第48話 夏空の街道1
文字数 3,582文字
道の脇に生える草花は青々と、森の木々は濃い緑へ変わっていく。
夏の青空は濃い。風木の緑が、白い雲の浮かぶ空に鮮やかに映えた。日差しは強く、歩いていると額に汗が滲んだ。今の時期は、風が格別に気持ちいい。街道の風を胸いっぱいに吸い込み、体中の熱気とともに吐き出した。メルリアはその気持ちよさに目を細めた。本格的に夏が来たのだ。
ここに来るまで、メルリアは何人もの人とすれ違った。
彼女と同じ身なりの旅人、空を飛ぶ配達業の魔術士、軽い身なりで街道を走り抜けていく人物……。その中でも特に目立ったのは、ヴェルディグリへ向かう行商人達だ。大きなリュックを抱えている若い男の商人や、荷物を運ぶ御者の商人、メルリアが以前会ったグレアムのように、巨大な荷台を押すがっしりとした体つきの商人――その誰もが、ヴェルディグリを目指し、ヴェルディグリを発つ。
王国最大の都市というだけあって、やはり人の出入りは頻繁であった。
やがて三叉路にたどり着いたメルリアは、看板の前で足を止めた。
ヴェルディグリが近いからか、この辺りに設置されている看板はよそと違って新しい。塗料の薄茶色が眩しく光った。文字もくっきりとしていて、遠くからでもはっきりと見える。
メルリアは看板を確認した。南がヴェルディグリ、レネット方面――今までメルリアが歩いてきた道だ。西はオウコウとの国境ミクリーフ、北はルーフスとの国境セラドン、グローカス方面。
ルーフス。その文字を見て、メルリアはイリスの姿を思い出す。
今になって思えば、イリスともう少し話をしてみたかった。もしルーフスへ向かうことになったら、その時に会えるといいけれど――メルリアはルーフスと書かれた文字を見つめ、目を細めた。
「……北は、こっちでいいんだよね」
メルリアは顔を上げると、位置と看板の向きを二度確認した。街道はほとんど景色が変わらない。間違えて進んでしまったが最後、街にたどり着くまで、間違いに気づかない可能性も十分あり得るのだ。
念のため、もう一度……。三度目の確認をしていると、三叉路の西側から歩いてきた人物が足を止めた。看板を難しい表情で見つめるメルリアに気づくと、彼は目を丸くする。
「メルリア?」
……今、自分の名前を呼ばれた?
メルリアは顔を上げた。その人物の姿を見るなり、ぱっと明るい表情に変わる。
「あ……! クライヴさん、お久しぶりです」
メルリアはとっさに頭を下げた。二人が顔を合わせるのも一月ぶりだ。ベラミントの村外れ、シーバの街、ヴェルディグリへ向かう街道――。メルリアが旅を始めてから、外で会うのは三度目になる。
あの時と変わらない様子にメルリアはほっと安堵した。
「はは……また会ったな。まさか、こんなところで会えるとは思わなかったよ」
クライヴは小さく笑みを浮かべると、背負っているリュックの紐に触れる。疲れを吐き出すように腹から大きく息を吐いた。
「クライヴさん――」
「メルリアの方はどうだった? あれから進展はあったか?」
メルリアの呼びかけに被せるようにクライヴは尋ねると、北方の空を仰いだ。青天に湿気を帯びた生ぬるい風がそよぐ。かと思えば、強い風が西方の森から突き抜け、濃い青色の葉が数枚宙に舞った。
メルリアはクライヴの表情を伺おうとするが、顔を背けているせいで判断できなかった。少しいつもと違う様子が気がかりではあったが、声のトーンを実際の感情よりも数段落として話し始める。
「クライヴさんと別れてから今朝まで、ずっとヴェルディグリにいて。ようやく手がかりが掴めたかな……? という感じです」
「はっきりとは分からなかったのか?」
メルリアはその問いに頷く。しかし苦笑するどころか、笑顔を作って続けた。
「でも、詳しい人を紹介してもらったんです。だから、もうすぐ……」
メルリアは空に向かってにこりと笑うと、これからの期待に胸を膨らませた。
ネフリティスの工房にいた時は、あまりにも事態が急で実感がわかなかったのだ。こうやって街道に出て、クライヴに話して、やっと気持ちが追いついた。グローカスの夜半の屋敷を訪れれば、祖母との夢に近づくし、会いたい人にも会える。曾祖父――ロバータの父がどんな人だったのかも興味がある。抑えようにも次第に声が弾んでいった事に、メルリアは気づいていなかった。
そんな様子のメルリアをチラリと伺うと、クライヴは不思議そうに眉をひそめた。
「よくそんな風に希望が持てるな」
クライヴは吐き捨てると、拳を握った。視線を足下にそらす。どうしてそう言い切れるのか理解できなかったのだ。
自分と目を合わせようとしないクライヴを見て、彼の視線の先と彼の表情を交互に見取る。クライヴとは逆方向に視線をそらし、ほんの一瞬考え込んだ。やがて、意を決したように一歩前に出る。
「何か、あったんですか?」
「……医者にさ、言われたんだ」
大げさに、他人事を装うような声だった。不安げにこちらを窺うメルリアの表情が視界に入って、顔を背けるように視線をそらす。脇に広がる森の闇を見つめながら、諦めたように笑った。
「『どこにも異常はない、そんな症状はあり得ない』、『人間じゃないんじゃないですか?』だってさ」
当時の苦い記憶を呼び起こしながら、クライヴは聞いたばかりの声を繰り返す。馬鹿にされた表情を思い起こすと、嘲笑に似た笑いが自然と漏れていた。
「ひどい……」
メルリアは胸の前でぎゅっと自身の手を握る。
その言葉にメルリアは愕然としていた。そんなにひどい事を言うお医者さんがいるのか、と。
「だったら俺はなんなんだ? あれは全部嘘だって言うのか」
沸々と怒りと呆れに似た感情がクライヴの心の底から湧き上がる。決して声を荒らげる事はなかったが、行き場のない感情が彼の頭の中を支配していた。そんなはずない――心の奥底から言葉を棄てようと短く息を吸った。
「そんなこと、ないです」
クライヴが棄てるはずだった言葉を口にしたのはメルリアだった。彼女は静かに首を横に振ると、悲しげに目を細めた。
「クライヴさんの体のこと、私には分からないけど……。勘違いなんかじゃないって断言できます」
自然と作った握り拳から力が抜けていく。その右手を、メルリアは両手で包むように握った。やるせない怒りを感じていた彼の手は冷たく、その手に触れた彼女の手は温かい。
「それに私……、クライヴさんがとっても優しい人だって、知ってます」
メルリアは真っ直ぐに言うと、触れた手にほんの少し力を込める。柔らかい表情で笑った。
クライヴは目を見開いた。彼女の言葉に嘘偽りはない。誇張や自分の言葉を恥ずかしがる様子もなく、ただひたすらに真っ直ぐだ。胸の奥にじわりと熱が広がる。それはまるで、混沌とした宵闇の世界に一条の光が差すように。いつだってこの子は真剣だ――クライヴは自然に笑みを浮かべると、左手をメルリアの頭に伸ばす。髪の分け目を気遣いながら、彼女の頭を撫でた。
「ありがとう」
メルリアは黙ってそれを受け入れていた。
頭を撫でられたのはいつぶりだろう。こうされていると、どこかから懐かしい記憶が蘇ってくる。メルリアはゆっくりと記憶をたどった。
――ああ、そうだ。祖母がまだ元気だった頃。よく頑張ったね、ありがとうと、ロバータはたびたび彼女の頭を撫でていた。メルリアはそれが好きだった。少しざらついてちょっと痛い手で、時々髪に絡まるけれど、それがロバータらしいと思っていたから、決して嫌いではなかった。
「――っ、悪い! 突然、触ったりとかして」
「いえ、そんな。なんだか懐かしかったです」
クライヴはメルリアの頭から慌てて手を離し、メルリアもクライヴの手を離す。
メルリアは照れくさそうに笑うと、ずれたリュックを背負い直した。中身が音を立てて動く。
「メルリアはこれからどこへ向かうんだ?」
「グローカスに向かうつもりです。クライヴさんは?」
クライヴの右手の人差し指がピクリと動く。看板を見て少し悩んだ後、彼は眉をひそめた。
「北に行こうとは思ってたんだ。けど、どっちへ行こうか迷ってて」
「じゃあ、とりあえず次の分かれ道まで一緒に行きませんか?」
まるで手を差し伸べるように、メルリアはにこりとクライヴに微笑んだ。
クライヴの右手がどうしようかと落ち着かない様子で動き、最終的に鞄の紐に触れて落ち着く。
「そう……だな。しばらくあるし、一緒に行くよ」
「よろしくお願いします!」
深く頭を下げ、メルリアは笑顔を浮かべる。その表情はとても嬉しそうだった。
事実、嬉しかった。一月前に戻ったような気がしたからだ。あの時は馬車で、今からは徒歩で。ヴェルディグリからここまでそこそこの距離を歩いてきたはずなのに、脚の疲れをあまり感じない。今ならどこまでだって行ける気がした。
夏の青空は濃い。風木の緑が、白い雲の浮かぶ空に鮮やかに映えた。日差しは強く、歩いていると額に汗が滲んだ。今の時期は、風が格別に気持ちいい。街道の風を胸いっぱいに吸い込み、体中の熱気とともに吐き出した。メルリアはその気持ちよさに目を細めた。本格的に夏が来たのだ。
ここに来るまで、メルリアは何人もの人とすれ違った。
彼女と同じ身なりの旅人、空を飛ぶ配達業の魔術士、軽い身なりで街道を走り抜けていく人物……。その中でも特に目立ったのは、ヴェルディグリへ向かう行商人達だ。大きなリュックを抱えている若い男の商人や、荷物を運ぶ御者の商人、メルリアが以前会ったグレアムのように、巨大な荷台を押すがっしりとした体つきの商人――その誰もが、ヴェルディグリを目指し、ヴェルディグリを発つ。
王国最大の都市というだけあって、やはり人の出入りは頻繁であった。
やがて三叉路にたどり着いたメルリアは、看板の前で足を止めた。
ヴェルディグリが近いからか、この辺りに設置されている看板はよそと違って新しい。塗料の薄茶色が眩しく光った。文字もくっきりとしていて、遠くからでもはっきりと見える。
メルリアは看板を確認した。南がヴェルディグリ、レネット方面――今までメルリアが歩いてきた道だ。西はオウコウとの国境ミクリーフ、北はルーフスとの国境セラドン、グローカス方面。
ルーフス。その文字を見て、メルリアはイリスの姿を思い出す。
今になって思えば、イリスともう少し話をしてみたかった。もしルーフスへ向かうことになったら、その時に会えるといいけれど――メルリアはルーフスと書かれた文字を見つめ、目を細めた。
「……北は、こっちでいいんだよね」
メルリアは顔を上げると、位置と看板の向きを二度確認した。街道はほとんど景色が変わらない。間違えて進んでしまったが最後、街にたどり着くまで、間違いに気づかない可能性も十分あり得るのだ。
念のため、もう一度……。三度目の確認をしていると、三叉路の西側から歩いてきた人物が足を止めた。看板を難しい表情で見つめるメルリアに気づくと、彼は目を丸くする。
「メルリア?」
……今、自分の名前を呼ばれた?
メルリアは顔を上げた。その人物の姿を見るなり、ぱっと明るい表情に変わる。
「あ……! クライヴさん、お久しぶりです」
メルリアはとっさに頭を下げた。二人が顔を合わせるのも一月ぶりだ。ベラミントの村外れ、シーバの街、ヴェルディグリへ向かう街道――。メルリアが旅を始めてから、外で会うのは三度目になる。
あの時と変わらない様子にメルリアはほっと安堵した。
「はは……また会ったな。まさか、こんなところで会えるとは思わなかったよ」
クライヴは小さく笑みを浮かべると、背負っているリュックの紐に触れる。疲れを吐き出すように腹から大きく息を吐いた。
「クライヴさん――」
「メルリアの方はどうだった? あれから進展はあったか?」
メルリアの呼びかけに被せるようにクライヴは尋ねると、北方の空を仰いだ。青天に湿気を帯びた生ぬるい風がそよぐ。かと思えば、強い風が西方の森から突き抜け、濃い青色の葉が数枚宙に舞った。
メルリアはクライヴの表情を伺おうとするが、顔を背けているせいで判断できなかった。少しいつもと違う様子が気がかりではあったが、声のトーンを実際の感情よりも数段落として話し始める。
「クライヴさんと別れてから今朝まで、ずっとヴェルディグリにいて。ようやく手がかりが掴めたかな……? という感じです」
「はっきりとは分からなかったのか?」
メルリアはその問いに頷く。しかし苦笑するどころか、笑顔を作って続けた。
「でも、詳しい人を紹介してもらったんです。だから、もうすぐ……」
メルリアは空に向かってにこりと笑うと、これからの期待に胸を膨らませた。
ネフリティスの工房にいた時は、あまりにも事態が急で実感がわかなかったのだ。こうやって街道に出て、クライヴに話して、やっと気持ちが追いついた。グローカスの夜半の屋敷を訪れれば、祖母との夢に近づくし、会いたい人にも会える。曾祖父――ロバータの父がどんな人だったのかも興味がある。抑えようにも次第に声が弾んでいった事に、メルリアは気づいていなかった。
そんな様子のメルリアをチラリと伺うと、クライヴは不思議そうに眉をひそめた。
「よくそんな風に希望が持てるな」
クライヴは吐き捨てると、拳を握った。視線を足下にそらす。どうしてそう言い切れるのか理解できなかったのだ。
自分と目を合わせようとしないクライヴを見て、彼の視線の先と彼の表情を交互に見取る。クライヴとは逆方向に視線をそらし、ほんの一瞬考え込んだ。やがて、意を決したように一歩前に出る。
「何か、あったんですか?」
「……医者にさ、言われたんだ」
大げさに、他人事を装うような声だった。不安げにこちらを窺うメルリアの表情が視界に入って、顔を背けるように視線をそらす。脇に広がる森の闇を見つめながら、諦めたように笑った。
「『どこにも異常はない、そんな症状はあり得ない』、『人間じゃないんじゃないですか?』だってさ」
当時の苦い記憶を呼び起こしながら、クライヴは聞いたばかりの声を繰り返す。馬鹿にされた表情を思い起こすと、嘲笑に似た笑いが自然と漏れていた。
「ひどい……」
メルリアは胸の前でぎゅっと自身の手を握る。
その言葉にメルリアは愕然としていた。そんなにひどい事を言うお医者さんがいるのか、と。
「だったら俺はなんなんだ? あれは全部嘘だって言うのか」
沸々と怒りと呆れに似た感情がクライヴの心の底から湧き上がる。決して声を荒らげる事はなかったが、行き場のない感情が彼の頭の中を支配していた。そんなはずない――心の奥底から言葉を棄てようと短く息を吸った。
「そんなこと、ないです」
クライヴが棄てるはずだった言葉を口にしたのはメルリアだった。彼女は静かに首を横に振ると、悲しげに目を細めた。
「クライヴさんの体のこと、私には分からないけど……。勘違いなんかじゃないって断言できます」
自然と作った握り拳から力が抜けていく。その右手を、メルリアは両手で包むように握った。やるせない怒りを感じていた彼の手は冷たく、その手に触れた彼女の手は温かい。
「それに私……、クライヴさんがとっても優しい人だって、知ってます」
メルリアは真っ直ぐに言うと、触れた手にほんの少し力を込める。柔らかい表情で笑った。
クライヴは目を見開いた。彼女の言葉に嘘偽りはない。誇張や自分の言葉を恥ずかしがる様子もなく、ただひたすらに真っ直ぐだ。胸の奥にじわりと熱が広がる。それはまるで、混沌とした宵闇の世界に一条の光が差すように。いつだってこの子は真剣だ――クライヴは自然に笑みを浮かべると、左手をメルリアの頭に伸ばす。髪の分け目を気遣いながら、彼女の頭を撫でた。
「ありがとう」
メルリアは黙ってそれを受け入れていた。
頭を撫でられたのはいつぶりだろう。こうされていると、どこかから懐かしい記憶が蘇ってくる。メルリアはゆっくりと記憶をたどった。
――ああ、そうだ。祖母がまだ元気だった頃。よく頑張ったね、ありがとうと、ロバータはたびたび彼女の頭を撫でていた。メルリアはそれが好きだった。少しざらついてちょっと痛い手で、時々髪に絡まるけれど、それがロバータらしいと思っていたから、決して嫌いではなかった。
「――っ、悪い! 突然、触ったりとかして」
「いえ、そんな。なんだか懐かしかったです」
クライヴはメルリアの頭から慌てて手を離し、メルリアもクライヴの手を離す。
メルリアは照れくさそうに笑うと、ずれたリュックを背負い直した。中身が音を立てて動く。
「メルリアはこれからどこへ向かうんだ?」
「グローカスに向かうつもりです。クライヴさんは?」
クライヴの右手の人差し指がピクリと動く。看板を見て少し悩んだ後、彼は眉をひそめた。
「北に行こうとは思ってたんだ。けど、どっちへ行こうか迷ってて」
「じゃあ、とりあえず次の分かれ道まで一緒に行きませんか?」
まるで手を差し伸べるように、メルリアはにこりとクライヴに微笑んだ。
クライヴの右手がどうしようかと落ち着かない様子で動き、最終的に鞄の紐に触れて落ち着く。
「そう……だな。しばらくあるし、一緒に行くよ」
「よろしくお願いします!」
深く頭を下げ、メルリアは笑顔を浮かべる。その表情はとても嬉しそうだった。
事実、嬉しかった。一月前に戻ったような気がしたからだ。あの時は馬車で、今からは徒歩で。ヴェルディグリからここまでそこそこの距離を歩いてきたはずなのに、脚の疲れをあまり感じない。今ならどこまでだって行ける気がした。