第8章 苛む記憶① ※

文字数 1,607文字

 遥か前方にそびえ立つ堅牢なな石造りの建物を見上げて、友香は溜息を吐いた。

 監察部。
 精界や人界で問題を起こした精界人を収容し、罪の度合いに応じて処遇を決める、いわば司法機関にあたる部署だ。
 その性質から、監察部は本部からは離れた森の中に設置されている。周囲は何重もの強力な結界で守られ、外部の人間はそこに至る道すら見つけることができない。ゲートも建物から少し離れた地点に作られており、建物への出入りは監察部に所属する者以外は司令部所属の者――つまりは幹部に限定されているという徹底ぶりだ。

 友香はこの石造りの建物が好きではなかった。
 それは、この建物が強烈に暗く冷たい印象を与えるからだけではない。

 ――下賤の娘は嘘が上手い
 ――本当ならば、おまえなぞ出入りすら許される筈もないのだ

 草を踏みしめながら建物に続く道を一歩進む毎に、押し込めた記憶の中の声が幻聴のように脳裏に蘇る。

 ――おまえなど、私の一言でどうにでもできるのだぞ

 堕天を促す悪魔のように繰り返される声。
 石造りの壁に硬い革が打ちつけられる、鋭い音。
 どんなに忘れようと努めても、心の奥深くに刻まれて決して消えることのない、その記憶。

 それは、「監察」という言葉と固く結びついて、離れない。

「………………っ」
 声にならないうめき声をあげ、友香は足を止めた。

 建物までは、まだ距離がある。先に進まねばと思うのに――身体が、それを拒んでいる。

 膝はいつの間にかがくがくと震え、とうの昔に完治した背中の傷が、じくじくと疼き始める。
 『やっぱりアレクに頼めば良かった』と気弱な自分の声が、心の奥底でくり返し呟いている。

「……大丈夫、しっかりしなさい」
 弱気になった自分を叱咤するように、友香は小さく呟いた。
 二度三度、同じ言葉をくり返し、小さく深呼吸する。

 ――大丈夫、昔とは違う。私も……監察も。

 傷跡が疼く背中から、少女の体温が伝わってくる。
 自分よりも幼く弱い者に対する責任感が、心の揺らぎを静めてくれた。

 自らを奮い立たせるように大きく頷いて、友香は再び足を動かした。
「大丈夫。いつまでも、みんなに頼ってばかりはいられないもの」

 幾度も幾度も。
「大丈夫」とくり返しそう呟きながら、ただひたすらに足元だけを見て進む。

 その足が、再び――――止まった。

「…………っ」

 気がつけば、すぐ目の前に迫っていた石造りの堅牢な門を見上げ、友香は息を呑む。
 外側からは開かない灰色の石門の周囲には、天秤をかたどったレリーフが刻まれている。

「――――――」
 再び、足が震え出すのを止めることはできなかった。
「大丈夫――中にはロンもハルもいる。大丈夫……」
 目を閉じ小さく呟いてから、ゆっくりと目を開く。
 もてる全ての精神力を振り絞り、友香は呼吸を整えた。
 深呼吸をくり返し、震える身体を――叫びだしたくなるほどの恐怖を必死に押し留めながら、扉脇に設えられたノッカーに手を伸ばす。

 だが、ノッカーに指先が触れた瞬間。彼女は電流でも流れたかのように、ビクリと全身を震わせて硬直した。

 ――今話せば、帰してやらないこともないぞ

「……違う。幻聴よ、大丈夫……」
 リアルに耳元に蘇った低い声を追い払うように、友香は激しく頭を振った。
 そんな彼女をあざ笑うかのように、声はくり返し囁きかける。

 ――知らないはずはあるまい? さあ、話せ

「――ぃや……何も、知らない」

 息ができない。
 目の前が――――暗くなる。
 吐きそうだ。

 ――助けて

 落ち着け、と繰り返す理性とは裏腹に、心は6年前のあの日に逆戻りしようとする。

 ――助けて。誰か……助けて

 がくり、と友香は足元の草むらに膝をついた。
 脳裏に響く声を遮断しようと、目を閉じ、耳を塞ぐ。
 支えていた手が外れ、背負っていた闇の者の少女がずるり、とずり落ちた。だがそれにも気づかぬまま、彼女は身を折り、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返した。

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