25.未来へ

文字数 3,648文字

 朝からどんよりと分厚い雲に覆われた空は、今にも雪を降らせそうな風情で年の瀬の町を凍てつかせている。町を歩く人達は寒そうに背を丸め、足早に通り過ぎていく。それでもその足取りがどこか軽やかなのは、間もなく訪れる新年への――あるいは休暇への――期待故だろうか。
 ほんの数日前まで、どこに行っても聞こえてきた『ジングルベル』も『サンタが町にやって来る』も、もはやどこからも聞こえない。代わりに流れるのは『お正月』のメロディだ。
 昼時を過ぎたこの時間、歩いているのは学生風の若者ばかりだ。昼休みを終えた社会人は皆、年内に仕事を終わらせるべく足早に職場に戻った後だ。
 そんなどこか浮き立った師走の町を、林田亮介は足早に歩いていた。ふと耳が拾った『春の海』の琴の音に、この曲の題名って何だっけ、などとぼんやりと思う。
 その内に目的地に到着した亮介は、足を止めるとそっと辺りを見回した。誰も着いてきていないことを確かめて、ほっと息を吐く。
 ――あの日以来、時々こうして、辺りを警戒するようになった。誰かに――あの得体の知れない男が見ているのではないかと、不意に怖くなるときがある。
 ふう、と息を吐いて、亮介はその細い路地に足を踏み入れた。
 最初に到来するのは、懐かしさだ。自分の場所に「帰ってきた」という感覚――そして、それが既に失われてしまった事への郷愁が遅れて胸を塞ぐ。
 ゆっくりと足を進める先に、地下に降りる階段がある。その降り口の横の壁に、一枚の紙が貼られていた。
「――閉店の……お知らせ」
 それは、この路地の地下にひっそりと佇んでいたバーの閉店を告げる報せだった。
 印字された素っ気ない報せを読み上げる声が震える。昨日、偶然出会った路地の仲間から話を聞かされた時には半信半疑だったものが、目の前で存在を誇示している。
「マジかよ……」
 サングラスをかけた男に追われ、マスターと共にこのバーに逃げ込んだのは、つい先日のことだ。あれはまだクリスマス前だったが、そこから2週間も経っていない。それなのに。
 喉の奥――いや、胸の底からこみあげてくるものを押しとどめ、亮介は俯いた。路地に仲間達が寄りつかなくなって、それでもここに来れば、マスターだけは迎えてくれるとそう思っていた。なのに。
 身体の脇で握りしめた拳が震える。自分はまたひとりぼっちになってしまった。ぽたり、と一滴の涙が靴に落ちた。
「――あらー亮介じゃないの。そんなとこで何やってんの」
 唐突に、足下から声が掛かったのは、その時だった。
 はっと目をやると、階段の下の扉が開いて、マスターがこちらを見上げていた。
「マスター!? え、あれ、閉店って」
 マスターの顔と壁の張り紙とを交互に見やる亮介に、ああ、とマスターが頷いた。
「それ見たのね。ま、とにかくそんなとこにいないで入ってきなさいな」
 促されて、亮介は階段をゆっくりと降りた。この間、男に追われて駆け下りた時とは反対に、ゆっくりと。
 バーの店内に入ると亮介は室内を見渡した。見たところ、先日と大きく変わったところはない。
「閉店……すんの?」
 カウンターの奥で何やら飲み物を準備し始めたマスターの背中に声をかける。
「一時的にね。ほら、こないだヤバい奴に目をつけられちゃったから、ほとぼりが冷めるまで閉めることにしただけよ」
 ウーロン茶を満たしたグラスを亮介に手渡して、マスターは自らもスツールに腰掛ける。
「一応、ここを閉めてる間は他の店で働く予定だから、何かあったらそっちに来なさいな。昼間は大抵こっちにいるし」
 そう言って差し出された二つ折りのメモ用紙を受け取って、亮介はほっと息を吐いた。「ここにいても良い」と言ってもらえる――「いても良い」と思える――場所を失わずにすんだことに安堵する。
「あ――あのさ、ユイのことなんだけど」
 あの日、結局ユイは最後まで口を利いてくれなかった。亮介は自宅まで送り届けられて、そのままだ。
 できることなら、もう一度会って話がしたい。話したからどうなるものでも、許してもらえるものでもないとは思うけれど。
「それ」
「?」
「その店、昼間はカフェなんだけど、あの子バイトに入ることになったから行ってみれば?」
 見上げた視線の先で、メモを差し示しながら、マスターのひげ面がにやりと笑った。

 メモに書かれていた店は、繁華街から少し離れた地区にあった。オフィス街にほど近く高級路線の店が多いため、亮介達のような学生にはなかなか敷居の高い地域だ。通りに面した雑居ビルの一階で営業しているその店は、店の外観も内装もいかにもおしゃれなカフェバーという雰囲気だった。
「……おまたせ」
 バイトを終えて出てきたユイに、亮介はほっと息を吐いた。恐る恐る店内に突入し、仕事中のユイになんとか声をかけて話をしたいと切り出したまでは良かったが、店を出てから彼女が仕事から上がるのを待つ間、あまりの場違い感にずっとそわそわと落ち着かない気持ちだった。
 二人肩を並べ、無言のまま歩き出す。仕事納めも済んだ年の瀬、オフィス街は人気も少なく静かなものだ。
「……あたしさ、学校行き始めたんだ」
 歩き始めてしばらく経った頃、ぽつりとユイが言った。
「マスターの知り合いの人がオヤジとの間に入ってくれて、結局うちのオヤジ、しばらく施設に入院?することになったんだ。で、ウチ、母親いないし、他に親戚とかも知らないからマスターの知り合いの人が後見人?みたいのになってくれて」
 今はその人の保護の元、一人暮らしをしているのだと、ユイは言う。
「前はさ、家にいてもオヤジは酒飲んで暴れてるし、殴られるの嫌だからずっとふらふらしてたけど。今はバイトしながらお金貯めて、卒業したら専門学校に行こうと思って」
 そう言うと、ユイはすっと視線を下げた。
「それに……夜の街はやっぱアブないしさ」
「……そうだね」
 そっと同意して、亮介も目を伏せる。それを口に出すことはなくとも、その声が、表情が、今ふたりが同じ事を思い返していることを告げる。
「俺もさ、最近はまじめに学校行ってる。夜は……正直家にいたくなくて友達んちに行ったりすることもあるけど。俺んち、親が仲悪くて、いっつもけんかしてるから」
 あれ以来――といっても、まだほんの2週間程度だが、夜に外をふらつくことはなくなった。「でも、どうしても家にいたくない時は、店に行ったら泊めてくれるってマスターが言うからさ」
 そう言ってもらえるだけで、気持ちが少し軽くなった。少しだけ前を向けるようになった気がする。
「だからもうちょっとガマンして、寮のある高校に入ろうと思って」
 本当はもう、中学を卒業したら家を出て働くつもりだった。親は当然のように進学するものと思っているようだったが、家にいることも親の世話になることも、もう堪えられなかったから。
 けれど、家に居場所がなくても、自分を受け入れてくれる人がいる。そう思ったら、ほんのすこしだけ余裕ができた。
「え、ちょっと待って。リョースケあんた中学生?」
 驚いたようなユイの声に、亮介は瞬きをする。
「中3……だけど」
 その言葉に、ユイが弾かれたように笑いだす。
「やだ、年下じゃん! あたし同い年くらいだと思ってた!」
「え」
「あたし高1だもん」
「うそ、年下かと思ってた」
「マジで? そんな若く見える?」
 ケラケラと楽しそうに、ユイが笑う。そんな明るい表情に、亮介もつられて笑い出す。
「……あのときは、逃げてごめん」
 やがて。ひとしきり笑い疲れて、二人とも息が切れてきた頃。亮介は言った。
「いーよ、もう。中坊じゃあしょうがないよね」
「1歳しか違わないのに、ガキ扱いすんなよ」
「あはは、むくれてやんの」
 そう言って、ユイは亮介を見上げた。
「ほんとはさ、あんときめっちゃ怖かったし、あんたが逃げたのもめっちゃ腹立ったし、あり得ないと思ったよ。けどさ、そりゃあんなん出たら、誰だって逃げるよね」
 伏し目がちに、ユイは静かな声でそう語る。
「それに、こないだんときは、ちゃんと助けようとしてくれたし。あれでチャラにしたげる」
「……うん」
 亮介もまた、静かに頷いた。
 師走の冷たい風が、二人の横を駆け抜けていく。
「じゃ、またね」
 先にそう告げたのは、ユイの方だった。
「うん、また」
 亮介もそう返す。
 連絡先を交わすことも、次の約束をすることもない。けれど、きっとまた会うのだろう。なにしろ、自分たちの間にはひどくお節介な――おかしな大人が立っているのだから。マスターのところに行けば、また会える。そう確信しているからこそ、約束は交わさない。
 次に会う時には、今よりも少し成長した自分でありたいと、ただそう願う。
「じゃ、あたしこっちだから」
 そう言って、ひらりと手を振ったユイが地下鉄駅の方へと歩み去る。その背中を見送って、亮介もまた、踵を返した。
 木枯らしはまだ冷たく厳しくとも、年が明ければ春が来る。少年の双眸に、その新たな未来の光が兆し始めていた。
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