第96話 真実の話

文字数 3,441文字

 メルリアは乙夜鴉に導かれながら、今日何度も訪れたエントランスに向かって歩いていた。
 クライヴが了承した旨をテオフィールへ伝えた頃には、もうすっかり夜が更けていた。メルリアが時間に気づいたのは、曾祖父の前で大きなあくびをしてしまった瞬間だった。テオフィールは困ったように笑ってから、乙夜鴉へ指示を出す。大事な曾孫を、客室までちゃんと案内するように――と。おやすみなさいと頭を下げて、メルリアは曾祖父の部屋を後にしたのだった。

 時折聞こえる乙夜鴉の羽音に、はっきり耳にする自分の靴音。月満草がもたらす軌跡を目で追いながら、胸の前で手を握った。曾祖父のおやすみなさいの声が懐かしかった。廊下に広がる闇の景色に、かつての記憶を重ね合わせる。眠い目をこすりながら、ロバータとテオフィールにおやすみなさいを言いあってからベッドで眠るのが日課だった。今は祖母の声は聞こえない。けれど、テオフィールの声が聞けただけでも、あの時に戻れたようで嬉しかった。
 メルリアの思考が、やがて今へと引き戻される。次に暗闇に浮かび上がったのは、クライヴの姿である。あの時、おやすみなさいと声をかけるべきだっただろうか――そこまで考えて、はっとする。街道を行く間も、エルフの村に滞在している間も、よくおはようとおやすみを言い合っていた。見知らぬ土地ばかりを歩き回った彼女にとって、見知った人物であるクライヴの存在は心の支えとなっていた。不意に昨晩のことを思い出す。先におやすみなさいと声をかけたのはメルリアの方だ。また明日と笑い合うあの時は嬉しかった。
 嬉しかった、のだけれど。そこまで思い至ると、メルリアは歩みを止めた。
 ……今日は少しだけ、何かが違う。
 メルリアは足下に広がる暗闇を見つめる。光を許さぬ空間では、足下の色も――革靴の光沢すら、見ることはない。
 シャムロックは話はあらかた済んだと言っていた。まだ終わったとは言っていない。だから今自分が顔を出すことは間違っている――。それを頭では理解しているのに、胸の奥がじくりとした。とても寂しい事だ、と思ってしまったからだ。
 遠く薄くなる月満草の光にはっとすると、乙夜鴉の存在を見失わぬよう、慌てて暗闇へ駆けていった。

 乙夜鴉がメルリアを案内したのは、屋敷の二階だった。
 階段から二階の廊下へ沿って、柔らかすぎる感覚が、両の足裏から全身に広がる。背中や腰のあたりがむずむずと落ち着かない感覚に、思わず体をこわばらせた。関節のあたりからぎいぎいと音が鳴りそうなほど体を縮こめ、階段を上っていく。一段一段上がっていくたびに妙な声を出しそうになるが、はしたないだろうと唇を噛んで声を抑えた。メルリアも立派な庶民である。
 やがて、壁や廊下の形が青白く浮かび上がっていく。二階の窓も、カーテンは開いたままだ。窓枠の形を曖昧に描きながら、廊下に枠組みの影を落とす。月明かりが成す夜の影が、ただ淡々とそこにあった。床に落ちた影を見つめていると、その影の窓枠に一羽の鳥が過ぎ去っていく。道案内を担う乙夜鴉が落とした影だ。メルリアはその様子に瞳を輝かせながら、後を追った。
 音もない、光も足りない、冷たさばかりを思わせる夜半の屋敷。それを怖いと思わない理由は二つ。一つは、彼女の血の中には月夜鬼の色が流れているから。もう一つは、この屋敷を、月夜鬼を、心から信頼しているからである。彼らの生きている世界をもっと知りたいと思った。暮らしている場所を、見ているものを。そんなメルリアは、恐怖を抱きようがないのだ。
 不意に、乙夜鴉が何かを避けるよう大幅に窓側へ逸れた。どうしたのだろうかと考える余裕もなく、その答えが先に視界に映った。それは乙夜鴉をちらりと視界に入れると、つまらなそうに視線をそらす。
「あなた、何をしているの?」
 はあ、と大げさなため息を一つ漏らして、苛立ちを隠さぬよう彼女は腕を組んだ。窓から漏れる月の光が、彼女――エルヴィーラの白い肌と、癖のある長い髪をはっきり映し出す。相変わらず闇に溶ける色の衣装を身にまとっていた。彼女が赤い目を伏せると、壁に掛けられた室内灯の上に乙夜鴉が降り立つ。
 まるで威圧しているかのような物言いに、メルリアはびくりと体を震わせる。この屋敷の中で最も夜目の利かぬ彼女にとって、その感情がどれに向けられているか理解することはできない。どうやらエルヴィーラは自分のした何かのせいで機嫌が悪いらしい――と誤認するほどに。
 何かを言おうと腕を動かすと、衣擦れの音が大げさに響く。すると、その音に気づいたエルヴィーラがゆっくりと目を開いた。赤い瞳が、窓から漏れる月の光を受け止める。物憂げに閉じられていた瞳が、瞬時に見開いた。
「メル? どうして……?」
 苛立ちで眉を寄せていたエルヴィーラの表情が瞬時に変わり、彼女は反射的に右足を一歩、後ろへと引く。両腕を体の後ろへ動かし、背中で自分の両手を握る。落ち着かない様子だった。
「ウェンディさんとひいおじい様――テオフィールさんが、今日はここに泊まっていいって。だから、乙夜鴉さんに道案内してもらっていたんです」
 メルリアは室内灯の上に留まる乙夜鴉へ視線を向けた。
 エルヴィーラの非難を受けた乙夜鴉が、そうだそうだと強調するように首を前後に振った。そのたびに月満草から光が零れる。
「そう……」
 エルヴィーラはメルリアから視線をそらしたまま、素っ気なく返事をした。そしてそのまま会話が途切れてしまう。
 メルリアはエルヴィーラに伸ばしかけた手を膝の横へ下ろすと、廊下に伸びる窓の影に視線を落とした。どうやらもう怒っているわけではないようだ。けれど、まだ元気がないように思う。
 別れ際に言った言葉を気にしているのかな? なんて言ったらいいのだろう。大丈夫です? それじゃあ、抽象的すぎるかもしれない。嫌いじゃない……だったら、好き? それは言いたい気持ちと逸脱しすぎている。いくつもの言葉を頭の中に思い浮かべては、それではだめだと首を振る。正しい言葉が思いつかない。言葉がまるで出てこない。こんな時、どう伝えるべきが正しいのだろう。
 先ほどまで気にも留めなかった静寂が、今となっては重荷となってのしかかってくる。
 なんて言おう。どうやって声をかけるべきだろう――そう考えた途端、脳裏にある映像が浮かぶ。エピナールの外れでエルヴィーラと見たあの湖だ。夜空を鏡のように映し出す巨大な湖。その水面は、まるでそこに生まれた夜空のよう。水に手を浸せば、まるで月に触れられるような不思議な気分を味わった。メルリアはそこでの出来事をひとつずつ思い出しながら、一歩一歩前へ踏み出す。十分すぎるほど離れたエルヴィーラとの距離を埋めるように。
「……私、ひいおじい様とお話しして、分かったことがあるんです」
 そうすれば、言葉を考えずとも自然に出てくる。
 エルヴィーラはメルリアの動きに再び目を丸くした。一歩後ろへ下げた右足にすがるように、左足も後ろへ、そしてそのまま一歩退く。取った距離は、一歩にしてはずいぶんと控えめだった。
「エルヴィーラさんと初めて会った時に感じた、懐かしい感じとか、落ち着くって気持ち……それって、私の中に月夜鬼の血が混じってたからだって。今だったら分かるんです」
 言いたいことも、伝えたいことも。
 頭の中で考え込まずに出てくる言葉の方が、メルリアにとっては自然だった。肩の力が抜けたまま、優しく微笑みかける。エルヴィーラが再び距離を取ろうと、右足を動かした事を知るよしもなく。
「だから……私は最初から、エルヴィーラさんが嫌いになんてなれるはずがないんです」
 エルヴィーラは後ろへ向けた右足を前へ出すと、二人の間にあった数歩分の空きを自ら埋めていった。靴先が軽やかに地面を叩き、もたれかかるようにメルリアを抱きとめた。
 メルリアは数歩後退するが、きちんとそれを受け止める。
 言葉は聞こえない。表情も見えない。エルヴィーラの気持ちは、態度から推し量るしかなかった。細く白い腕に抱き留められながら、ゆっくりと続けた。
「エルヴィーラさんのことが大好きです。大切に思ってます」
 視界に入ったエルヴィーラの頭が、こくりとうなずく。胸の奥に広がる心地よい親愛の熱に、メルリアは目を閉じた。
 今日は抱きしめられてばかりいる。月夜鬼の体温は人間とは違い、ずっと冷たい。
 けれど、そのどれもメルリアにとっては温かいものだった。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

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メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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