17.地ならし③

文字数 1,721文字

「ヴァーレン…………」
 知らず知らずのうちに漏れた、囁きよりもなお小さな声が、空気を震わせた。
 一瞬にして、友香の全身の毛穴という毛穴から嫌な汗が滲み出る。地図を指していた右手が持ち上がり――心臓を握るかのように服を鷲掴みにした。その拳もまた、小刻みに震えている。はっはっという浅い呼吸音が耳をつく。くらり、と脳が揺れた。
「友香!」
 一足飛びに友香の所までやって来たロンが、床に膝をついて下から顔を覗き込んだ。上体を屈めた友香はきつく瞼を閉じて荒い呼吸を繰り返している。その顔色は既に血の気を失って青白い。
「ゆ――――――」
 声をかけようとしたロンは、しかしその直前で口を閉ざした。ぎゅっと目を閉ざした友香の呼吸が、わずかに深くなったことに気づいたからだ。
 呼吸の制御は、武官にとって重要な基礎訓練のひとつだ。友香は努めてゆっくりと息を吸おうと意識を集中させた。
 一回目よりも二回目、二回目よりも三回目。
 その都度、できる限りたっぷりと空気を吸い込み、長く吐きだす。そうしたらまた、さっきよりもゆっくりと吸って、吐く。幼い頃からの訓練で身体に染みついたそれを意識的に繰り返すことで、自然と身体が対応して正常に機能し始める。
 強ばっていた身体から、ゆっくりと力が抜けていく。
「…………だい、じょうぶ、ちょっと、まって」
 薄く目を開けると、心配そうなロンの瞳がすぐ近くにあった。背中にそっと触れているのは、おそらくアレクの手だ。
 そのまま、何度か深呼吸を続ける。そうするうちに、わずかな痺れを残して指先まで血が通い始めた。
「……ありがと。もう、へいき。続けて」
「――いいや」
 声と同時に伸びた手が、テーブルの上にグラスを置いた。カランという清涼な音が室内の空気を塗り替えた。
「いったん休憩しよう。秘書官からオレンジジュースもらってきたよ」
 いつの間に取ってきたのか、たっぷりとジュースの注がれたグラスをテーブルに並べながらハリーが言った。

 *

 昔のことだ。
 セルノの乱が収束した後、二つの種族を隔てる樹海の側には「継承者」の血を引く者たちが配置された。その当時、セルノとバルドを除く4柱の継承者たちが抱いた危惧をよく知る血縁者が各々の境界に住まうことで友好関係を保ち、光と闇の無意味な争いを防ぐ。それが当初の狙いだったという。

 しかし悠久の時が過ぎ去るうちに、本来の意図は失われていく。
 セルノの乱を機に幽界の門は閉ざされ、継承者が精界に現れることは――まして精界で伴侶を得ることなど――久しく絶えた。一方で、深い樹海に遮られた光と闇もまた、互いに交流が途絶した。
 時が遷り、往事の争いを知る者が喪われていくにつれ、セルノの乱に――光と闇との諍いに――「継承者」たちが抱いていた危惧もまた、形を変えながら喪われていった。

 こうして辺境には、「継承者」の血統という、もはや形骸化された冠だけが残された。その血は長い年月の間にすっかり薄れてしまったが、その遠い昔に継承者の――神の――血を引いたというその一点が、一族の誇りとなった。「継承者」の血縁故に辺境に封ぜられたという事実が彼らの特権意識を助長し、種族間交流の途絶は、長い年月の間に異種族への反感と敵意、憎悪と蔑視を醸成する土壌となった。
 中でも――最も広範囲に樹海と接するヴァーレンと呼ばれる地域は、その傾向が極めて強いとされる。

「……既に情報部には、各地域を調べるよう通達した」
「まあ、シューデンとオラリスは地理的にも性質的にも可能性は低そうですけどね」
 樹海の北端には切り立った山脈が聳えている。四季の移り変わりのない精界において唯一の極寒の地である山脈からは常に冷気が流出しており、そのせいでシューデン領に接する樹海は氷に閉ざされた地と化している。
 一方、気温の高い南側のオラリス領に接する森には、多くの動物が生息している。より多くの果実を求めた草食動物が南へと移動した結果、今ではそれを追ってきた獰猛な肉食獣も増えたため、それらを森から出さないための強い結界が、樹海を囲むように張られている。
 つまりこの両地域では、生後間もない赤ん坊を連れた母親が単身、樹海を渡ることは極めて困難だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み