22.対峙②

文字数 2,876文字

 ことりとピンセットを置くと、男は小さく息を吐いた。次いで、傍らに転がっているペンを取り上げ、手元の紙に何やら書き付ける。さらさらと淀みなくペンを動かしながら、反対の手でマグカップを掴んで口元に寄せ――動きを止めた。空だ。
「……」
 はあ、と溜息を吐くと、芦名勇人(あしなはやと)――マスターと呼ばれる男は目を上げた。背後の壁際に置かれた小さな時計に視線を向ける。午後四時半。そろそろ、日も沈みかける頃だ。
「おせえな、あいつら」
 亮介を探しに行くと言って出たレイとレオがなかなか帰ってこない。街だけでなく自宅の方にも回ると言っていたが、まだ見つからないのだろうか。いやそもそも、なぜ『ランブル』の長官職ともあろう者たちが部下に任せるでもなく、ただの人界人の少年を自ら探しに行っているのだろうか。どうにも、あの司令部の連中はこぞってフットワークが軽い。
 焦る気持ちを抑えるように軽く目を伏せる。店のカウンターに広げられているのは、大判のコピー用紙だ。その中央に、米粒ほどの小さな黒い粒が一粒。それを取り囲むように書かれた八角形の術式は、淡く黄金の光を発している。レイが書いたそれは、ぱっと見たところ、中央に置かれた物体の組成や効能を分析するためのものらしい。一定の時間毎に、読み取った情報が別の術式となって浮かび上がる。それを書き取るのが、彼に割り振られた仕事である。
「……しっかしえげつないな、こりゃぁ」
 術式の真ん中にぽつんと置かれた小さな黒い粒を見つめて、マスターは呟いた。昨夜、ユイが持ってきたものだ。どうやら亮介と街中で遭遇して逃げた後、紫月に声を掛けられたらしい。亮介との一件を見ていて目をつけたのか、ただ偶々声を科掛けてきただけなのかはわからない。ただ問題なのは、それが明らかにこれまでとは異なる『闇の胤』だったことだ。
「意図してユイを選んだなら……挑発か、陽動か」
 これまでの『胤』をさらに濃縮したような、見るからに邪悪なそれが万が一にも発動しないよう、紙の四隅に書かれた小さな術式が封じている。
 袋に入っていたのは、このたった一粒だけ。その黒い粒からは、糸のように細く黒い靄が湧き上がっている。つまりはこの一粒だけで、十分な効果を発揮するということなのだろう。実際、ここまでの分析結果を見るだけでも、即効性がすさまじいことがわかる。
 問題は、それを使って何をするつもりなのか――だ。
「まあその辺は、司令部が考えるか」
 独りごち、新たなコーヒーでも入れるかと立ち上がった瞬間、ふわりと空気が動く。と、思いきや。
 ガタガッターンッ!
「なに!?
 派手な物音に、マスターはビクリと飛び上がり、音のした方を振り返った。
「――ったぁ……僕としたことが、座標読み違えるなんて」
「亮介!?」
 フロアのテーブルをひっくり返して尻餅をついているレイのことはさておき――どうせ大丈夫だ――、床に転がった亮介の方へと近づ――こうとして、足を止めた。
「……って、なんだ、こりゃあ」
「紫月だよ。先んじられた」
 いたたたた、と強かに打ち付けた箇所を押さえながらレイが立ち上がる。
「僕が見つけた時は、既にこうなってた。これでも対処してちょっとマシになった方だよ」
 床に横たわる亮介の身体から、呪符を張られた闇の塊が飛び出している。金色の綱のような光で括られたそれが今にも蠢き出しそうで、マスターは小さく唸る。
「とりあえず、応急処置――の前に」
 亮介に向けて、レイが腕を伸ばした。
Tempus cessaverunt(時よ止まれ), laxe(ゆるやかに)
 呪を紡ぐと同時に、光が亮介と闇の塊を覆っていく。
「助っ人が来るまでの時間稼ぎだよ」
 そう言うと、レイはカウンターの隅に置かれた電話機――『ランブル』の内線専用だ――に手を伸ばす。
「指揮官、紫月が出た。今、チェンが交戦してる。――うん、リョースケは今のところ無事。中山かハギワラに連絡ついたら、こっちに来させて。うん、そう。――ん? そんなの僕に言われても知らないよ。じゃあ、あとよろしく」
 どう考えても上官相手の通話とは思えない口調で手短に用件だけを伝えると、受話器を置いて、レイはくるりとマスターに向き直った。
「で、ハヤチ。ここまでの成果を報告してくれる?」
「その名で呼ぶなっつってんだろ」
 もう捨てた名だ。現在の自分は「芦名勇人」なのだがとぼやきながら、彼は先程まで解読した術式を書き込んでいた紙を取り上げる。
「とりあえず、ここまでは進んだ」
 と、紙の束を示しながら簡潔に説明を進める。それを聞きつつ、レイは別の紙にさらさらと術式を描き始めた。一見するとこちらの報告を聞き流しているようにも見えるが、視線はマスターの説明している術式の書かれている箇所にその都度飛んでいるから、どうやら聞いてはいるらしい。
「――で、何してんだ」
 ひとしきり説明を終えると、マスターは訊ねた。応えはないが、そもそも答えを求めたわけでもない。
 猛烈な速度で走るペン先が驚くほど緻密で細かい術式を描いていくのを見れば、『胤』の解除式を作成していることは判る。六芒星をふたつ重ねたような、花のような美しい術式が瞬く間に組み上げられていく様を、マスターは感嘆とともに見つめた。伊達に自ら天才を名乗っているわけではないらしい。
「これで、少しは弱体化させられるはず……っと」
 仕上がった呪符を亮介の身体に貼ると、レイは続けざまにふたつめの術式を書き始める。
「あ、多分そろそろ中山かハギワラが来るから。来たら状況だけ教えといて」
「……誰だって?」
「中山は前に会ったでしょ。公安長だよ。後ハギワラは普通の人界人。大学生」
「あぁ? 何で学生が」
 問い返すが、既に作業に没頭してしまったレイは答える気配がない。おそらく既に何も聞こえていないだろうと溜息を吐くと、マスターはガシガシと頭を掻いた。公安長、というのは何となく覚えている。顔合わせの際、こんな若くて小柄な娘が武官長なのかと驚いた記憶がある。問題は、もう一人の大学生とやらだが――。
「……あの、こんにちは?」
 その時、カウンターの奥の扉――これも『ランブル』直通用に増設されたものだ――がそろりと開き、見知らぬ青年が顔を出した。
「……あんたが萩原とやら?」
 日本語で訊ねれば、相手はぴょこりと頭を下げた。
「あ、はい。萩原睦月です」
「……」
 確かに人畜無害そうな普通の人界人だ。その彼がなぜ、この緊急時に『ランブル』の長官職に呼び出されたのか。その経緯が飲み込めないまま、マスターは「あー」と声を上げた。
「レイに呼ばれたのよね? 見ての通り、しばらくはあの状態だから、その間に状況を説明しておきたいんだけど、いいかしら?」
 その言葉に、萩原という青年は小さく首を傾げた。次いで、フロアにしゃがみ込むレイの背中を見やり――その傍らの闇の塊も目に入ったのだろう。きゅっと目元を引き締める。
「……」
 その表情だけで、彼が文字通りの「ただの人界人」ではないことが察せられる。
「手短に話すわよ」
 釣られるように気を引き締め、マスターは言った。
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