため息をつくと、椅子のパーツを周囲に散らばらせたまま寝っ転がるハルの傍に立つ。仁王立ちのまま、しゃがみもせずにそれを見下した後、彼の膝辺りを靴の先で軽く蹴った。
「起きろ、ハル」
動く気配はない。面倒くさいと頭をかきながら、ザックはもう一度欠伸した。
深緑の木々は夕暮れ時の儚い光を飲み込むように奪い去ってしまうからだ。それ故、この村で夕暮れを知りたければ、広場へ向かうことだ。木々の間から唯一広い空を窺えるこの場所ならば、天を仰げば望む答えにたどり着けるのだから。
空色と橙色が入り交じったあやふやな色の半分を、濃い灰色の雲が覆う。その西側は燃えるように赤く、それは間もなく夜が訪れる事を意味していた。
弱々しい灰色の筋が一本、広場にぽっかり空いた森の穴に向かって上っていく。やがてその筋は徐々に太く、力強く変わっていった。
広場へ戻ってきたクライヴを待っていたのは、見知らぬエルフの男だった。名前はレニーという。見た目は二十歳前後。髪は短く、顔立ちの割に背が低い。
彼は、「事情はリタから聞いた。やることがないならこちらの手伝いをしてくれ」と言い出した。まだ夕方の少し前。ハルも見つからず、今のままでは手持ち無沙汰だ。それに、やはり世話になってばかりだというのは気が引けた。こちらに断る理由はなく、彼の雑用を手伝うことになったのだ。
木箱の運送に荷台の修理、薪の補充――。今はちょうど、夕飯に使う食材の運送を手伝ったばかり。クライヴは五キロ程度のお化けカボチャを両手で運び、簡易的に設置された調理場の隣に音を立てぬようゆっくり置いた。紫色の皮目の中に、動物の顔のような模様が黄色く浮かび上がっている。一瞬それと目が合ったような気がして、クライヴは全力で目をそらした。額の汗を右腕ででぬぐい、ため息をつく。
「レニー。ここに置いたぞ」
「分かった」
レニーはそれだけ答えると、広場におこしたたき火へ新しい薪を一本投げ入れた。頼りなく揺れていた炎の中に、がらんと重い音を立てて新たな燃料が投入される。薄黄色の木の肌が、次第に炎に包まれその色ごと飲み込んでいく。パチッと音が響くと、土台になった薪の足場がわずかに崩れた。
火の様子は安定しているようだ。一部始終を目で追っていたクライヴはほっとため息をつく。
火をおこしたレニーはというと、さっそくカボチャの泥や土を落としていた。魔法でまな板の上にカボチャを移動させると、手にした包丁を突き刺す。顔のような模様がぱっくりと真っ二つに割れた。
「何か他に手伝うことはあるか?」
レニーは一瞬手を止めた。広場から上る煙の線を目で追いながら、天を仰ぐ。西側の空は未だ橙色に染まっているが、辺りを浮かぶ雲は灰色と白が混ざった静かな色合いだ。日没は近い。彼はゆっくりと首を振った。
「もうない。強いて言えば、あれの相手」
レニーは己の後ろを親指で指さした。クライヴがそちらへと視線を向けると、木の後ろからこちらを伺うハルの姿が見える。こちらと目が合うと、ハルは瞬時に目をそらした。しかし以前とは異なり、逃げる様子はない。周囲の様子を入念に確認しつつ、こちらへゆっくりと歩み寄ってきた。
クライヴは広場の橋によけられていた木製の椅子を二脚、火を囲むように置いた。それぞれ二脚ほどの間を作って。他人といえども広すぎるほどのスペースを空けたのにはわけがある。ハルにとってはその方がいいだろうと判断したからだ。ハルを椅子に座るよう促しながら、クライヴはゆっくりと尋ねる。
「落ち着いたか?」
「まあ……。先輩に聞かれたって分かった時は、心臓止まるかと思いましたけど」
ハルは苦笑しながら胸に手を置いた。ドクドクと早鐘を打つ心臓は、決して落ち着いているとは言い難い。それに構わずに、パチパチと音を立てて燃え続ける炎を見つめた。クライヴには目を合わせない。
ハルに倣って、クライヴもたき火に視線を向けた。風に揺られて炎の形がぐにゃりと歪む。
「あがり症と、暴走気味ってところを少し抑えられれば、ハルは十分大丈夫だと俺は思うよ」
ボッと音が立ち、火の粉が舞い散る。ハルはその光を視線だけで追った。
「全く興味ない俺とも、こうやって話ができるんだからさ。俺はいいとして、リタ以外にも話をしてみると楽しいかもしれないぞ?」
クライヴはたき火からほんのわずかに視線を逸らして笑った。したがらないだけで、決して他人と会話ができないわけではない。人と関わりたくないというのはもったいないが、ハルがその気になれば人と関わることができるということだ。
「……ぼくにとって、リタさんは特別なんです。あの人だけは」
ぽつりとつぶやいた何気ない言葉。そのつぶやきを聞いて、クライヴは咄嗟にハルを見た。顔に当たっていたたき火の熱がなくなり、顔全体の熱があっという間に引いていく。ハルは動かない。揺らめく炎の形にも、燃え上がる灰色の煙にも、時折散る火の粉にも視線を動かさず、ただただ黒く変色していく薪を見つめていた。
「そう、なのか……」
クライヴはゆっくりと視線を動かす。レニーが最後に投入した薪もすっかり色を失い、情けなく炎の中で横たわっている。傍に用意された薪を一本たき火に投げ入れると、再び弾けるような音を立てて炎が大きく燃え上がった。静かに風が吹き、細長い薪が高い炎に飲み込まれていく。
「……!」
一切視線を動かさなかったハルが顔を上げた。炎の奥に見えるツリーハウスから人が出てきたのだ。彼女はツリーハウスへ向けて何か喋った後、扉を閉めると、その場からこちらに向かって手を振る。その様子に、ガチン、とハルは石のように固まった。
クライヴからはその人物が誰かまで視認することはできなかったが、背格好とハルの様子を見るに、あれはリタだったのだろうと察する。さすがにすぐは無理だよな、と苦笑した。
リタはすぐにこちら隣のツリーハウスの扉を引く。しかし部屋には入らず、その入り口で漠然と立ち尽くしていた。五秒間の沈黙の後、リタは突然走り出す。
「ちょっ、大変~!」
息を切らせながら、リタは二人の傍に駆け寄ってくる。そのさなか、クライヴはチラリとハルの様子をうかがう。たき火のせいかリタが近くに来たせいかどちらかは判別がつかなかったが、顔を赤くしたまま微動だにしない。自分から話しかけた方がいいのかと考えつつ、クライヴは立ち上がる。
「どうしたんだ?」
リタはゆっくりと立ち止まると、肩を上下させ浅い呼吸を繰り返した。そのままツリーハウスを指さすが、すぐに言葉が出てこない。たった一日の付き合いでしかないが、リタがここまで慌てているのは初めて見た。疑問に腕を組みながら、彼女の言葉をじっと待つ。
やがて、リタは浅い呼吸のまま、首を横に振った。
「メルリア、見なかった? 今見たら、どこにもいないんだけど……!」
「――え」
ひときわ大きな音を立て、たき火の薪が形を崩す。その衝撃で、周囲に火の粉が荒々しく舞った。
クライヴは辛うじて首を横に振った。それを見るなり、彼の奥で包丁を振るうレニーに向けてリタが問う。
「レニーは知らない? 人間の女の子」
「見ていない。見たらとっくに報告している。少なくとも昼過ぎから四時前くらいにはいなかった」
二人の会話をぼんやりと聞き流しながら、クライヴは必死に昼から今までの記憶を辿っていた。昼過ぎは見ていないし、リタに薬の説明を受けた時も、ハルと広場にいた時も見ていない。川にいた時間はレニーが見ていないという。その後、レニーの手伝いをしていた間は、自分もレニーも広場から離れていた時があった。だったら、その間に……?
クライヴの頭が徐々に真っ白になっていく。すぐ近くで燃えるたき火の熱も感じず、薪が爆ぜる音も耳に届かない。ただただ呆然と立ち尽くしていた。
そんな中、ツリーハウスの間から一人のエルフが顔を出す。リタはその男に全力で手を振って、こちらへ来いと合図した。男のエルフ――ザックは面倒くさいと言った風に眉をひそめ、大きな欠伸をしながら歩み寄る。リタが手招きする手の速度に合わずマイペースな動きだ。痺れを切らしたリタは、三メートルほど空いた距離でも構わずに叫んだ。
「おーい、ザック! ねえ、人間の女の子見なかったー?」
「あ? 人間の女? あぁ、イリスが置いてったヤツか。川辺でボケーッとしてたなァ……」
ザックはだるそうに両腕を交互に伸ばしながらよろよろと歩いた。
クライヴはその言葉にはっと顔を上げる。男の姿を認識するなり、咄嗟に口を開いた。
「川辺って、さっきの川辺ですか」
「ん? オメェ、さっきの人間か」
ザックはくあっと大きな口を開けて、もう一度ゆっくり欠伸する。
嫌な予感、期待、緊張――それらで早鐘を打つ心臓の鼓動を、耳のずっと近くで聞きながら、クライヴはザックが口を開くのを待った。その遅すぎる動作が速く終わることを願いながら。
「ああそうだ、ハルのヤローがクッソ恥ずかしい告白してた場所――」
「ありがとうございます!」
たき火の傍で、ぼとっと何かが落ちた。ハルが椅子ごと地面に崩れ落ちた音だ。それにも気づかず、クライヴは言葉の途中で彼に頭を下げ、その場から飛び出した。一度しか来ていない道ではあるが、数時間前に往復した道だ。場所は覚えている――。大丈夫だと確信を持ち、クライヴは暗い森の中へ消えていった。
「ふーん、アイツ意外と根性あるなァ」
その後ろ姿を目で追いながら、ザックはケラケラと笑う。
対してリタはふっと視線を落とすと、たき火向こうにある塊を見つめた。
「あー……」
ハルが椅子ごと転倒したせいで、椅子の部品それぞれがバラバラに外れていた。パーツの部分部分が広場に散らばり、おまけに脚の一つは炎に飲み込まれている。ずいぶんと古いものだとはいえ、丁寧に使えばもう少し持ったかもしれない。
ザックは振り返ると、立ち尽くすリタを見てニヤニヤ笑う。
「お? なんだリタ、オメェ――」
「くだらない妄想している暇があったら椅子直して」
リタはぴしゃりと言い放つと、後は任せたからとツリーハウスへ戻っていく。
やれやれとザックはため息をつくと、椅子のパーツを周囲に散らばらせたまま寝っ転がるハルの傍に立つ。仁王立ちのまま、しゃがみもせずにそれを見下した後、彼の膝辺りを靴の先で軽く蹴った。
「起きろ、ハル」
動く気配はない。面倒くさいと頭をかきながら、ザックはもう一度欠伸した。