第87話 中庭にて
文字数 6,235文字
四人の足音が屋敷の暗闇に吸い込まれていく。
メルリアは足下を照らすためのランタンをあちらこちらへと伸ばし、屋敷の内部を少しでも取り入れようと一生懸命だった。
ウェンディは真っ先に右へ折れたが、真っ直ぐ歩けば、左右に伸びる大きな階段があることが分かった。その中央には、植物の装飾が施された赤い絨毯が敷かれている。細かな毛足のそれはとても歩きやすそうだ。対して、絨毯のない床は石造りでどこか冷たい。靴音が余韻を残して響くたび、この屋敷が随分と広いのだと思い知る。
壁にかかる金の額縁の中には、屋敷と周囲の風景を描いた絵画が飾られていた。ゆっくりと見ている暇はないが、一瞬視界に入っただけでも非常に興味深く感じる。立派な屋敷の外観と色とりどりの花々。花はどれも複雑そうな形をしているようで、どの花を描いているのかも気になる。それに、この絵はどこを切り取った風景なのだろうかというのも。
やがて廊下へたどり着くと、二手に分かれた道があった。片方は細く長く続く廊下だ。扉の数の向かいに、同じように窓が並ぶ。そのどれもカーテンは開いたままだ。外からは頼りない明かりが入っている。メルリアはランタンを前方へと向けてみるが、やはり距離があるせいでそれ以上の情報は読み取れなかった。もう片方の通路は細く入り組んでいるようだ。そちらへランタンを傾けると、光が壁で止まる。すぐ行き止まりだが、その左右どちらか、あるいは両方に続く場所か部屋があるのだろう。
ウェンディは躊躇わずに細い通路を選び、右に折れる。部屋ではなく道が続いているようだ。しかし、ウェンディのエプロンやヘッドドレス、彼女の細い髪の端がなにかのせいで光った。その様子を見て、メルリアは思わず首をかしげた。道が開けている? 月が出ている? でも、私は何かこれを知っているような。いくつもの疑問が頭の中を巡るが、この一瞬で答えは出ない。
「メルリア? どうかしたか?」
逡巡を続けると、自然と歩が止まっていた。後ろを歩くクライヴが不安そうに彼女の表情を窺う。その言葉にはっとして首を横に振った。気づけば、自分の前を行くシャムロックの姿が見当たらない。ウェンディと同じ道を辿ったのだろう。
「ご、ごめんね。ぼーっとしちゃって」
メルリアは苦笑を浮かべ、慌てて駆けだした。記憶通り迷わずに右へと折れる。そのまま数歩進むと再び足が止まる。急に視界が明るく変わったからだ。咄嗟に瞼を閉じ、右腕で両目を覆う。ランタンの光があったとはいえ、屋敷の中はずっと薄暗かった。やっと夜目に慣れた彼女にとって、それは眩しすぎたのだ。
「こ、れは……」
後ろからやってきたクライヴが、それを見て言葉を詰まらせる。
声に反応できる余裕はないが、しかしその言葉ははっきりとメルリアの耳に届いていた。なんだろう――目を閉じたまま、眉間に力を入れ、弛緩させる動作を何度か繰り返す。目尻の奥に感じるじくじくとした痛みが引いた頃、腕で視界を覆ったまま恐る恐る目を開いた。
真っ先に視界に入ったのは自分の腕と薄橙の肌の色。目の焦点はそちらに合っている。その上下には青白く光る何かがあった。気づけば、湿気が肌にまとわりついている。その光がゆらゆらと揺れ、穏やかな風が肌を撫でる。土と草の匂いが鼻をくすぐった。どうやらここは外らしい。
どういうことだろうか。メルリアは恐る恐る腕を下ろす。視界に飛び込んできた風景に目を丸くした。
「え……」
細い通路の先は広々としている。屋敷の中庭に出たのだ。その中央には、平坦な岩の上に、背の低い花がいくつも咲き誇っている。それは風を受け、優雅に揺れていた。小ぶりな花弁は白色。夜空から降り注ぐ月光を吸収するように、薄ぼんやりとした輝きを放つ。あの夜エルヴィーラと共に見た、幾望の月とよく似た色をしていた。
メルリアの足が、無意識に一歩一歩と前へ出る。シャムロックの傍に立ち、淡く光る花弁を見つめた。青く澄んだ瞳が丸く見開かれる。呼吸することを忘れてしまったように、彼女は動かない。動けなかった。
その花は、まさしくメルリアが求めているものだったのだから。
「これは月満草 、という」
「月満、草……」
シャムロックの言葉を繰り返しながら、メルリアはただただ立ち尽くす。
月の光に煌めくその花は、記憶にあるものよりずっと生き生きとしていた。記憶の中よりも花弁の光はずっと強いし、葉や茎がぼんやりとした光を放つことは知らなかった。実際にあの花を見つけたら、あの時のように触れてみたいと思っていた。つい先ほどまでは。けれど今はそれが怖いと思う。触れてしまえば、その輝きを損ねてしまうかもしれない。メルリアは何もせず、月満草と呼ばれた花を見つめるのみに留めた。輝きこそ記憶より強いものの、花の色や形は自分の知るものと相違ない。ほのかな風に、月満草が輝きながら揺れる。白雪のようにただ静かに、淡々と。その花が揺れるたび、息が詰まりそうな感覚を覚える。何度か息をのもうとするも、うまくいかない。
呆然とその景色を見つめるメルリアを見て、シャムロックは言う。
「これは厳密には植物ではない。花鉱石 と呼ばれる鉱物の一種だ」
ロバータが病気で入院したのは五年前。祖母が病死し、メルリアが一人でも約束を果たそうと決心したのは三年前。
――やっと見つけたよ、おばあちゃん。
胸の前で両手を握り、ただただ俯いた。目の前に見えるのは、あの日祖母の手の中にあったものと同じ花だ。滲んだ視界のまま輪郭を失った花々を見ていると、風に乗ってロバータが笑う明るい声が聞こえてくるようだった。
「――メルリアが探していた花はこれではないか?」
メルリアは静かに顔を上げる。花に目をやっていたシャムロックが、こちらを見て穏やかに微笑んだ。その温かさと共に、喉の奥からじんとした痛みのようなものが巡る。
はい、と。一つ頷こうとした言葉が、喉の奥から――舌の先に乗る辺りでぴたりと止まると、感慨や重み、感動と共に胸の奥へと沈んでいった。
「あ、あの、私……」
鼻を詰まらせたような声をこぼし、言い渋る。確かにこの花で間違いはない。けれど――、後ろに視線を向けると、シャムロックは納得したように頷くと、苦笑を浮かべる。
「約束を破ったのは俺だ。すまない。だが、クライヴにも予めこれを見ておいてほしくてな」
「い、いえ、そんな! 私のわがままで」
メルリアが慌てて首を振ると、彼女の左目から一筋の涙がこぼれ落ちる。その軌道を静かに見つめた後、シャムロックは中庭に咲く月満草に目を向け、静かに立ち去った。靴音一つ残さず、早々に。
「……さて、メルリア様。クライヴ様。お二人にはそれぞれお話がございますので、こちらの用意が調うまでこのままお待ちください」
ウェンディの淡々とした声が中庭に響く。二人が頷くのを見ると、彼女はひとつ咳払いし、メルリアの足下に視線を向ける。
「メルリア様がいる場所までであれば近づいていただいても構いませんが、それ以上はお控えください。まあ、近づかれたら近づかれたで」
ウェンディは言葉を濁すと、庭の端に目をやった。中庭を囲うように生える低木には葉がなく、枝だけが静かに伸びている。だというのに、葉や実が成っているように、黒い塊が点々としていた。やがてその実が木から離れると、羽音を立てずにメイドの頭上にとまる。
「う」
クライヴはそれに気づくと、傷口がずきりと痛んだ。先ほど彼を噛んできた小型のコウモリである。人懐っこいのかそうではないのか、やはりこれも彼に向かって、くあっと大口を開けた。牙の先は薄汚れている。
ウェンディはごく自然な動作で頭と顎を探り当てると、そのままその口を無理矢理閉じさせた。子犬が頭を垂れるような高い音を漏らし、コウモリは素直に従った。
「クライヴ様はご存じのようですが、それ以上近づかれますと……。くれぐれもご留意くださいませ」
「分かってます」
その言葉に、ウェンディはふっと表情を崩した。少々お待ちくださいませと頭を下げると、彼女も屋敷の中へ戻っていく。シャムロックとは異なり、靴音がしっかりと響いた。
やがてその音が消えると、クライヴは一つため息をつく。ぼうっと花を見つめるメルリアの傍らに立ち、彼もまた、同じように月満草を見つめた。
「メルリアが探してた花、これだったんだな」
「……うん。やっと、やっとね」
メルリアは彼に視線を合わせず、ただただ眼前で煌めく月満草を見つめていた。借り物のランタンを足下に置くと、控えめにその風景へ手を伸ばす。
本当にあった。夢じゃなかった。約束が叶うのだ。祖母にはずっと世話になりっぱなしだった。恩返しの一つもできないまま旅立ってしまった。これで……十八年経って、自分はやっと祖母の役に立つことができる。
「よかった……」
メルリアは胸の奥に広がる熱を感じながら、何度も何度も頷いた。先ほど抑えた感情が、今度こそ抑えきれずに溢れ出してくる。
月満草から漏れた光の粒子がキラキラと宙に浮かび、風に乗って闇に沈んでいく。それはまるでたき火の際に見える火の粉に似ていたが、それよりもずっと頼りなく、余韻を残してゆっくり色を失っていく。メルリアの両の頬を濡らす雫は、その光を反射してしめやかに光った。
「クライヴさんも……ありがとう、いろいろ、助けてくれて」
「いや、俺は別に――」
メルリアが顔を上げて微笑むと、両目から零れた涙が、頬にできた線を伝って零れていく。瞼が微笑に細められると、ぽろぽろと新しい涙が溢れてきた。紅潮した顔に涙で上擦った声、綻ぶような笑顔。胸の奥底から喜んでいる事は、当事者ではないクライヴにもよく判っていた。
「見つかって、よかったな」
言いかけた言葉を飲み込み、伝えるべきであろう言葉を口にする。
メルリアはまた一つ、右頬に新しい涙を伝わせながら、へにゃりと崩れた笑顔で頷いた。
中庭に風がひとつ抜けると、漏れた光の粒子が輝いた。仄かに降り積もる雪のように、それは穢れない。どこか幻想的で、そして温かい。
やがてメルリアは人差し指で両目の端を拭うと、気丈を装った笑顔を向ける。
「でも……ごめんね、私、先に」
声は相変わらずの涙声だった。
クライヴはそれに特別触れることはせず、普段通りを振る舞って――けれど少し落ち着いた声色で言う。
「いや、俺もあの花が見られてよかったよ。こんなに綺麗だったんだな」
「うん……」
夜の闇や、月の光を遮るものはない。時計の秒針は聞こえず、他人の足音や気配もない。ただ、メルリアとクライヴのふたりがいるだけ。中庭を抜ける風に、枝枝を揺らす乾いた音。それだけしかここにはない。まるで時間という概念が存在しないかもしれないと錯覚するほど。それほど、ただただ静寂が広がっていた。それをどこか懐かしいと――落ち着くようだと、メルリアは解釈していた。
涙で濡れる彼女の横顔を見つめるクライヴは、何度か声をかけようと口を開く。が、躊躇うように視線を逸らし、口を閉じる。それを何度か繰り返し、誰にするでもなく頭を振る。いくらゆったり時が流れているといっても、時間は無限ではない。
「一つ、聞いていいか?」
メルリアは知らない。一方で、クライヴの右手が緊張に震えているのを、強ばった表情、声色をしているのも。違和感に気づく余裕なく、問いかけに首をかしげた。
「俺も……、メルリアのこと、メルって呼んでも、いいか……?」
メルリアの目が見開かれる。失敗したか、とクライヴが右足を一歩後ろへ向けたのも束の間、その表情が眩しいほどの笑顔に変わった。
「嬉しい……!」
メルリアはクライヴの手を取ると、静かに微笑みかけた。先ほど彼が屋敷の前で見たものだ。自分にここまでの眩しい笑顔が向けられるとは。その明るさを直視できそうもないが、目を逸らしたくなる、逃げたい感情を必死に抑え、真っ向から受け止める。代わり心臓が悲鳴を上げるが、逆にそれから目を逸らした。
「そう呼んでもらえるの、とっても嬉しい。あんまり呼んでもらえなくなったから……」
薄く苦笑を浮かべながら、クライヴの手を強く握りしめる。それは感情の強さに比例していた。
メルリアを愛称で呼ぶ人間は、両親やロバータが旅立って以降、誰一人としていなかった。旅に出てエルヴィーラに呼んでもらうまでは。自分のことをメルと呼んでもらえるのはやはり嬉しい。信頼している人間に呼ばれるならばなおのことだ。
「もう一つだけ聞いてくれるか」
落ち着かないように迷わせていたクライヴの目が、素直にメルリアを見据える。決意を込めるように触れられた手を強く握り返した。
メルリアはその手とクライヴの顔を交互に見比べると、彼の言葉を静かに待つ。
「俺は、メルリア……、メル、の、ことが」
クライヴの手の力がわずかに緩む。その先の言葉を心のどこかが邪魔していた。触れていないもう片方の手が震えている。視線が迷うように動き、やがて彼女の顔から逸れた。しかし意を決すると、顔を上げて息を吸い込む。
「俺はメルが――」
その時だった。暗闇から伸びた細く白い右手が、メルリアの瞳を優しく覆う。左手は肩を掴み、クライヴから引き剥がすように己へ引き寄せた。緩く結ばれていた二人の手が解け、されるがまま数歩後退すると、それの腕に収まった。
「メル、ここにいたのね」
メルリアの耳元で女がそっと囁いた。目元を隠す手を解くと、そのまま左手首を拘束するように掴む。
「エルヴィーラさん?」
メルリアはもう一度目の端を指の背で拭った。すぐ近くにエルヴィーラの顔があるが、手首の自由を奪われた今の状況では、表情を窺うことができない。きょとんと疑問の色を浮かべていた表情がわずかに明るく変わるが、しかしすぐに薄れていく。視線が前方へ向く。クライヴは完全に固まっていた。手の位置は握られた時のまま動かないし、肩も上がったまま。呼吸をしているのかどうかすら怪しい。表情ごと石彫刻のように微動だにせず、怒っているのか笑っているのかなんなのか、表情も全く読み取れなかった。
「あの、私、クライヴさんとお話の途中で」
「ふうん。ねえあなた、
エルヴィーラは興味が薄い様子で淡々と尋ねた。すると、石像のように固まっていたクライヴの指がぴくりと動く。上がっていた腕を下ろすと、諦めたように視線を足下へ投げ出した。
「いや……」
半開きになった口からは随分とやつれた声がした。
「クライヴさん大丈夫? 私、いつでも聞くから――」
「いい。……今日はもう、いい」
辛うじて腹の奥から言葉を絞り出す。クライヴはおぼつかない足取りで数歩下がると、壁際に体重を預けた。
「そのうちシャムが呼びに来るわ。あなたも真実を知るべきね」
エルヴィーラは淡々と伝えると、メルリアの手を取ってにこりと微笑みかける。
「じゃあメル、行きましょ。ウェンディが呼んでいるわ」
「え、あっ……。またね、クライヴさん」
メルリアは何もできぬまま、エルヴィーラにぐいぐいと腕を引かれた。
クライヴは顔を上げて、なんとか笑顔を絞り出す。顎の辺りで頼りなく手を振ると、突然エルヴィーラがこちらを見る。赤い瞳が細められ、クスリと笑みを零した。その目は全てを理解していると物語る――まるで小悪魔のようだった。
エルヴィーラはそのままメルリアを攫って歩き去った。
メルリアは足下を照らすためのランタンをあちらこちらへと伸ばし、屋敷の内部を少しでも取り入れようと一生懸命だった。
ウェンディは真っ先に右へ折れたが、真っ直ぐ歩けば、左右に伸びる大きな階段があることが分かった。その中央には、植物の装飾が施された赤い絨毯が敷かれている。細かな毛足のそれはとても歩きやすそうだ。対して、絨毯のない床は石造りでどこか冷たい。靴音が余韻を残して響くたび、この屋敷が随分と広いのだと思い知る。
壁にかかる金の額縁の中には、屋敷と周囲の風景を描いた絵画が飾られていた。ゆっくりと見ている暇はないが、一瞬視界に入っただけでも非常に興味深く感じる。立派な屋敷の外観と色とりどりの花々。花はどれも複雑そうな形をしているようで、どの花を描いているのかも気になる。それに、この絵はどこを切り取った風景なのだろうかというのも。
やがて廊下へたどり着くと、二手に分かれた道があった。片方は細く長く続く廊下だ。扉の数の向かいに、同じように窓が並ぶ。そのどれもカーテンは開いたままだ。外からは頼りない明かりが入っている。メルリアはランタンを前方へと向けてみるが、やはり距離があるせいでそれ以上の情報は読み取れなかった。もう片方の通路は細く入り組んでいるようだ。そちらへランタンを傾けると、光が壁で止まる。すぐ行き止まりだが、その左右どちらか、あるいは両方に続く場所か部屋があるのだろう。
ウェンディは躊躇わずに細い通路を選び、右に折れる。部屋ではなく道が続いているようだ。しかし、ウェンディのエプロンやヘッドドレス、彼女の細い髪の端がなにかのせいで光った。その様子を見て、メルリアは思わず首をかしげた。道が開けている? 月が出ている? でも、私は何かこれを知っているような。いくつもの疑問が頭の中を巡るが、この一瞬で答えは出ない。
「メルリア? どうかしたか?」
逡巡を続けると、自然と歩が止まっていた。後ろを歩くクライヴが不安そうに彼女の表情を窺う。その言葉にはっとして首を横に振った。気づけば、自分の前を行くシャムロックの姿が見当たらない。ウェンディと同じ道を辿ったのだろう。
「ご、ごめんね。ぼーっとしちゃって」
メルリアは苦笑を浮かべ、慌てて駆けだした。記憶通り迷わずに右へと折れる。そのまま数歩進むと再び足が止まる。急に視界が明るく変わったからだ。咄嗟に瞼を閉じ、右腕で両目を覆う。ランタンの光があったとはいえ、屋敷の中はずっと薄暗かった。やっと夜目に慣れた彼女にとって、それは眩しすぎたのだ。
「こ、れは……」
後ろからやってきたクライヴが、それを見て言葉を詰まらせる。
声に反応できる余裕はないが、しかしその言葉ははっきりとメルリアの耳に届いていた。なんだろう――目を閉じたまま、眉間に力を入れ、弛緩させる動作を何度か繰り返す。目尻の奥に感じるじくじくとした痛みが引いた頃、腕で視界を覆ったまま恐る恐る目を開いた。
真っ先に視界に入ったのは自分の腕と薄橙の肌の色。目の焦点はそちらに合っている。その上下には青白く光る何かがあった。気づけば、湿気が肌にまとわりついている。その光がゆらゆらと揺れ、穏やかな風が肌を撫でる。土と草の匂いが鼻をくすぐった。どうやらここは外らしい。
どういうことだろうか。メルリアは恐る恐る腕を下ろす。視界に飛び込んできた風景に目を丸くした。
「え……」
細い通路の先は広々としている。屋敷の中庭に出たのだ。その中央には、平坦な岩の上に、背の低い花がいくつも咲き誇っている。それは風を受け、優雅に揺れていた。小ぶりな花弁は白色。夜空から降り注ぐ月光を吸収するように、薄ぼんやりとした輝きを放つ。あの夜エルヴィーラと共に見た、幾望の月とよく似た色をしていた。
メルリアの足が、無意識に一歩一歩と前へ出る。シャムロックの傍に立ち、淡く光る花弁を見つめた。青く澄んだ瞳が丸く見開かれる。呼吸することを忘れてしまったように、彼女は動かない。動けなかった。
その花は、まさしくメルリアが求めているものだったのだから。
「これは
「月満、草……」
シャムロックの言葉を繰り返しながら、メルリアはただただ立ち尽くす。
月の光に煌めくその花は、記憶にあるものよりずっと生き生きとしていた。記憶の中よりも花弁の光はずっと強いし、葉や茎がぼんやりとした光を放つことは知らなかった。実際にあの花を見つけたら、あの時のように触れてみたいと思っていた。つい先ほどまでは。けれど今はそれが怖いと思う。触れてしまえば、その輝きを損ねてしまうかもしれない。メルリアは何もせず、月満草と呼ばれた花を見つめるのみに留めた。輝きこそ記憶より強いものの、花の色や形は自分の知るものと相違ない。ほのかな風に、月満草が輝きながら揺れる。白雪のようにただ静かに、淡々と。その花が揺れるたび、息が詰まりそうな感覚を覚える。何度か息をのもうとするも、うまくいかない。
呆然とその景色を見つめるメルリアを見て、シャムロックは言う。
「これは厳密には植物ではない。
ロバータが病気で入院したのは五年前。祖母が病死し、メルリアが一人でも約束を果たそうと決心したのは三年前。
――やっと見つけたよ、おばあちゃん。
胸の前で両手を握り、ただただ俯いた。目の前に見えるのは、あの日祖母の手の中にあったものと同じ花だ。滲んだ視界のまま輪郭を失った花々を見ていると、風に乗ってロバータが笑う明るい声が聞こえてくるようだった。
「――メルリアが探していた花はこれではないか?」
メルリアは静かに顔を上げる。花に目をやっていたシャムロックが、こちらを見て穏やかに微笑んだ。その温かさと共に、喉の奥からじんとした痛みのようなものが巡る。
はい、と。一つ頷こうとした言葉が、喉の奥から――舌の先に乗る辺りでぴたりと止まると、感慨や重み、感動と共に胸の奥へと沈んでいった。
「あ、あの、私……」
鼻を詰まらせたような声をこぼし、言い渋る。確かにこの花で間違いはない。けれど――、後ろに視線を向けると、シャムロックは納得したように頷くと、苦笑を浮かべる。
「約束を破ったのは俺だ。すまない。だが、クライヴにも予めこれを見ておいてほしくてな」
「い、いえ、そんな! 私のわがままで」
メルリアが慌てて首を振ると、彼女の左目から一筋の涙がこぼれ落ちる。その軌道を静かに見つめた後、シャムロックは中庭に咲く月満草に目を向け、静かに立ち去った。靴音一つ残さず、早々に。
「……さて、メルリア様。クライヴ様。お二人にはそれぞれお話がございますので、こちらの用意が調うまでこのままお待ちください」
ウェンディの淡々とした声が中庭に響く。二人が頷くのを見ると、彼女はひとつ咳払いし、メルリアの足下に視線を向ける。
「メルリア様がいる場所までであれば近づいていただいても構いませんが、それ以上はお控えください。まあ、近づかれたら近づかれたで」
ウェンディは言葉を濁すと、庭の端に目をやった。中庭を囲うように生える低木には葉がなく、枝だけが静かに伸びている。だというのに、葉や実が成っているように、黒い塊が点々としていた。やがてその実が木から離れると、羽音を立てずにメイドの頭上にとまる。
「う」
クライヴはそれに気づくと、傷口がずきりと痛んだ。先ほど彼を噛んできた小型のコウモリである。人懐っこいのかそうではないのか、やはりこれも彼に向かって、くあっと大口を開けた。牙の先は薄汚れている。
ウェンディはごく自然な動作で頭と顎を探り当てると、そのままその口を無理矢理閉じさせた。子犬が頭を垂れるような高い音を漏らし、コウモリは素直に従った。
「クライヴ様はご存じのようですが、それ以上近づかれますと……。くれぐれもご留意くださいませ」
「分かってます」
その言葉に、ウェンディはふっと表情を崩した。少々お待ちくださいませと頭を下げると、彼女も屋敷の中へ戻っていく。シャムロックとは異なり、靴音がしっかりと響いた。
やがてその音が消えると、クライヴは一つため息をつく。ぼうっと花を見つめるメルリアの傍らに立ち、彼もまた、同じように月満草を見つめた。
「メルリアが探してた花、これだったんだな」
「……うん。やっと、やっとね」
メルリアは彼に視線を合わせず、ただただ眼前で煌めく月満草を見つめていた。借り物のランタンを足下に置くと、控えめにその風景へ手を伸ばす。
本当にあった。夢じゃなかった。約束が叶うのだ。祖母にはずっと世話になりっぱなしだった。恩返しの一つもできないまま旅立ってしまった。これで……十八年経って、自分はやっと祖母の役に立つことができる。
「よかった……」
メルリアは胸の奥に広がる熱を感じながら、何度も何度も頷いた。先ほど抑えた感情が、今度こそ抑えきれずに溢れ出してくる。
月満草から漏れた光の粒子がキラキラと宙に浮かび、風に乗って闇に沈んでいく。それはまるでたき火の際に見える火の粉に似ていたが、それよりもずっと頼りなく、余韻を残してゆっくり色を失っていく。メルリアの両の頬を濡らす雫は、その光を反射してしめやかに光った。
「クライヴさんも……ありがとう、いろいろ、助けてくれて」
「いや、俺は別に――」
メルリアが顔を上げて微笑むと、両目から零れた涙が、頬にできた線を伝って零れていく。瞼が微笑に細められると、ぽろぽろと新しい涙が溢れてきた。紅潮した顔に涙で上擦った声、綻ぶような笑顔。胸の奥底から喜んでいる事は、当事者ではないクライヴにもよく判っていた。
「見つかって、よかったな」
言いかけた言葉を飲み込み、伝えるべきであろう言葉を口にする。
メルリアはまた一つ、右頬に新しい涙を伝わせながら、へにゃりと崩れた笑顔で頷いた。
中庭に風がひとつ抜けると、漏れた光の粒子が輝いた。仄かに降り積もる雪のように、それは穢れない。どこか幻想的で、そして温かい。
やがてメルリアは人差し指で両目の端を拭うと、気丈を装った笑顔を向ける。
「でも……ごめんね、私、先に」
声は相変わらずの涙声だった。
クライヴはそれに特別触れることはせず、普段通りを振る舞って――けれど少し落ち着いた声色で言う。
「いや、俺もあの花が見られてよかったよ。こんなに綺麗だったんだな」
「うん……」
夜の闇や、月の光を遮るものはない。時計の秒針は聞こえず、他人の足音や気配もない。ただ、メルリアとクライヴのふたりがいるだけ。中庭を抜ける風に、枝枝を揺らす乾いた音。それだけしかここにはない。まるで時間という概念が存在しないかもしれないと錯覚するほど。それほど、ただただ静寂が広がっていた。それをどこか懐かしいと――落ち着くようだと、メルリアは解釈していた。
涙で濡れる彼女の横顔を見つめるクライヴは、何度か声をかけようと口を開く。が、躊躇うように視線を逸らし、口を閉じる。それを何度か繰り返し、誰にするでもなく頭を振る。いくらゆったり時が流れているといっても、時間は無限ではない。
「一つ、聞いていいか?」
メルリアは知らない。一方で、クライヴの右手が緊張に震えているのを、強ばった表情、声色をしているのも。違和感に気づく余裕なく、問いかけに首をかしげた。
「俺も……、メルリアのこと、メルって呼んでも、いいか……?」
メルリアの目が見開かれる。失敗したか、とクライヴが右足を一歩後ろへ向けたのも束の間、その表情が眩しいほどの笑顔に変わった。
「嬉しい……!」
メルリアはクライヴの手を取ると、静かに微笑みかけた。先ほど彼が屋敷の前で見たものだ。自分にここまでの眩しい笑顔が向けられるとは。その明るさを直視できそうもないが、目を逸らしたくなる、逃げたい感情を必死に抑え、真っ向から受け止める。代わり心臓が悲鳴を上げるが、逆にそれから目を逸らした。
「そう呼んでもらえるの、とっても嬉しい。あんまり呼んでもらえなくなったから……」
薄く苦笑を浮かべながら、クライヴの手を強く握りしめる。それは感情の強さに比例していた。
メルリアを愛称で呼ぶ人間は、両親やロバータが旅立って以降、誰一人としていなかった。旅に出てエルヴィーラに呼んでもらうまでは。自分のことをメルと呼んでもらえるのはやはり嬉しい。信頼している人間に呼ばれるならばなおのことだ。
「もう一つだけ聞いてくれるか」
落ち着かないように迷わせていたクライヴの目が、素直にメルリアを見据える。決意を込めるように触れられた手を強く握り返した。
メルリアはその手とクライヴの顔を交互に見比べると、彼の言葉を静かに待つ。
「俺は、メルリア……、メル、の、ことが」
クライヴの手の力がわずかに緩む。その先の言葉を心のどこかが邪魔していた。触れていないもう片方の手が震えている。視線が迷うように動き、やがて彼女の顔から逸れた。しかし意を決すると、顔を上げて息を吸い込む。
「俺はメルが――」
その時だった。暗闇から伸びた細く白い右手が、メルリアの瞳を優しく覆う。左手は肩を掴み、クライヴから引き剥がすように己へ引き寄せた。緩く結ばれていた二人の手が解け、されるがまま数歩後退すると、それの腕に収まった。
「メル、ここにいたのね」
メルリアの耳元で女がそっと囁いた。目元を隠す手を解くと、そのまま左手首を拘束するように掴む。
「エルヴィーラさん?」
メルリアはもう一度目の端を指の背で拭った。すぐ近くにエルヴィーラの顔があるが、手首の自由を奪われた今の状況では、表情を窺うことができない。きょとんと疑問の色を浮かべていた表情がわずかに明るく変わるが、しかしすぐに薄れていく。視線が前方へ向く。クライヴは完全に固まっていた。手の位置は握られた時のまま動かないし、肩も上がったまま。呼吸をしているのかどうかすら怪しい。表情ごと石彫刻のように微動だにせず、怒っているのか笑っているのかなんなのか、表情も全く読み取れなかった。
「あの、私、クライヴさんとお話の途中で」
「ふうん。ねえあなた、
何の話をしようとしていた
の?」エルヴィーラは興味が薄い様子で淡々と尋ねた。すると、石像のように固まっていたクライヴの指がぴくりと動く。上がっていた腕を下ろすと、諦めたように視線を足下へ投げ出した。
「いや……」
半開きになった口からは随分とやつれた声がした。
「クライヴさん大丈夫? 私、いつでも聞くから――」
「いい。……今日はもう、いい」
辛うじて腹の奥から言葉を絞り出す。クライヴはおぼつかない足取りで数歩下がると、壁際に体重を預けた。
「そのうちシャムが呼びに来るわ。あなたも真実を知るべきね」
エルヴィーラは淡々と伝えると、メルリアの手を取ってにこりと微笑みかける。
「じゃあメル、行きましょ。ウェンディが呼んでいるわ」
「え、あっ……。またね、クライヴさん」
メルリアは何もできぬまま、エルヴィーラにぐいぐいと腕を引かれた。
クライヴは顔を上げて、なんとか笑顔を絞り出す。顎の辺りで頼りなく手を振ると、突然エルヴィーラがこちらを見る。赤い瞳が細められ、クスリと笑みを零した。その目は全てを理解していると物語る――まるで小悪魔のようだった。
エルヴィーラはそのままメルリアを攫って歩き去った。