第97話 月夜鬼達の夜

文字数 4,064文字

 夜の闇を密やかに照らす月は空の真上に昇り、夜の深さを物語る。月明かりを受け、窓枠の銀がそれを反射した。
 客人の去ったリビングはしんと静まりかえっていた。用意された夕食はとうに片付けられ、広々としたテーブルにはワイングラスがふたつ。それぞれ注がれているのは赤ワインだ。グラスの縁で光る赤は、月夜鬼の瞳の色を思わせる。
 部屋の隅には二つの人影があった。エルヴィーラはシャムロックの左肩に体を預けながら、ワイングラスのふちをじっと見つめていた。部屋の窓は開いていない。ここには風がない。室内灯は揺れない。ワイングラスが揺れるはずもない。ふちを煌めかせる光源がわずかに揺れて見えるのは、彼女の体が呼吸によって動いているせいだった。
 エルヴィーラはその光源を見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。
 この部屋を訪ねてきたばかりのエルヴィーラの目は赤く、頬には涙を流した跡がいくつも残っていた。何かがあったことは明白だが、シャムロックはあえてそれに触れなかった。求めるように足早にこちらへ駆けてくる彼女を見て、ソファに一人分の空間を空けることはしたが。
 エルヴィーラの状態に特別触れないのはウェンディも同じだった。彼女がシャムロックの隣に腰掛けるのを見るやいなや、ティーカートに用意してあったワイングラスを用意すると、エルヴィーラの気に入りの銘柄を注ぐ。一声かけることもせず、彼女は音もなくその場から立ち去った。
 しばらくの静寂の後、シャムロックはエルヴィーラの表情を窺った。目を閉じたままだが、眠っている様子はない。彼女の呼吸は、彼女がここに来たばかりの時よりも、幾分か落ち着きを取り戻していた。
「落ち着いたか?」
 エルヴィーラはその言葉にゆっくりと瞬きする。体は動かさない。先程と同じように、ワイングラスの縁の煌めきに目をやった。
「……シャムのこと、疑ってたわけじゃないわ」
 彼の声から数拍空けて、ようやくエルヴィーラは口を開いた。ぽつりと言葉を零しながら、つい数刻前のことを回想する。
 あの廊下の時間の後、自室でシャムロックと二人きりになったエルヴィーラは、心の内を震えた声で吐き出した。自分が人間でないことを知ったら、メルリアに嫌われてしまうかもしれない。避けられるかもしれない――と。今にも泣きそうな表情の彼女を見て、そんなことはないとシャムロックは優しく否定する。あの子はきっと怖がったりはしないよ、とも諭した。
 ヴェルディグリでメルリアと会った時は、このまま三人で屋敷へ戻れたらと願った。その時は、月夜鬼であることを話す事になんの抵抗もなかった。だというのに、時間が経つにつれて、期待とともに不安も増していく。会えない時間が増えれば増えるほど、それは鮮明に心の内に現れた。あなたに会いたい、もっと話がしたい、あなたのことを知りたい。初めてできた人間の友達。だけどあなたが真実を知るのが怖い。怖がられるのが、怖い。その感情は、慰めであり真実をついた彼の言葉を信じ切れぬほど肥大化していた。
「……本当に身勝手」
 己に向けてつぶやくと、エルヴィーラはため息をついた。音の余韻が闇に溶け消える。
 慰めの言葉も素直に受け入れられなかった。本人からも、周りから否定された言葉も信じられなかった。けれど――。「最初から嫌いになれるはずがない」と笑ったメルリアの表情が、エルヴィーラの胸の奥に再び染み込んでくる。すっかり涙が引いたはずの目頭が熱を持った。
「この七日間、俺はメルリアと一緒にいたが……」
「七日も? シャムばっかりメルと一緒にいてずるいわ」
 エルヴィーラはほんの少し上擦った声で割り込む。不満そうに眉をひそめた後、いたずらっぽく笑った。シャムロックに体を預けたまま、彼の表情を窺う。彼は困ったような笑みをしていた。
「その中で、あの子が本当に優しい子だと知った。裏表がないし、心の底から他人を思いやる事ができる。だからこそ、大丈夫だと思えたんだ」
 シャムロックは、先ほどまでメルリアが座っていたソファの空間を見つめた。自分を見る目も、クライヴを見る目も真っ直ぐだった。きっと、エルヴィーラを見る目も同じだったのだろう。
「うん……」
 エルヴィーラはか細い声でうなずいた。そして、ゆっくりと上体を起こす。ソファに背筋を伸ばして腰掛けると、ウェンディの用意したワイングラスに手を伸ばした。赤ワインの深い色が鮮明に、ただそこにある。グラスを揺らせば、ふっと上ってくるアルコールとブドウの匂い。その中に、赤ワイン特有の苦みを思わせるものが混じった。エルヴィーラはその苦みが好きだ。目を細め、赤ワインと空気の境目だけを見つめる。
 しばらくそうした後、グラスに口をつける。ほんのわずかな量を、舌の上で味わうように転がした。しばらくして飲み下すと、胃の中にすっと落ちていく。喉の渇きが治まるとともに、彼女に足りないものが満たされていく感覚があった。
 続けて、シャムロックもワイングラスを手に取った。香りをそこそこに楽しみ、彼もまたわずかな量を口に含む。エルヴィーラはその様子をじっと見つめていた。黄昏を思わせる金髪の縁がわずかに烟る。彼の横顔は普段と変わらぬ整った顔立ちだ。アルコールを摂取したことにより、瞳の赤が濃い色へと変わる。
 ひっそりとした空間に、大切な人と二人きりでいる。心地がいい、とても――。エルヴィーラは手元のワイングラスを見つめながら、胸の奥が満たされていくことを感じていた。
 ふと、視線が正面へと向く。視界に映ったのは、今自分が座っているものと同じソファだ。その中央に人のいた跡をはっきり見ると、静かに眉を上げる。
「……そういえば、シャムのお客様の半夜はどうだったの? 彼はずいぶんと血の匂いが濃い子だったけれど」
「クライヴか」
 シャムロックはワイングラスを置くと、先ほど彼がいた空白を見つめた。
「彼は月夜鬼の血の濃さに加え、自分が何者かを知らないせいで、ずいぶんと苦労してきたようだ」
 街道の宿酒場で、そして屋敷のこの部屋で真実を知ったクライヴの表情を、シャムロックはその空白に重ねた。数刻前と、数日前の出来事が、目の前に浮かびあがるように蘇る。動揺していた様子もあったし、混乱しているようでもあった。しかし最後には安堵の表情を浮かべ、笑顔も見せるようになった。それは心からのものであると、シャムロックは本能的に理解している。数日前の、こちらを疑う鋭い視線がすっかり消えたことも。
「人間の特徴もあるが、こちらの常識が当てはまる部分も多い。定期的に俺達と同じ食事をしなければならないようだし」
「半夜なのに?」
 思わず目を丸くしたエルヴィーラに、シャムロックは黙って頷いた。
 ただでさえ半夜という存在は珍しいが、その中でもクライヴは特別だ。長い時間を生きている彼らでも、クライヴほど血の濃い半夜は知らなかった。
「血……、ね」
 エルヴィーラはつぶやくと、手にしたワイングラスをくるくると揺らした。やがて水面が凪ぐと、そこに彼女の表情が浮かび上がる。赤ワインの鮮明な色に、月夜鬼の瞳の色――、生きものに流れる生命の色。様々なものをそこに重ね合わせる。ふと、視界の奥にあるガラスのテーブルが青白く光った。赤ワインの色と、月光がもたらす青白い光。赤と青は対の色。エルヴィーラはその色にメルリアの姿を重ね合わせる。その光を見つめながら逡巡していたが、その思考が不意に止まる。こちらへ近づく足音を聞き取ったせいだ。
 軽快なノックの音が四、五回響く。妙なリズムを刻むそれは、ウェンディのするものでないことは明白だ。エルヴィーラはシャムロックから拳三つ分の距離を取る。それと同時に扉が開いた。
「シャムロック、ここだったんだね。あ、エルヴィーラもいたんだ」
 エルヴィーラは形だけの会釈をした後、彼から顔を背ける。ゆっくりと流れる時間は終わりを告げた。腹いせに、少し多めに赤ワインを口に含む。苦みが舌先にまとわりつくような感覚が残った。
「仕事の話か?」
 仕事――その言葉にエルヴィーラの体がぴくりと反応する。
「あー……いや、そうじゃないんだ」
 テオフィールは客人のいなくなったソファに腰掛ける。ソファの弾力に体の自由が奪われ、そのまま偉そうに両手を投げ出し、彼はソファに納まった。完全に体の自由を奪われたテオフィールは、天井に向けて力ない笑い声を漏らす。室内灯の明かりをぼんやりと見つめたまま、ばつが悪そうに頬を掻く。
「どうかしたのか?」
 シャムロックが静かに問いかけると、テオフィールは返事の代わりに曖昧に笑った。作り笑いをふっと崩すと、座り心地のよすぎるソファに正しく腰掛ける。シャムロックは真っ直ぐにこちらを見ていた。傍らに座るエルヴィーラは、自分を視界から外していた。それを見て再び作り笑いを浮かべる。その表情が剥がれ、また表情に貼り直し、を三度ほど繰り返すと、テオフィールは一つ咳払いした。彼の視線が次第にガラスのテーブルへと落ちていく。そこに反射した室内灯の明かりの数を十ほど数えた後、ようやく口を開いた。
「人間の……墓参りって、どうすればいい?」
「メルリアとのことか?」
 本題に触れると、テオフィールはこわごわと顔を上げた。一度だけうなずくと、膝の上で両手を揉みながら付け足す。
「……ほら、墓標を立てるのも、墓参りも、月夜鬼にはない風習だからさ――。シャムロックはその辺、詳しいでしょ?」
 必死に取り繕った笑顔で、身振り手振りを交えテオフィールは言う。少々過剰な動きではあるが、彼の両手や唇の端はわずかに震えていた。脈拍は早く、口の中が不自然に乾いていく。シャムロックの視線が、その手や唇に向いている事すら気づけなかった。
「ああ、構わない」
 その返答に、テオフィールの表情が瞬時に明るく変わった。先までの作り笑いとは異なる、本当の意味での笑顔だった。

 夜に浮かぶ月がやがて西へと傾いてゆく。
 今宵、夜半の屋敷に話題が絶えることはなかった。
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登場人物紹介

◆登場人物一覧

┗並びは初登場順です。

┗こちらのアイコンは公式素材のみを使用しています。

メルリア・ベル


17歳。

お人好し。困っている人は放っておけない。

祖母との叶わなかった約束を果たすため、ヴィリディアンを旅することになる。

フィリス・コールズ


16歳。

曖昧な事が嫌いで無駄を嫌う。
シーバの街で、両親と共に「みさきの家」という飲食店を経営している。

クライヴ・シーウェル


22歳。

真面目。お人好しその2。

理由あって旅をしており、メルリアとよく会う。

ネフリティス


27歳(人間換算)

都市に工房を持つエルフの錬金術師。

多少ずぼらでサバサバしている。

イリス・ゾラ


21歳。

隣国ルーフスの魔術師。闇属性。

曲がったことが嫌い。

リタ・ランズ


16歳(人間換算)

魔女の村ミスルトーで暮らしているエルフ。
アラキナのストッパー兼村一番のしっかり者。

ウェンディ・アスター


不明(20代後半くらいに見える)

街道の外れの屋敷で働くメイド。

屋敷の中で一番力が強い。

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