第11話 みさき家の手伝い2
文字数 5,363文字
翌日――。
昼の営業時間は残り十分を切った。メルリアはテーブルを拭きながら、今日と昨日の客の様子を思い浮かべていた。
昨日までの客は、みさきの家をよく使う常連の客の顔ぶれが多い。グレアム、テレーゼ、フィリスの三人の客に対する距離が近く、メルリアにも常連の客だとすぐに分かった。その上、新しく雇ったのかと聞く客も少なくはなかったからなおさらのことだ。
対して、今日は一見の客が多かった。みさき家の三人に友好的に話しかけてくる客は一人としておらず、メニューの内容について問われることも珍しくはなかった。また、来る客来る客がどこか見慣れない雰囲気を纏っている。それは、服装、しゃべり方、顔立ちなどにはっきりと現れていた。
「お祭りって、明日からだったよね?」
メルリアは掃除の手を動かしながら、厨房に立つフィリスに声をかけた。彼女は慣れた手つきで昼食の準備を始めている。
「そうよ。一日早くシーバに宿を取る外国の人も多いわ。今日みたいにね」
毎年そうなんだけどと付け足しながら、フィリスはフライパンの脇にスプーンを差し込む。ソースの味を見ながら、後ひと味足りないと頭を捻らせていた。
「明日からは今までと比べものにならないくらい忙しいから。頑張りましょうね」
「うん」
フィリスの励ましの言葉を素直に受け取ったメルリアは自然と笑顔を向けていた。フィリスは目の前の作業に集中し、それに気づくことはなかった。
カチリ、と時計の針が音を立てて動く。昼の営業時間終了まで残り五分となった。
明日からはお祭りだ。なんとか乗り切らないと。その前に、今日の休憩時間はどうやって過ごそう。誰かのお手伝いをした方がいいのだろうか……メルリアが今後のことについて悩んでいると、ドアが控えめに開く。扉を開けた茶髪の青年は、申し訳なさそうに言った。
「すみません、今からでも大丈夫ですか」
その言葉を聞き、えぇっと、と厨房に立つフィリスに判断を仰ぐ。フィリスは顔を上げると、作業の手を止めた。
「ええ、どうぞ。営業時間終了後は注文を受け付けられませんが」
「大丈夫です――そうだな」
メルリアはすっかり抜けていた気合いを入れ直し、男を席へと案内する。水と共にメニュー表を渡すと、男はそれにざっと目を通した。数秒考え込んだ後、男は口を開く。
「イカカツサンド。これ、お願いします」
「承りました、少々お待ちください」
男から差し出されたメニュー表を受け取ると、メルリアは厨房へ顔を出す。すると、もうすでに作業に取りかかっていたフィリスの姿があった。
「聞こえてたから大丈夫。……そうね、今日の昼はゲソ天にするか」
注文を受ける傍ら、フィリスの頭の中は今日の昼食の献立を組み立てはじめていた。
メルリアはメニュー表を片付けると、店をぐるりと見回す。他に自分に出来ることがないか考えていたのだ。しかし、最後に客が来てから三十分が経過した。その間に食器の片付けは済み、先ほどテーブルの片付けも終えてしまった。フィリスは自分が作業している間、他人に介入される事を嫌う。料理の手伝いは必要ないし、かえって邪魔になるだろう。だとすれば……。
ううん、と悩むメルリアの視界に、昼営業最後の客が目に入る。その姿には既視感があった。
どこかで見たことがあるような気がする。少しだけ喋った事もあるような。どこか……どこで? メルリアは記憶を辿る。そんなに昔の話じゃないはずだ。シーバに来てからはずっとみさきの家にいるし、シーバの街の人ともみさきの家以外では話をしていない。エピナールで? いや、この人の顔は見ていない。だったら……。メルリアがじっと考え込んでいると、青年と視線が合った。
「灯台祭っていつからでしたっけ?」
「明日からですよ」
メルリアがそう答えると、男の表情がわずかに陰る。
「病院の受付時間って、変更ありますよね」
「えっと……、あの、少々お待ちくださ……」
「ああ、いや、ご存じだったらと思って。後で確認しに行きますから大丈夫です」
慌ててフィリスに尋ねようとするメルリアを、男が止める。
どうやら青年はこの街の人間ではないようだ。旅行客だろうか。しかし、病院と言っていた以上、込み入った事情があるのだろう。
メルリアは振り返り、厨房の様子を確認する。フィリスがせっせと作業を進めていた。四分の一に割ったキャベツが軽快な音を立て千切りに変わっていく。もう少し時間がかかりそうだ。
……やっぱり、この男の人の声、どこかで聞いたことあるような。
メルリアが考え込んでいると、頭の中にベラミント村の景色が浮かび上がってくる。毎日見ていたりんごの木、薄桃色の花の咲く果樹園を通り過ぎて、旅人が多く通る街道へ。ベラミントの村に行き来する人に何度もすれ違う。果樹園のりんご林が遠くに見えた時、ベラミントの村に向かう人に声をかけられた。
――すみません、ベラミントの村って、こっちで合ってますか。
「……あ」
そうだ。メルリアははっと顔を上げた。旅に出てすぐのことだ。街道で村への道を聞いた青年が、目の前の男によく似ている。顔の雰囲気も、背格好も。それに、茶髪というところも同じだ――記憶と照らし合わせながら男の顔を見ていると、青年と視線が合った。口を開いたのは彼の方からだった。
「どうかしましたか?」
「あの、もし人違いだったらごめんなさい。……あれから、ベラミントの村には着けましたか?」
「どうしてそれを……」
男は驚きの表情を浮かべると、誰に言うでもなく口の中で何かを呟いた。
「もしかして、街道で道を教えてくれた?」
男はメルリアの顔をまじまじと見つめる。記憶の奥底から、メルリアと似たようなシルエットが浮かび上がってきた。が、その人物像や声はぼやけてしまっている。あの日からまだ十日は経っていないが、メルリアの記憶と異なり、男の記憶は酷く曖昧だった。
男の言葉に、メルリアはうんうんと何度も強く頷いた。
「おかげさまで、道を間違えず村に着けたよ。ありがとう」
男が柔らかく笑うと、メルリアの心の奥がじんわりと温かくなった。ほんの些細なことだったけれど、誰かの役に立てたみたいで嬉しい――。メルリアはその熱をじっくりと噛み締めた。
「って俺、普通に喋ってるけどいいのかな」
「大丈夫です。年上の人に丁寧にされるのって落ち着かなくって」
苦笑交じりにメルリアが答えると、背後のカウンターにコトンと物音がした。メルリアがその音に振り返ると、たった今フィリスが出来上がった料理をカウンターの上に置いた瞬間だった。メルリアはすぐにカウンターへ向かう。トレンチを取り出した後、フィリスに小声で言った。
「ご、ごめんなさい。ずっと喋っちゃってて……」
「別にいいわ。忙しくないし、お客さんと喋るのも接客のうちだって母さん言ってた。後は好きにして」
フィリスも声を潜めてそう返す。メルリアは頷くと、トレンチに出来上がったばかりの料理とスープの皿を二つ乗せる。揚げ物の衣の香ばしい匂いが、まだ昼食を済ませていないメルリアの食欲を刺激した。今日の昼ご飯に思考が向くが、料理を客の前に提供した彼女の表情は、店員の顔に戻っていた。
「お待たせしました」
「ありがとう……と、もうこんな時間か」
礼を言う男の視線が、彼女の後ろにある壁掛け時計に向いた。営業終了時間を七分程度オーバーしていた。
急いで食事を済ませた男を、フィリスとメルリアの二人で見送る。男は「遅くまですみません」と頭を下げた後、少しずつ賑わいはじめる街の中へと消えていった。
普段より遅い昼食を五人で済ませ、片付けを終えると、グレアムは仕入れに、フィオンは仕事に街へ、テレーゼは家事を片付けるために二階へ向かう。店に残ったのはメルリアとフィリスの二人だけだった。
営業準備の前にと、フィリスはおもむろに二つ折りの紙を広げる。
「メルリア。明日からの予定だけど」
そこには、灯台祭のスケジュールと書かれた紙があった。縦線が三本が引かれており、灯台祭におけるみさきの家のスケジュールが記載されている。フィリスはキャップを着けたペンを指し棒代わりに、それぞれの説明をはじめる。
「まずは初日。鬼のように忙しい。この日の営業時間は普段と同じ」
フィリスは淡々と説明を続ける。鬼のように忙しい、という言葉に、メルリアは背筋が伸びるような、身が引き締まるような思いを感じていた。
「次に二日目。これまた忙しい。この日は昼が少し長くて、夜営業の開始が遅くなるから、営業前に食事を済ませたい」
営業時間が書かれた部分をペンのキャップで丸く括りながらフィリスは言う。メルリアは視線を下ろし、それぞれの営業時間を確認した。この時間だけ変則的に短い。その事をメルリアが指摘すると、フィリスは一瞬口ごもった。が、しかしすぐに口を開く。メルリアとは視線を合わせなかったが。
「まあ、簡単に言うと私のわがままなんだけど……」
フィリスはペンの先でコツコツとテーブルを叩きながら、灯台祭に使う明かりについて簡単に説明した。
灯台祭では、毎日夜の五時に灯台に明かりを灯している。祭りの開催期間中、奇数日は自然におこした火を使い、偶数日は魔術の火を使って明かりを灯す。灯台祭で火をつける係ができるのはとても名誉なことで、街に貢献した人物や影響力の高い人物などでなければその役割につくことはできない。しかし、偶数日となれば話は別だ。一定以上の魔力を持ち、火の魔術が扱える人間は限られている。ある程度の身分が保証されていれば抜擢されるのだが――。
フィリスはそれらをかいつまんでメルリアに説明すると、か細い声で付け足す。
「この日はフィオンが灯台に明かりをつける日だから」
役人である人物が適任だろうと、二日目に灯す魔術の明かりはフィオンが担当することになっていた。そもそもの条件が緩いとはいえ、灯台祭の歴史を見るに大抜擢という他ない。役所に勤めて一年足らずで抜擢されたのは、フィオンが初めてであった。
メルリアには、フィリスが照れくさそうに喋っているように映った。やはり二人は仲がいい。であれば、自分は笑顔で送り出すべきだろう。
行ってらっしゃい、と声をかけようと口を開いた途端、フィリスの表情が一気に陰る。
「――出力間違えて灯台ごと燃やさないか不安で」
「え……?」
「いや本当に困るのよ。シーバ付近の街道に現れたイノシシの群れみたいな魔獣を丸焦げにしたことがあったし」
はぁ、とフィリスはため息をつく。
複数の魔獣を黒焦げにするなんて――! メルリアは耳を疑った。
メルリアは魔獣の姿を本でしか見たことがない。物語や伝え聞く話によると、とても凶暴で人間を襲う存在だという。見た目は動物の形を模しているが、影のように不確か。その上、野生動物に比べて好戦的、丈夫で退治するのにも一苦労ときた。そんなものと対峙する職業がいかに大変なことであるかは、子供心にずしんと重くのしかかっていた。
魔術が使えるのは、やっぱりすごいだけじゃないのかな――。
メルリアがぼうっと考えると、フィリスは一つ咳払いをした。
「三日目と四日目は人が少ないから、父さんをフルで働かせれば昼営業だったら休めるはずよ。私とメルリア交互で休もうと思ってるけど、あなたはどっちがいい?」
「私は後からでいいよ」
「そう。それじゃ、そうしましょうか」
悩む間もなく、メルリアは答えた。フィリスは紙の開いた部分に、それぞれの休みを明記していく。
メルリアは昔からあまり休みは得意ではなかった。ずっと何かに夢中になっていた方が楽だし、突然なにをしてもいいと言われると、なにをしていいか判らなくなってしまうからだ。やりたいことといえば祖母と約束した花探しだが、シーバには図書館がない。本屋ならばこの街に二店舗ほど存在しているが、お金はなるべく節約したい。彼女の財布の紐は堅かった。休みであろうと、知らない街でであろうと、祭りであろうと、何かを買う気にはならない。約束の花がいつ見つかるか見当がつかないからだ。
「で、肝心なのは五日目ね。この日は一日目くらい忙しいわ」
五日目と書かれた部分をペンでトントンと指し、フィリスは言う。
祭りの最終日といえば閑散としたイメージがあるが、シーバの灯台祭は訳が違う。シーバ一の祭りである灯台祭は、シーバ一休みが多い。そのため、シーバの外やユカリノ国へ旅行に出かけていたシーバの人間が街へ戻ってくる日でもある。その上、ギリギリ滑り込みで灯台祭を楽しもうというよその客が少なくないため、なんだかんだで五日目も一日目と変わらないくらい忙しくなる見込みだった。
二人はもう一度最初から日程を確認する。復習を終えると、フィリスはペンをテーブルの脇に置いた。
「……よし、それじゃあ明日からよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
店の奥に消えるフィリスの足音を聞きながら、メルリアは窓の外に目を向けた。道を行く人々の数は昨日よりも増えている。明日はこれと比べものにならないくらいの人が押し寄せるのだろう。客船が、うすぼんやりと霞む向こうの島――ユカリノ国と、ヴィリディアン国のシーバとを往復する様が見えた。
明日から灯台祭が始まる。
昼の営業時間は残り十分を切った。メルリアはテーブルを拭きながら、今日と昨日の客の様子を思い浮かべていた。
昨日までの客は、みさきの家をよく使う常連の客の顔ぶれが多い。グレアム、テレーゼ、フィリスの三人の客に対する距離が近く、メルリアにも常連の客だとすぐに分かった。その上、新しく雇ったのかと聞く客も少なくはなかったからなおさらのことだ。
対して、今日は一見の客が多かった。みさき家の三人に友好的に話しかけてくる客は一人としておらず、メニューの内容について問われることも珍しくはなかった。また、来る客来る客がどこか見慣れない雰囲気を纏っている。それは、服装、しゃべり方、顔立ちなどにはっきりと現れていた。
「お祭りって、明日からだったよね?」
メルリアは掃除の手を動かしながら、厨房に立つフィリスに声をかけた。彼女は慣れた手つきで昼食の準備を始めている。
「そうよ。一日早くシーバに宿を取る外国の人も多いわ。今日みたいにね」
毎年そうなんだけどと付け足しながら、フィリスはフライパンの脇にスプーンを差し込む。ソースの味を見ながら、後ひと味足りないと頭を捻らせていた。
「明日からは今までと比べものにならないくらい忙しいから。頑張りましょうね」
「うん」
フィリスの励ましの言葉を素直に受け取ったメルリアは自然と笑顔を向けていた。フィリスは目の前の作業に集中し、それに気づくことはなかった。
カチリ、と時計の針が音を立てて動く。昼の営業時間終了まで残り五分となった。
明日からはお祭りだ。なんとか乗り切らないと。その前に、今日の休憩時間はどうやって過ごそう。誰かのお手伝いをした方がいいのだろうか……メルリアが今後のことについて悩んでいると、ドアが控えめに開く。扉を開けた茶髪の青年は、申し訳なさそうに言った。
「すみません、今からでも大丈夫ですか」
その言葉を聞き、えぇっと、と厨房に立つフィリスに判断を仰ぐ。フィリスは顔を上げると、作業の手を止めた。
「ええ、どうぞ。営業時間終了後は注文を受け付けられませんが」
「大丈夫です――そうだな」
メルリアはすっかり抜けていた気合いを入れ直し、男を席へと案内する。水と共にメニュー表を渡すと、男はそれにざっと目を通した。数秒考え込んだ後、男は口を開く。
「イカカツサンド。これ、お願いします」
「承りました、少々お待ちください」
男から差し出されたメニュー表を受け取ると、メルリアは厨房へ顔を出す。すると、もうすでに作業に取りかかっていたフィリスの姿があった。
「聞こえてたから大丈夫。……そうね、今日の昼はゲソ天にするか」
注文を受ける傍ら、フィリスの頭の中は今日の昼食の献立を組み立てはじめていた。
メルリアはメニュー表を片付けると、店をぐるりと見回す。他に自分に出来ることがないか考えていたのだ。しかし、最後に客が来てから三十分が経過した。その間に食器の片付けは済み、先ほどテーブルの片付けも終えてしまった。フィリスは自分が作業している間、他人に介入される事を嫌う。料理の手伝いは必要ないし、かえって邪魔になるだろう。だとすれば……。
ううん、と悩むメルリアの視界に、昼営業最後の客が目に入る。その姿には既視感があった。
どこかで見たことがあるような気がする。少しだけ喋った事もあるような。どこか……どこで? メルリアは記憶を辿る。そんなに昔の話じゃないはずだ。シーバに来てからはずっとみさきの家にいるし、シーバの街の人ともみさきの家以外では話をしていない。エピナールで? いや、この人の顔は見ていない。だったら……。メルリアがじっと考え込んでいると、青年と視線が合った。
「灯台祭っていつからでしたっけ?」
「明日からですよ」
メルリアがそう答えると、男の表情がわずかに陰る。
「病院の受付時間って、変更ありますよね」
「えっと……、あの、少々お待ちくださ……」
「ああ、いや、ご存じだったらと思って。後で確認しに行きますから大丈夫です」
慌ててフィリスに尋ねようとするメルリアを、男が止める。
どうやら青年はこの街の人間ではないようだ。旅行客だろうか。しかし、病院と言っていた以上、込み入った事情があるのだろう。
メルリアは振り返り、厨房の様子を確認する。フィリスがせっせと作業を進めていた。四分の一に割ったキャベツが軽快な音を立て千切りに変わっていく。もう少し時間がかかりそうだ。
……やっぱり、この男の人の声、どこかで聞いたことあるような。
メルリアが考え込んでいると、頭の中にベラミント村の景色が浮かび上がってくる。毎日見ていたりんごの木、薄桃色の花の咲く果樹園を通り過ぎて、旅人が多く通る街道へ。ベラミントの村に行き来する人に何度もすれ違う。果樹園のりんご林が遠くに見えた時、ベラミントの村に向かう人に声をかけられた。
――すみません、ベラミントの村って、こっちで合ってますか。
「……あ」
そうだ。メルリアははっと顔を上げた。旅に出てすぐのことだ。街道で村への道を聞いた青年が、目の前の男によく似ている。顔の雰囲気も、背格好も。それに、茶髪というところも同じだ――記憶と照らし合わせながら男の顔を見ていると、青年と視線が合った。口を開いたのは彼の方からだった。
「どうかしましたか?」
「あの、もし人違いだったらごめんなさい。……あれから、ベラミントの村には着けましたか?」
「どうしてそれを……」
男は驚きの表情を浮かべると、誰に言うでもなく口の中で何かを呟いた。
「もしかして、街道で道を教えてくれた?」
男はメルリアの顔をまじまじと見つめる。記憶の奥底から、メルリアと似たようなシルエットが浮かび上がってきた。が、その人物像や声はぼやけてしまっている。あの日からまだ十日は経っていないが、メルリアの記憶と異なり、男の記憶は酷く曖昧だった。
男の言葉に、メルリアはうんうんと何度も強く頷いた。
「おかげさまで、道を間違えず村に着けたよ。ありがとう」
男が柔らかく笑うと、メルリアの心の奥がじんわりと温かくなった。ほんの些細なことだったけれど、誰かの役に立てたみたいで嬉しい――。メルリアはその熱をじっくりと噛み締めた。
「って俺、普通に喋ってるけどいいのかな」
「大丈夫です。年上の人に丁寧にされるのって落ち着かなくって」
苦笑交じりにメルリアが答えると、背後のカウンターにコトンと物音がした。メルリアがその音に振り返ると、たった今フィリスが出来上がった料理をカウンターの上に置いた瞬間だった。メルリアはすぐにカウンターへ向かう。トレンチを取り出した後、フィリスに小声で言った。
「ご、ごめんなさい。ずっと喋っちゃってて……」
「別にいいわ。忙しくないし、お客さんと喋るのも接客のうちだって母さん言ってた。後は好きにして」
フィリスも声を潜めてそう返す。メルリアは頷くと、トレンチに出来上がったばかりの料理とスープの皿を二つ乗せる。揚げ物の衣の香ばしい匂いが、まだ昼食を済ませていないメルリアの食欲を刺激した。今日の昼ご飯に思考が向くが、料理を客の前に提供した彼女の表情は、店員の顔に戻っていた。
「お待たせしました」
「ありがとう……と、もうこんな時間か」
礼を言う男の視線が、彼女の後ろにある壁掛け時計に向いた。営業終了時間を七分程度オーバーしていた。
急いで食事を済ませた男を、フィリスとメルリアの二人で見送る。男は「遅くまですみません」と頭を下げた後、少しずつ賑わいはじめる街の中へと消えていった。
普段より遅い昼食を五人で済ませ、片付けを終えると、グレアムは仕入れに、フィオンは仕事に街へ、テレーゼは家事を片付けるために二階へ向かう。店に残ったのはメルリアとフィリスの二人だけだった。
営業準備の前にと、フィリスはおもむろに二つ折りの紙を広げる。
「メルリア。明日からの予定だけど」
そこには、灯台祭のスケジュールと書かれた紙があった。縦線が三本が引かれており、灯台祭におけるみさきの家のスケジュールが記載されている。フィリスはキャップを着けたペンを指し棒代わりに、それぞれの説明をはじめる。
「まずは初日。鬼のように忙しい。この日の営業時間は普段と同じ」
フィリスは淡々と説明を続ける。鬼のように忙しい、という言葉に、メルリアは背筋が伸びるような、身が引き締まるような思いを感じていた。
「次に二日目。これまた忙しい。この日は昼が少し長くて、夜営業の開始が遅くなるから、営業前に食事を済ませたい」
営業時間が書かれた部分をペンのキャップで丸く括りながらフィリスは言う。メルリアは視線を下ろし、それぞれの営業時間を確認した。この時間だけ変則的に短い。その事をメルリアが指摘すると、フィリスは一瞬口ごもった。が、しかしすぐに口を開く。メルリアとは視線を合わせなかったが。
「まあ、簡単に言うと私のわがままなんだけど……」
フィリスはペンの先でコツコツとテーブルを叩きながら、灯台祭に使う明かりについて簡単に説明した。
灯台祭では、毎日夜の五時に灯台に明かりを灯している。祭りの開催期間中、奇数日は自然におこした火を使い、偶数日は魔術の火を使って明かりを灯す。灯台祭で火をつける係ができるのはとても名誉なことで、街に貢献した人物や影響力の高い人物などでなければその役割につくことはできない。しかし、偶数日となれば話は別だ。一定以上の魔力を持ち、火の魔術が扱える人間は限られている。ある程度の身分が保証されていれば抜擢されるのだが――。
フィリスはそれらをかいつまんでメルリアに説明すると、か細い声で付け足す。
「この日はフィオンが灯台に明かりをつける日だから」
役人である人物が適任だろうと、二日目に灯す魔術の明かりはフィオンが担当することになっていた。そもそもの条件が緩いとはいえ、灯台祭の歴史を見るに大抜擢という他ない。役所に勤めて一年足らずで抜擢されたのは、フィオンが初めてであった。
メルリアには、フィリスが照れくさそうに喋っているように映った。やはり二人は仲がいい。であれば、自分は笑顔で送り出すべきだろう。
行ってらっしゃい、と声をかけようと口を開いた途端、フィリスの表情が一気に陰る。
「――出力間違えて灯台ごと燃やさないか不安で」
「え……?」
「いや本当に困るのよ。シーバ付近の街道に現れたイノシシの群れみたいな魔獣を丸焦げにしたことがあったし」
はぁ、とフィリスはため息をつく。
複数の魔獣を黒焦げにするなんて――! メルリアは耳を疑った。
メルリアは魔獣の姿を本でしか見たことがない。物語や伝え聞く話によると、とても凶暴で人間を襲う存在だという。見た目は動物の形を模しているが、影のように不確か。その上、野生動物に比べて好戦的、丈夫で退治するのにも一苦労ときた。そんなものと対峙する職業がいかに大変なことであるかは、子供心にずしんと重くのしかかっていた。
魔術が使えるのは、やっぱりすごいだけじゃないのかな――。
メルリアがぼうっと考えると、フィリスは一つ咳払いをした。
「三日目と四日目は人が少ないから、父さんをフルで働かせれば昼営業だったら休めるはずよ。私とメルリア交互で休もうと思ってるけど、あなたはどっちがいい?」
「私は後からでいいよ」
「そう。それじゃ、そうしましょうか」
悩む間もなく、メルリアは答えた。フィリスは紙の開いた部分に、それぞれの休みを明記していく。
メルリアは昔からあまり休みは得意ではなかった。ずっと何かに夢中になっていた方が楽だし、突然なにをしてもいいと言われると、なにをしていいか判らなくなってしまうからだ。やりたいことといえば祖母と約束した花探しだが、シーバには図書館がない。本屋ならばこの街に二店舗ほど存在しているが、お金はなるべく節約したい。彼女の財布の紐は堅かった。休みであろうと、知らない街でであろうと、祭りであろうと、何かを買う気にはならない。約束の花がいつ見つかるか見当がつかないからだ。
「で、肝心なのは五日目ね。この日は一日目くらい忙しいわ」
五日目と書かれた部分をペンでトントンと指し、フィリスは言う。
祭りの最終日といえば閑散としたイメージがあるが、シーバの灯台祭は訳が違う。シーバ一の祭りである灯台祭は、シーバ一休みが多い。そのため、シーバの外やユカリノ国へ旅行に出かけていたシーバの人間が街へ戻ってくる日でもある。その上、ギリギリ滑り込みで灯台祭を楽しもうというよその客が少なくないため、なんだかんだで五日目も一日目と変わらないくらい忙しくなる見込みだった。
二人はもう一度最初から日程を確認する。復習を終えると、フィリスはペンをテーブルの脇に置いた。
「……よし、それじゃあ明日からよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
店の奥に消えるフィリスの足音を聞きながら、メルリアは窓の外に目を向けた。道を行く人々の数は昨日よりも増えている。明日はこれと比べものにならないくらいの人が押し寄せるのだろう。客船が、うすぼんやりと霞む向こうの島――ユカリノ国と、ヴィリディアン国のシーバとを往復する様が見えた。
明日から灯台祭が始まる。