10.交換条件②

文字数 2,584文字

「あの子は、マスターの娘か?」
 レオの問いに、カラカラと氷の入ったグラスをマドラーでかき混ぜながら、マスターは渋面を作った。
「いやあね、違うわよ。そんな年に見える?」
「見えはしないな。なら――」
「……あの子はね、帰れないの」
 できあがったグラスをレイの方に差し出しながら、ぽつりとマスターは告げる。
「この店に来てたのは、多かれ少なかれ、みんなそんな連中ばっかりだったけど」
 光量を落とした店内に、少女の姿は既にない。
 医療長による気療は終わったが、それはあくまで少女が心の傷と向き合い立ち上がる力を貸すものに過ぎない。どの程度まで言葉が戻るかも分からないため、一晩はマリアムが彼女の傍で様子を見ることになり、とりあえずは近所のビジネスホテルへと移動していった。
「あたしもあの子から聞いた話しか知らないけど、親父さんが飲んだくれらしくてね。家に帰りたくないって、ずっと仲間のところを渡り歩いてたのよ。でもあの日、逃げ遅れたあの子を、誰も助けなかったから」
 仲間だと思っていたのに、裏切られた。恐怖だけではない、その思いが少女から言葉を――居場所を奪った。
「――だから、あたしが保護してたのよ」
 自分用にとロックグラスに注いだウィスキーを一気に呷り、マスターは溜息を吐く。
「面倒見が良いんだな」
「……暴力を振るうような親んところに、声も出せない子どもを帰らすわけにいかないからな」
 低い声で、マスターは呟くように言った。男言葉に戻ったその口調には、どこか自嘲の響きがある。
「まあ、俺みたいなののとこに置いとくのもどうかと思うが」
「こんな夜の街、あんたがいなきゃ、あの子は今頃もっとろくでもない目に遭ってんじゃないの?」
 唐突に、それまでマスターとレオのやりとりを黙って聞いていたレイが口を開いた。
 どうやら待ちくたびれたらしいな、とレオは密かに苦笑する。まあ、ここまで待っただけ長く保った方だろう。
「……てか、あんたは何なのよ」
 急に口を挟んだレイに、毒気を抜かれた表情でマスターが返す。
「開発長だけど。言わなかったっけ」
「それは聞いたわよ。そうじゃなくて、あんた何しに来たの」
「それ! あんたさ、嵯峨のところの研究員だったんでしょ? てことは、多分術式にも詳しいよね?」
「………………」
「で、これなんだけどさ-」
 わずかに警戒した気配を見せるマスターに構わず、ずいっとレイが身を乗り出した。いつの間に取りだしたのか、手にはペンを握り、さらさらと紙製のコースターに術式を書き込んでいる。
「この術式、多分こういう構成式なんだろうってとこまでは当たりを付けたんだけど、そっからがいまいちでさあ。こういう構成理論って『闇』側では一般的なわけ?」
「待ってあんたこれ、どこで見たの」
 手元のコースターでは足りないと、近くの紙ナプキンに手を伸ばしかけたレイを、マスターが止める。
「やっぱ知ってるんだ。これってさ多分ここら辺と、ここら辺は別の術式なんだよね?」
 険のある声も意に介さず、レイはマイペースに手を動かす。
「ちょっとあんたね、人の話を――」
「レイがこうなったら、もう無理だ。諦めた方がいい」
 苦笑を浮かべたレオをひと睨みすると、マスターは深く嘆息した。
「何でこいつ連れてきたんだ」
「俺にはレイを止める術はなくてな。というより、止められる者がいるなら見てみたい」
「おい」
 実際、話を聞いた途端に着いてくると言って聞かなかったのだ。
 レオとのやりとりの間にも、レイは1人で捲し立てながら紙ナプキンにペンを走らせている。その様子をひとしきり眺め、マスターはもう一度、今度は深く長い溜息を吐いた。
「あー……ったく。そりゃあ、嵯峨の術式だ。間違いねえ」
 苦虫を数百匹は噛みつぶしたような表情で、マスターはガシガシと頭を掻く。
「ざっと見たとこ、記憶の書き換えが主だな。あとは塗り替えた記憶の強化・定着と――こっちは、多分、思考力に影響を与えるためのもんだろう」
「なら、この部分が記憶に関するものだね? この術式と同じものだと考えていい?」
 さらさらと瞬く間に書き上げたのは、先日までリンに掛かっていたのと同系統の記憶消去の術式である。
「それよりは大分強いもんだな。そっちのはただ封じるだけだろ。こっちは封じた上から別の記憶を書き換える分、複雑だし高度な技術が要る」
 何のかんのと言いながらも説明するあたり、やはり面倒見の良い性格なのだろう。
「なるほど、なら――」
 一層身を乗り出したレイを嫌そうに眺め、マスターはカウンターに肘をついた。
「解呪法は俺も知らんぞ。それは嵯峨が発掘してきた古い術式だからな」
「ならそれは僕が編み出すからいい。とりあえず基礎理論を説明してよ」
「めんっどくせえな……俺だって元は専門外だ。奴の下にいた頃に無理矢理たたき込まれたことしか知らねえぞ」
 次第に言葉遣いがぞんざいになっていくその一方で、マスターの目が真剣味を帯び始める。
「あー……ちょっと待ってくれ。その前に本題の方を済ませたいんだが」
 そのことに気づいたレオが、慌てて口を挟んだ。
 そもそもここにマリアム達を連れてきたのは、彼から「闇の胤」の話を聞くための交換条件だったのだ。ユイというあの少女に気療を施し心の傷を癒やす代わりに、話をするという取り決め――の筈が、このままではレイの勢いに負けてうやむやになってしまいかねない。
 もしかして会わせてはいけない組み合わせだったのではなかろうか、という思いがレオの内心をよぎる。
「ああ、そうだったな。『胤』の件か」
 はっとしたように顔を上げる辺り、マスターは研究者肌とはいえ、まだレイほど重症ではないらしい。
「待ってよ、ここからが大事なところで」
「だーったく……ちょっと待ってろ」
 レイの顔の前に手を翳し、マスターはカウンターを離れる。そのまま奥のストックルームへと入って行ったかと思うと、数分後、腕に包みを抱えて戻ってきた。
「俺が奴のところから逃げ出すときに持ち出した資料だ」
 ドサリとカウンターの上に包みを置くと、マスターは言った。包みを解くと、中から数冊の古書と研究ノートとおぼしきものが現れる。
「資料!! 古文書!」
「それやるからおとなしくしてろ」
 途端に目を輝かせ、顔を埋めんばかりの勢いで文献を開き始めたレイを横目に、マスターはレオに向き直った。
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