5.逡巡②

文字数 2,096文字

「…………知ってた。けど」

 エイダのことを思い出した頃から、リンは塞ぎがちになった。
 戻らねばという焦りと、戻ることへの恐怖。エイダとその赤子の現在を心配する気持ちと、主への不信。
 その相反する感情はリンの気持ちを塞ぎ、食欲を著しく低下させ、眠れない日々をもたらした。

 ハリーが毎日ここに顔を出すようになったのは、その頃からだ。
 リンが食事をまともに取らなくなってから、彼は毎日欠かさずここに来ては、一緒に食事をするようになった。最初は昼食だけを。それから次第に、朝食や夕食も。
 何を話すでもない淡々とした食事だったが、彼と差し向かいで食事をしていると、食欲がなくてもそれなりに食べることができた。

 だから――おそらく心配されているのだろう、と薄々気づいてはいたのだ。
 ただ、そう感じる自分から目を背けていただけで。

「――で?」
 物思いにふけっていたリンは、その声にはっと我に返る。見上げると、ロンの視線が真正面からこちらを見据えていた。その目には、どこか面白がるような色が浮かんでいる。
「何を悩んでんだよ?」
 真っ直ぐに投げ込まれたそのボールに、リンは咄嗟に返す言葉を見つけられずに息を呑んだ。
「…………尋問か」
「いいや? どっちかってぇと人生相談的な?」
 にやりと笑って、ロンが足を組み替える。
「悩んでも答えが出ない時は、誰かに相談してみるってのがセオリーだろ」
 相棒の様子がおかしくなったのは、リンに掛けられていた記憶封じの術式を解いてからだ。ひどく思い悩んでいる様子の少女を気に掛けながら、しかし彼女が自ら話し出すのを待とうと、休みすら取らずに日参するハリーに、ロンは何度か忠告したのだ。

 そんなに気になるなら、直接訊けば良いではないかと。
 しかしハリーはそれをよしとしなかった。自分から話してくれるのを待たなければ、芽生えかけた彼女の自分たちに対する信頼が無に帰してしまうと、そう言って。

「実言うと、今日もハルには再三、念を押されてんだよな」
 と、ロンは人の悪い笑みを浮かべる。
「おまえが自分から話したがるまで、聞き出そうとするなって」
「……」
 ならば、今ロンがしていることは、相棒の意に反しているのではないか。リンの視線に、若干の咎める色を読み取ってロンは苦笑する。
「だから、人生相談だって。別に、話したくないならそれで構わねえし」
「それは詭弁じゃないのか」
「頭かったいなあ、おまえ」
 子どもなのに、と笑って、ロンはひらひらと手を振った。
「自分じゃどうしようもない場面で、誰かに助けを求めるのは恥ずかしいことじゃねぇぞ」
「……」
 子ども扱いされたことは癪だが、紫月に襲撃されたあの夜、怯えることしかできなかったリンのことを、身を張って助けたのはロンだ。その彼にそう言われてしまうと、返す言葉がない。
「――ま、俺じゃなくてもいいさ。ハルにでも相談したらどうだ?」
「……意味が分からん」
 話せと言ったり、話さなくていいと言ったり。支離滅裂だ。
 ただ、何となく――これが言いたくて水を向けたのかと、思わないでもない。
「大体なあ、ハルは過保護すぎんだよ。いくら約束したからって、あからさまに袋小路に陥ってんのをただ見守ってたって埒があかねえっての。なあ?」
「……同意を求めるな」
「訊かれた方が話しやすいって時もあるよな?」
「だから――」
「ま、気が向いたらでいいからさ。相談してやれば、あいつも安心するんじゃねえ?」
「…………」
 ロンの言葉が、リンの胸をチクリと刺す。
 ハリーには心配をかけていると、多少なりと自覚しているからこそ、言葉が痛い。
 どんな顔をすれば良いのかと迷う間に、小鳥のさえずりと、食器が鳴る音だけが室内をたゆたう。

 ――これ以上、気を許すな。期待をするな。彼らは敵だ。

 自戒するように、胸の裡で繰り返し呟く。何度も何度も、自分に言い聞かせるように。
 どんなに居心地が良かろうと、どんなに助けて欲しくとも――ここは敵地で、リンは捕虜なのだ。
 油断すれば、唐突に手のひらを返されるかもしれない。だから決して彼らを信じるな、期待をするなと、心の内側から堅くかたく鍵を掛ける。

 そうすれば、悲しい思いだって――――しなくて済む、はずだから。

 けれど。
 彼らに全てを話して、助けを求めてしまいたい。そんな衝動を抱く自分を、リンはもはや否定することができない。

 気持ちが揺れる。それでも。
 自分は帰らなくてはならないのだ。大切な人のために。

「……なるほどなぁ。こりゃ、ハルも心配するわ」
 沈黙の横たわる部屋に、ぼそりと呟きが落ちた。
「!」
 その声に、リンははっと我に返った。自分の思考に没入して、ロンの存在をすっかり忘れていた。ロンはそんな少女の様子に目の色を和らげると、彼女の頭をガシガシと乱雑にかき混ぜる。
「んな……っ!?」
「なんつーか、あれだな。おまえはもうちょっと色々柔らかくした方がいいな」
「はぁ?」
「よし、ちょっと待っとけ」
 言うが早いか、ロンは立ち上がり戸口へと向かう。
「すぐ戻るから、飯食い終わっとけよ」
 ひらりと手を振って出て行くその背中を、リンは呆然と見送った。
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