第19章 踏み出す一歩

文字数 3,709文字

 紫月による監察襲撃騒ぎから一夜が明けた。
「睦月!?」
 朝一番に行われる定例会議のため、司令部を訪れた友香は、そこにいた人物に目を瞠った。
「あ、ええと……久しぶり、です」
 扉を開けたままの姿勢で固まった友香に、睦月が照れたように首を傾げる。精界の言語ではない――ということは、実体か。
 その横で、ソファにだらしなく寝そべった影が、ぶらりと手を挙げた。おそらく挨拶のつもりだろう。
「え、いつ? いつ思い出したの?」
 咄嗟に言葉を人界の言葉――日本語に切り替え、友香は訊ねる。
「このあいだ、リンが襲撃した翌日だとさ」
「ちょ……知ってたの!?」
 頭上から振ってきた声に、友香は真上を見上げるようにして、背後の人物を見遣る。
「昨夜な。影から連絡が来た」
「昨夜って、いつ? 何で教えてくれなかったのよ」
 憤慨しているためか、それとも他の長官たちが居ないためか。砕けた口調で問い詰める友香に、アレクは意味ありげに笑った。
「何でって。おまえ、それどころじゃなかっただろ」
「あ、う……それはそうかもしれないけど!」
 口ごもりながらも友香が反論したその時。
「えー、朝から仲睦まじいのは大変結構だけれど、早く中に入ってもらえると非常に助かる」
 横合いから不意にかけられた声に、彼女はびくりと飛び上がった。
「レオ! いつからそこに?」
「お嬢が指揮官と同伴出勤してきたところからだな」
「同伴……って! ちょっと、何言ってるの!?」
 問題発言に顔を真っ赤にして動揺する同僚を見て、情報長は大柄な体躯を揺らし、豪快に笑った。
「照れるな照れるな。若いってのはいいことだ、なあ指揮官?」
「そうじゃなくて!」
「友香、いいからそろそろ入れ」
 揶揄われていると承知していながらも大げさに動揺する従妹に、アレクは溜息を吐きながら彼女の頭を軽く押して室内へと押し込む。
「おや、萩原青年じゃないか。なんで日本語で会話してるのかと思ったが、そういうことか」
 挨拶を交わすレオと睦月を眺めながら、紅潮した頬を抑え、友香は影を振り返った。
「影、うちの部下は?」
「そのまま萩原の自宅周辺を見張らせてる。しばらくは必要だろ」
 寝そべった姿勢のまま、影が答える。
「そっか、ありがと」
「おう。そういや、朝帰りだって?」
「あれ、そうなんですか?」
 にやりと意地の悪い表情を浮かべて影が問う。丁度奥から出てきた佳架がそれを耳にして、にこりと微笑んだ。
「違います! 朝ごはんごちそうになっただけ!」
 従兄と同じ姿をした守護者と、整った造作の秘書官を睨み、頬を真っ赤に染めて友香は溜息を吐く。
「やめてよね。他の人たちに聞かれたら、あっという間にあることないこと噂になるじゃない」
「レオに見られた時点で既に手遅れだと思うぜ」
 続々と集まってくる司令部の面々を眺めつつ、影は苦笑した。

 *

「全員集まったか」
 一同を見渡して、アレクは言った。
「定例会議を始める。皆気づいているだろうが、今日はまず皆に紹介する人物がいる」
 興味半分、困惑半分といった面もちの睦月を指し、彼は続ける。
「萩原睦月だ。先日報告があった通り、どうやらバルドの生まれ変わりだ」
 聞きなれない言語が耳を通り過ぎていく。日本語が不得意な者もいるということで、会議は彼らの言語で進められ、睦月の横では友香が小声で通訳をしてくれている。
 この間、魂の状態でここに来た時には、何の問題もなく言葉が通じていたのに――不思議だ。
「ええと、萩原睦月です。よろしくお願いします」
 アレクに目で促され、睦月は立ち上がってそう言った。やはり友香が精界語に翻訳する。
「それで、彼はどうしてここに?」
 真先に反応したのは、厳めしい顔つきをした禿頭の男だった。
「――キリ・サイード、警備部長官。精界(こっち)の治安担当だから、警察みたいなものね」
 こそりと、小声で友香が囁いた。
「こちらで護身術を身につけてもらうことになった」
「期間は」
「それはこれから調整するが、あくまで彼の生活基盤は人界だからな。あちらでの生活に支障が出ないように考える必要はあるだろうな」
「私は反対です。付け焼刃で護身術を修めたところで、安全の保障などないに等しい」
 強面の顔を更に渋面にしたサイードの厳しい視線に、睦月は表情を硬くする。
「そうは言っても、永久に公安の精鋭を護衛にし続けるわけにもいかないし、人界人の彼にこちらで暮らせというわけにもいかないだろう」
 口を挟んだのはレオだ。
「しかし、彼に万が一のことがあったらどうする」
「――――だから! だから、ここに来たんです」
 いてもたってもいられなくなり、思わず立ち上がって睦月は言った。一同の視線が集中する。
「状況から考えて、多分僕が狙われているんだろうと思ったから、ここに来ました。でも、例え僕の前世が何だったとしても、今の僕の世界は向こうです」
「だが君が戻れば、君の御家族や友人にも危険が及ぶかもしれないのだぞ」
「だからここに来た、と言いました。自分の身と、最低限自分の周りの人たちを守れるように」
 サイードの視線を真正面から受け止めて、睦月は言った。澄んだ色をした瞳に迷いはない。
「勿論、すぐに全部守れるなんて思ってません。でも、ただ巻き込まれるだけは嫌なんです。自分でできることは自分でしたい」
「…………」
 睦月を値踏みするように、サイードは無言で彼を見据えた。
「――私は良いと思うがね」
 そんな同僚に、腕を組みながら声をかけたのは、情報長レオだった。
「いずれにしろ、彼の家族や友人に危害が及ばないように対策する必要はあったんだ。彼がその力を手に入れてくれれば、こちらの負担も軽減する」
 そう言って、レオはサイードに肩を竦めた。
「うちも公安も人手不足だからな。使える人材はなるべく空けたい。警備もそうだろう?」
「……」
「――どうだ、警備長」
 黙り込んだサイードに、アレクが訊ねる。
 上官の問いにすぐには答えず、警備部長官は難しい顔で俯き腕を組む。
「……わかりました」
 やがて、溜息とともに彼は頷いた。
「他に異論のある者は?」
 一同をくまなく見渡し、アレクが訊ねる。手を挙げる者はない。
「よし、それでは睦月の身柄は司令部で預かる。不都合のないよう、便宜を図ってやってくれ」
 頷く一同を見渡し、彼は続けた。
「俺と秘書官もできるだけ様子を見るが――そうだな、公安長」
「――っ、はい」
 不意に呼びかけられ、背筋を伸ばして友香は顔を上げた。
「睦月の基礎訓練はおまえに任せる。守備に重点を置いて鍛錬してやってくれるか?」
 まっすぐに自分を見つめた上官の瞳の奥に、ほんのりと素の微笑が見える。

 『おまえを罷免するつもりはない』
 昨夜、そう断言した彼の声が、脳裏を過ぎった。
 今の「ランブル(自分たち)」にとって、睦月の存在は大きな切り札だ。その睦月の訓練を任せると公言した彼の意図が痛いほどに伝わってくる。

「……はい」
 神妙な表情で友香は頷いた。

 *

 数時間後。
「うーん……ええっと、……ほんとのこと言っていい?」
「…………お願いします」
「かんっぺきな運動不足ね」
「だよね……わかってました」
 容赦ない友香の言葉に、がくりとうなだれて睦月は言った。
 長官会議終了後の相談で、1週間後から9月の上旬まで泊まり込みで集中訓練をすることになった。本格的な訓練はそこから始めるとして、それまでの基礎練習のメニューを組むため、友香に基礎体力を見てもらっていたのだが。
 結果は――惨敗だった。
 まずは柔軟運動から始まり、ランニングに終わる。時間にすれば1時間程度だが、高校を卒業して以降、体育の授業すらなくなった睦月には、かなりハードな運動だった。
「部活とかは?」
「中学までは文化部だったし、高校は帰宅部。今は、よくわかんないサークルの幽霊部員」
「あらら。完璧な文化系だねー」
「そうなんだよね……なんか不安になってきた」
 手渡されたボトルの水を浴びるように飲み、睦月は溜息を吐いた。
 自分で決めたことながら、早まった気がする。
「でもまあ見たところ、運動神経自体が鈍いわけでもなさそうだから、基礎体力さえつけば何とかなると思うけど」
「ほんとかなあ……」
「とりあえず、こっちに来るまでの1週間は毎日ランニングと柔軟と筋トレ、さっきやったのと同じメニューを各30分だね」
 こともなげに言って、友香が笑う。
「まじで……」
「一人じゃ続けるの難しかったら、付き合ってあげようか?」
「なんか悔しいから、結構です……」
 いくら友香が武官長だとしても、同い年で自分よりも小柄な女の子に体力面で著しく負けているのはなんだか悔しい。そんな睦月に、友香があははと笑う。
「じゃあ、来週を楽しみにしておくね」
「いや、期待値はなるべく下げておいてもらえると」
「来週からはガンガン行くから、覚悟しといてね」
「えええ、なんか怖いんだけど」
 友香が笑う。
 この先、自分がどこまでできるかはまだ全くの未知数で、慣れない土地に滞在することにも不安はある。けれど――初めて自分の意志で決めたことだ。だから必ず、やり通したい。
 そんな決意を胸に、睦月は小さくこぶしを握り締めた。
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