9.蕾
文字数 3,457文字
サクサクと、草を踏む音だけが鼓膜を揺らす。
柔らかい土を踏む感触も久しぶりだ。木立が作る日陰がぱったりと途切れる、その一歩手前でリンは足を止めた。つばの広い帽子を手で押さえながら、ゆっくりと視線を上向ける。見上げた空は透明感のある青だ。その下には、新緑の草木がみずみずしい緑の葉を広げている。
そうしてみてはじめて、リンは自分がもう随分と長いこと空を見ていなかったことに気づいた。エイダの一件以来、空を見上げるような余裕など失われていたことに。監察(ここ)に来てからも、見るのはいつも窓の下ばかりで、空など眺めた記憶すらない。
「――――」
ゆっくりと、深呼吸をする。
これまた久しぶりに、新鮮な空気を吸ったような爽やかさが胸に広がった。
こんな風に外に出ることを許されるなんて、思ってもみなかった。
数日前、ハリーの代わりにリンの様子を見に来たロンが、司令部に掛け合ったらしい。
さすがに即日許可は下りなかった――紫月のこともあり、警備の強化が必要だったと聞いた――が、今日になって、外に出る準備が整ったと告げられた。
こうして久々に外の空気を吸ってみると、屋内に閉じこもっていたことが、意外なほど精神的な負担になっていたことにも気づかされる。
リンは「闇の者」の中でも「闇」の性質が強い方だ。そのせいだろうか、元々、積極的に日光に当たること自体が少なかった。人界のチカチカした光とは違い、精界の陽光は柔らかいから、浴びたところで肌が痛むようなこともほとんどない。それでも何となく、陽の光に直接触れたいとは思わない。だから監察に連れてこられてから、屋内に軟禁されていることにもさほど苦痛を感じてはいない――と思っていたのだが。
どうやら自分で考えていた以上に、自由のない生活は心をも閉ざしていたらしい。暖かな日差しが作る新鮮で柔らかい空気を吸って、何となく気持ちが穏やかに凪いでいく。
「……?」
視線を感じて振り仰ぐと、少し離れたところに佇むハリーと目が合った。ふ、と口元に微笑を刷いたハリーに、リンは首を傾げた。
「何か?」
「ん? 外に出て良かったな、って思って」
ゆったりとした歩調で傍らまでやってくると、ハリーはふわりと目元を和らげる。
「ロンに感謝しないとなぁ。僕もちょっと袋小路にはまってたみたいだ」
「……」
あの日、休暇を取った――取らされた――自分の代わりにリンの様子を見に行ったロンが外出許可を申請したと聞いた時、ハリーは抗議したのだ。いつまた紫月が襲ってくるとも限らないのに、外に出すなんて危ないと。
だがそんな相棒の言葉にロンは、はんと鼻を鳴らして答えた。「あんなとこに閉じこもってっから、おまえら二人揃って、変な風に思い詰めんだろ」と一笑に付され、返す言葉に詰まったのは、ハリー自身にも思い当たる節があったからだ。
今こうして外に出てみると、相棒の忠告が正鵠を射ていたことに気づかざるを得ない。
のんびりと歩く少女の肩からは力が抜け、表情が――纏う空気が和らいでいく。硬く凝 った土が、水分を受けて解けていくようなその変化に、ハリーはこのところの自分の対応を思い返し、反省する。
「ごめんね、もっと早く気づくべきだった」
狭い空間に閉じこもる生活は、体にも心にも優しくない。閉め切った部屋では行き場のない空気がほこりをはらんで臭くなるように、閉じこもっている者の体内にも行き場のない思いが滞留する。それは溜まれば溜まるほどに思考の自由を縛り、出口を見えなくしてしまう。
彼女だけではない――他ならぬハリー自身もまた、知らぬ間にその迷宮に捕らわれていたらしい。
「警備の必要があるから、いつでもっていうわけにはいかないけど、これからはできるだけ散歩しよう。今度はお昼を外で食べるのも良いね」
そう言って笑うハリーを見上げ、リンはゆっくりと視線を前方へと流す。
「…………」
――相談すれば?
脳裏でロンの声が囁く。その声に押されるように、小さく口が開き――
「………………あ、の」
その小さな声を拾って、ハルがこちらを振り向いた気配を後頭部で感じ取る。
「?」
「……」
――どうしよう
口火を切ってしまった。今から誤魔化したら不自然だろうか―――誤魔化してしまおうか。
けれど、それでいいのだろうか。今話さなかったら、手放したチャンスが次に巡ってくるのはいつだろう。二度と、話をする機会はやってこないかもしれないのに。
けれど――――けれど……けれど。
相談しても、良いのだろうか。相談することは、主を―― 一度は信じたあの人を――裏切ることにならないだろうか。
「…………あ」
迷う。心が。
ぐるぐると渦を巻いて、あちらとこちらをめまぐるしく行き来する。
――助けを求めてしまいたい。けれど……
怖い。
だって――
これまでとは、全くベクトルの異なるその思いに、リンの思考が再び袋小路に陥りかけた、その時。
ぽん、と頭の上に大きな手が載せられた。
「――」
見上げると、静かな瞳がこちらを見下ろしていた。深い湖のようなその色に、渦巻いていたリンの心にも一条の光が射し込んだ――気がした。
「あ…………、の…………」
――相談すれば、助けてくれる?
逡巡に揺れる少女の瞳を、ハリーはただ静かに見つめ返した。どうか、彼女が自分たちを――自分のことを信頼してくれますようにと、そう願いを込めて。
その眼差しに、自分を気遣う色を見つけ、リンは小さく息を呑んだ。
もう何年も前から、そんな視線を受けていなかったことに、今更気づいてしまったからだ。
一年半前のあの日まで、主はいつでも優しかった。けれど、その目が本心から自分を思ってくれていたことがあっただろうか。
気づいてしまった。
両親がいなくなってからずっと、自分に心を寄せてくれる人がいなかったことに。
それは、リンの中にあった最後の砦が音もなく消え失せた瞬間だった。
そうして初めて隔てのないところに立ってみれば、自分が本心から居たいと思うその場所は、火を見るよりも明らかだった。
はらりと目から鱗が落ちるように、リンの視界を覆っていた何がしかが剥がれ落ちていく。
色が、変わる。
世界が――鮮やかに、彩 づいて。
「あ……」
掠れた声とともに、ぽろりと涙が零れた。
まだ――遅くはないだろうか。ようやく伸ばした――伸ばそうと勇気を持つことができた――この手を、振り払われはしないだろうか。
ぎゅう、と少女の手がハリーの服を掴んだ。溺れる者が、目の前に降りてきた救いの糸を逃すまいと必死に掴むように。
けれど、すぐに全てを話すことはできない。
それは、自分にとってのけじめだから。
「……ごめん、なさい」
逡巡の末、ぽつりと漏れたのは、そんな一言で。
「どうして謝まるの?」
本心から不思議そうに、ハリーが問う。
「だって……、酷いこと、言った」
ぽつりぽつりと。
水分を溜め込みすぎた雨雲から最初の一滴が地上にこぼれ落ちるように、言葉が溢れる。
「あなたたちは、敵だと思ってた。だから……」
酷いことを言った。ハリーにも、ロンにも。思い返せば、アレク・ランブルや中山友香にも。
目を覚まして、両親の死を知ったあの日。
一緒にいたはずなのに、リンはその場面を覚えていない。けれど、唐突に突きつけられた現実を受け入れられなくて、自分を救い出してくれたという主の言葉に――彼ら が両親を殺したという、その言葉に縋った。縋って、そして――心に空いた穴を憎しみで埋めようとした。彼らを糾弾することで、痛みから逃れようともがいた。
そんな自分に、それでも手を差し伸べてくれた彼らに――ハリーに、一言謝りたかった。謝らずに――犯した罪と向き合わないまま、助けを求めることはできないと、そう思った。
「……うん」
たどたどしいその言葉に、ハリーは静かに頷く。
おそらくは素なのだろう。必死に虚勢を張っていたこれまでの話し方とは違うその声は、年齢相応に幼く、そして頼りない。
「謝るから、やったことは償うから。だから――――」
重い鎧を脱ぎ捨てて――厳しい冬の寒さを耐え忍んだ蕾が、堅くかたく結んでいた花びらを一枚ずつ解いていくように、ぽつりぽつりとリンは言葉を紡いでいく。
「……はなし…………」
「うん」
「聞いて…………、ほしい」
「うん」
「たすけて――くれる?」
「うん――かならず」
必死の面持ちで縋り付く少女の、いつもよりも幼いその声に、ハリーは何度もなんども首肯した。
柔らかい土を踏む感触も久しぶりだ。木立が作る日陰がぱったりと途切れる、その一歩手前でリンは足を止めた。つばの広い帽子を手で押さえながら、ゆっくりと視線を上向ける。見上げた空は透明感のある青だ。その下には、新緑の草木がみずみずしい緑の葉を広げている。
そうしてみてはじめて、リンは自分がもう随分と長いこと空を見ていなかったことに気づいた。エイダの一件以来、空を見上げるような余裕など失われていたことに。監察(ここ)に来てからも、見るのはいつも窓の下ばかりで、空など眺めた記憶すらない。
「――――」
ゆっくりと、深呼吸をする。
これまた久しぶりに、新鮮な空気を吸ったような爽やかさが胸に広がった。
こんな風に外に出ることを許されるなんて、思ってもみなかった。
数日前、ハリーの代わりにリンの様子を見に来たロンが、司令部に掛け合ったらしい。
さすがに即日許可は下りなかった――紫月のこともあり、警備の強化が必要だったと聞いた――が、今日になって、外に出る準備が整ったと告げられた。
こうして久々に外の空気を吸ってみると、屋内に閉じこもっていたことが、意外なほど精神的な負担になっていたことにも気づかされる。
リンは「闇の者」の中でも「闇」の性質が強い方だ。そのせいだろうか、元々、積極的に日光に当たること自体が少なかった。人界のチカチカした光とは違い、精界の陽光は柔らかいから、浴びたところで肌が痛むようなこともほとんどない。それでも何となく、陽の光に直接触れたいとは思わない。だから監察に連れてこられてから、屋内に軟禁されていることにもさほど苦痛を感じてはいない――と思っていたのだが。
どうやら自分で考えていた以上に、自由のない生活は心をも閉ざしていたらしい。暖かな日差しが作る新鮮で柔らかい空気を吸って、何となく気持ちが穏やかに凪いでいく。
「……?」
視線を感じて振り仰ぐと、少し離れたところに佇むハリーと目が合った。ふ、と口元に微笑を刷いたハリーに、リンは首を傾げた。
「何か?」
「ん? 外に出て良かったな、って思って」
ゆったりとした歩調で傍らまでやってくると、ハリーはふわりと目元を和らげる。
「ロンに感謝しないとなぁ。僕もちょっと袋小路にはまってたみたいだ」
「……」
あの日、休暇を取った――取らされた――自分の代わりにリンの様子を見に行ったロンが外出許可を申請したと聞いた時、ハリーは抗議したのだ。いつまた紫月が襲ってくるとも限らないのに、外に出すなんて危ないと。
だがそんな相棒の言葉にロンは、はんと鼻を鳴らして答えた。「あんなとこに閉じこもってっから、おまえら二人揃って、変な風に思い詰めんだろ」と一笑に付され、返す言葉に詰まったのは、ハリー自身にも思い当たる節があったからだ。
今こうして外に出てみると、相棒の忠告が正鵠を射ていたことに気づかざるを得ない。
のんびりと歩く少女の肩からは力が抜け、表情が――纏う空気が和らいでいく。硬く
「ごめんね、もっと早く気づくべきだった」
狭い空間に閉じこもる生活は、体にも心にも優しくない。閉め切った部屋では行き場のない空気がほこりをはらんで臭くなるように、閉じこもっている者の体内にも行き場のない思いが滞留する。それは溜まれば溜まるほどに思考の自由を縛り、出口を見えなくしてしまう。
彼女だけではない――他ならぬハリー自身もまた、知らぬ間にその迷宮に捕らわれていたらしい。
「警備の必要があるから、いつでもっていうわけにはいかないけど、これからはできるだけ散歩しよう。今度はお昼を外で食べるのも良いね」
そう言って笑うハリーを見上げ、リンはゆっくりと視線を前方へと流す。
「…………」
――相談すれば?
脳裏でロンの声が囁く。その声に押されるように、小さく口が開き――
「………………あ、の」
その小さな声を拾って、ハルがこちらを振り向いた気配を後頭部で感じ取る。
「?」
「……」
――どうしよう
口火を切ってしまった。今から誤魔化したら不自然だろうか―――誤魔化してしまおうか。
けれど、それでいいのだろうか。今話さなかったら、手放したチャンスが次に巡ってくるのはいつだろう。二度と、話をする機会はやってこないかもしれないのに。
けれど――――けれど……けれど。
相談しても、良いのだろうか。相談することは、主を―― 一度は信じたあの人を――裏切ることにならないだろうか。
「…………あ」
迷う。心が。
ぐるぐると渦を巻いて、あちらとこちらをめまぐるしく行き来する。
――助けを求めてしまいたい。けれど……
怖い。
だって――
自分は
、彼らの敵
だから。これまでとは、全くベクトルの異なるその思いに、リンの思考が再び袋小路に陥りかけた、その時。
ぽん、と頭の上に大きな手が載せられた。
「――」
見上げると、静かな瞳がこちらを見下ろしていた。深い湖のようなその色に、渦巻いていたリンの心にも一条の光が射し込んだ――気がした。
「あ…………、の…………」
――相談すれば、助けてくれる?
逡巡に揺れる少女の瞳を、ハリーはただ静かに見つめ返した。どうか、彼女が自分たちを――自分のことを信頼してくれますようにと、そう願いを込めて。
その眼差しに、自分を気遣う色を見つけ、リンは小さく息を呑んだ。
もう何年も前から、そんな視線を受けていなかったことに、今更気づいてしまったからだ。
一年半前のあの日まで、主はいつでも優しかった。けれど、その目が本心から自分を思ってくれていたことがあっただろうか。
気づいてしまった。
両親がいなくなってからずっと、自分に心を寄せてくれる人がいなかったことに。
それは、リンの中にあった最後の砦が音もなく消え失せた瞬間だった。
そうして初めて隔てのないところに立ってみれば、自分が本心から居たいと思うその場所は、火を見るよりも明らかだった。
はらりと目から鱗が落ちるように、リンの視界を覆っていた何がしかが剥がれ落ちていく。
色が、変わる。
世界が――鮮やかに、
「あ……」
掠れた声とともに、ぽろりと涙が零れた。
まだ――遅くはないだろうか。ようやく伸ばした――伸ばそうと勇気を持つことができた――この手を、振り払われはしないだろうか。
ぎゅう、と少女の手がハリーの服を掴んだ。溺れる者が、目の前に降りてきた救いの糸を逃すまいと必死に掴むように。
けれど、すぐに全てを話すことはできない。
それは、自分にとってのけじめだから。
「……ごめん、なさい」
逡巡の末、ぽつりと漏れたのは、そんな一言で。
「どうして謝まるの?」
本心から不思議そうに、ハリーが問う。
「だって……、酷いこと、言った」
ぽつりぽつりと。
水分を溜め込みすぎた雨雲から最初の一滴が地上にこぼれ落ちるように、言葉が溢れる。
「あなたたちは、敵だと思ってた。だから……」
酷いことを言った。ハリーにも、ロンにも。思い返せば、アレク・ランブルや中山友香にも。
目を覚まして、両親の死を知ったあの日。
一緒にいたはずなのに、リンはその場面を覚えていない。けれど、唐突に突きつけられた現実を受け入れられなくて、自分を救い出してくれたという主の言葉に――
そんな自分に、それでも手を差し伸べてくれた彼らに――ハリーに、一言謝りたかった。謝らずに――犯した罪と向き合わないまま、助けを求めることはできないと、そう思った。
「……うん」
たどたどしいその言葉に、ハリーは静かに頷く。
おそらくは素なのだろう。必死に虚勢を張っていたこれまでの話し方とは違うその声は、年齢相応に幼く、そして頼りない。
「謝るから、やったことは償うから。だから――――」
重い鎧を脱ぎ捨てて――厳しい冬の寒さを耐え忍んだ蕾が、堅くかたく結んでいた花びらを一枚ずつ解いていくように、ぽつりぽつりとリンは言葉を紡いでいく。
「……はなし…………」
「うん」
「聞いて…………、ほしい」
「うん」
「たすけて――くれる?」
「うん――かならず」
必死の面持ちで縋り付く少女の、いつもよりも幼いその声に、ハリーは何度もなんども首肯した。