第3章 邂逅①

文字数 2,980文字

 立派なレリーフの施された大きな門を見上げ、睦月は感嘆のため息をついた。
 中世の城砦のような重厚な石造りの建物は、しかし見た目の厳めしさとは裏腹に、門扉を開放しているようだ。そこを頻繁に人が通り過ぎているのが見える。
 この場所に出たのはつい先ほどのことだ。唐突に森が途切れ、その先に広がった風景に睦月は息をのんだ。
 澄んだ水を湛えた広大な湖と、そのほとりに建つ城砦。
 その風景を見た瞬間、大学のバス停前で見た景色の記憶が蘇った。角度こそ違え、それはグラウンドに重なるように現れた幻影と間違いなく同じ建物、同じ湖だった。
 きっとあの時点で、自分は半分意識を失い夢を見始めていたのだろう。睦月はそう結論付ける。
 城砦の門の傍には湖に張りだした桟橋があり、そこに船がつけられては大勢の人々が降りてくる。湖の上には濃霧が漂っていて向こう岸は見えない。ただ、相当大きな湖だということはわかる。
 船から降りてくる人々は、人種も性別も年齢もばらばらだ。ぞろぞろと列をなして、開け放たれた扉をくぐっていく。門番はいるが、特に入場者をチェックしてはいないようだ。絶え間ない人の流れをしばし眺めてから、睦月はゆっくりとその門に近づいた。

 声をかけられたのは、門まであと数メートルまで近づいたところだった。
「――君」
 その呼びかけが聞こえても、睦月はそれが自分に向けられたものだとは思わなかった。そのまま、足を止めることなく前に進む。
 その時だった。
「君!」
 さっきよりも強い声で呼ばれると同時に、グイっと腕をつかまれる。
「!?」
 驚いて振り仰ぐと、門番と同じ制服を着た男が睦月を見下ろしていた。
「な……、なんですか?」
「……」
 睦月の問いに、男は無言のままだった。呼び止めたのは向こうのはずなのに、なぜか驚いたような顔をしている。
「あのぅ?」
「……萩原睦月というのは、君か?」
 男が尋ねた。唐突に名を呼ばれ、睦月はぎくりと身をこわばらせた。その反応に、門番の制服を着た男は、確信を得た表情を浮かべ、重ねて問うた。
「君だな?」
「…………」
 そうだと頷くべきか、それとも否定するべきか。なんにせよ、見知らぬ土地で見知らぬ人物に名を呼ばれるほど不気味なことはない――たとえこれが夢なのだとしても。
「年齢20歳前後、グレーのパーカーにジーンズ、学生風の男性。手配書の特徴とも一致する。萩原睦月だな?」
 ――手配?
 予想もしていなかったその言葉に、むくむくと不安が沸き上がる。どうして、こんな知らない土地に自分の姿や名前の情報が出回っているのだろう。夢だとしても、いや夢だからこそ、この先の展開に嫌な予感が沸き上がる。
「あ、あの」
「さあ、こちらに来てもらおう」
 睦月の答えを聞かず、門番の男は睦月の腕を引いた。そのまま、人の列から連れ出そうとする。有無を言わさぬその態度に、瞬間的に恐怖心が爆発した。
「――――っ!」
 咄嗟に睦月は男の腕を振りほどいた。睦月が抵抗することなど考えてもいなかったのだろう。体格に勝る門番の腕は意外なほどあっさり外れ、男が反応できずにいる間に、睦月は人の列を割って走りだす。
「待て!」
 考えてのことではなかった。ただ、男とは反対の方向に逃げようとしただけだ。
 人々の列を逆走し、湖の方へと走る。すぐに睦月に声をかけた男と、異変に気付いた別の門番も追いかけてきた。少しでも距離を稼ごうと、行列をかき分けながら、睦月はあることに気づいてぎょっとした。
「え!?」
 これだけ密集した行列の中を逆走しているというのに、誰にもぶつからない。その違和感と、自分が人々の行列をすり抜けていることに気づいたのはほぼ同時だった。
「待て!」
 思わず足を止めかけた睦月は、背後の声に慌てて走り出す。
 肩越しに振り替えると、追手もまた人々の間をすり抜けている――いや、行列の方が睦月や門番たちをすり抜けているのだ。
「……う、わぁ!?」
 半ば恐慌状態に陥りかけながら前方に視線を戻したその瞬間、目の前にいた老人の顔に、睦月は思わず小さな声を上げる。
 ――ぶつかる!
 だがその老人も睦月にぶつかることはなく、するりと水のようにすり抜けた。
「なんなんだよ、もう!!」
 これだけ心臓に悪い展開が続いているのだから、夢ならそろそろ覚めてもいい頃だ。なのに状況は一向に変わらず、むしろ追手は4人に増えている。
 ――もう、考えるのはあと!
 睦月は左右に目を走らせた。右手に森の入口が見える。あそこまで行けば。
 くるりと方向を変え、睦月は森に向かって駆けた。

「いたか!?」
「いや、いない。そっちはどうだ!?」
 ガサガサと草を踏む音と、人の声。近づいてくるそれらを、睦月は息を潜めて聞いていた。
 森に入り、茂みに潜んで門番たちを撒いたまでは良かったが、追手はそう簡単には諦めてはくれなかった。人数こそ増えていないようだが、辺りをくまなく探し回っている。
 ――どうしよう
 見つかるのも時間の問題だが、下手に動いて見つかるのも怖い。
「大体、僕が何をしたっていうんだよ……」
 小声で愚痴りながら、睦月はそっと藪を搔き分けて辺りを見回す。追手の声が聞こえるのとは反対の方向に巨木があり、その根元に大きな洞が開いているのが見える。
 ――あそこに隠れられるかな
 この位置からでは洞の奥行きまではわからない。入れなければ危険に身をさらすことになるが、だめでも木の陰に一旦身を潜めることはできるだろう。
 そろりと、物音を立てないように気を付けながら睦月は藪を抜け、巨木の根元に向かう。覗き込むと、人ひとりが入れそうなスペースはあったが、奥行きが狭い。これでは外から丸見えだ。
「ダメかぁ……」
 呟いて、睦月は巨木の裏に回り込んだ。
 ――どこか、隠れられるところ……
 このままでは見つかってしまう。
 背後の藪に戻りたいが、門番たちの足音は着実に迫っている。もっと遠くに逃げなければ。
 ――こうなったら!
 一か八か、走って森の奥に駆け込もうとした、その時。
「!」
 木々の向こうから、一頭の馬が飛び出してきた。
「――なっ!?」
 間一髪。危うく馬に蹴られかけたところで、その背に乗っていた人物が手綱を引いたらしい。馬は甲高い抗議の声を上げつつ睦月の鼻先を掠めて通り過ぎ、少し先で停まる。
「……」
 思わずほっと息を吐く。今日だけですでに何度か九死に一生を得ている気がする。
「すまない、人がいるとは……」
 馬上の人物がそう言いながら、馬の鼻先を返す。
 どうやら睦月とそう変わらない年頃の青年だ。黒のカッターシャツに黒いズボン。髪も黒いため、全身黒一色といっても過言ではない。
 睦月の姿を確認し、彼はさっと馬から飛び降りた。
「怪我はないか?」
 近づいてくる青年に睦月は思わず身構えたが、出てきたのはごくごく常識的な一言だった。
「急いでいて、前方確認を怠っていた。すまない」
 背が高い。顔立ちはどちらかといえば白人系だが、他の血も混ざっていそうだ。
「え、あ。怪我はない……です。多分」
 ぶつかってはいないから大丈夫なはずだ。だが、睦月の答えを聞くや、男は一瞬瞠目した。
「……ええと、あの?」
「――ならよかった」
 一瞬の沈黙を経て、男が微笑した。人好きのする穏やかな表情だが、これまでの経緯上、睦月は逆に警戒心を抱きたくなる。
 その時だった。
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