2.エイダ
文字数 2,244文字
同じ頃。
リンは陽の光の差し込む窓際に置いた椅子に座り、外を眺めていた。
風が梢を揺らし、時折、花の香りがふわりと漂う。その香りに、リンの脳裏に面影がよぎる。
実の姉のように慕った人がいる。
エイダという名のその人は、春風のように温かい人だった。
彼女はリンが生まれ育った家の使用人の娘だった。
リンよりも6歳年上で、幼い頃は子守としてずっと側にいた。花が好きで、傍に寄るといつでも甘い花の香りがした。いつもにこやかで、エイダの側にいれば、どんな時も安心することができた。
両親が亡くなり、リンが嵯峨の元で暮らすようになってすぐ、彼女は新たな屋敷に奉公に出ることになった。嵯峨(主)が働き口を見つけてくれたのだと、そう聞いた。少し遠いけれど、待遇は悪くないとも。
だが――、それから2年ほど音信不通の日々が続いたある日、リンの元に手紙が届いた。
どうしても会って話がしたい、誰にも知らせないでほしいというその文面に、なんともいえない嫌な胸騒ぎがしたことを覚えている。
取るものも取りあえず、リンはエイダが指定した場所へと急いだ。
ようやく辿り着いたそこは、「光」と「闇」の境界――樹海だった。木々の間に身を隠すようにして声を掛けてきたエイダの姿に、リンは息を呑んだ。
久しぶりに会ったエイダは酷く痩せていた――やつれていた、と言った方がいいかもしれない。ひとつにまとめた髪はほつれて乱れ、栄養状態が良くないのか、顔色も悪い。
何より――彼女はその腕に、赤ん坊を抱いていた。まだ生まれて間もない、小さな小さな赤ん坊だった。
「エイダ、どうして……」
言葉をなくしたリンの腕に、彼女はその赤ん坊を押しつけた。
「この子を連れて、逃げて。嵯峨の所に戻ってはだめよ。このまま北に抜ければ、私のひいおじいさんの村がある。そこまで急いで行って」
反問する余地を与えず、低く押し殺した声でエイダは矢継ぎ早に告げる。
「私はもう、戻らなくては。この子が生まれたことが知られないうちに。あなたも早く――――」
せき立てるような言葉が急に止まったかと思うと、彼女がひっと喉を詰まらせた。
視線の先を追って振り返ると――そこに、嵯峨がいた。
薄暗い樹海に溶け込むような濃灰色の服を着た主が、口元にゆったりとした微笑を浮かべている。
「――――」
いつからそこにいたのか。なぜ――そこにいるのか。
言葉を発することも、身じろぎも許されないほどの緊張感が辺りを支配する。
微笑んでいるはずなのに、氷を注ぎ込まれたかのような、ひやりとした感覚が背筋を駆け上る。
それは、リンがはじめて主を恐ろしいと感じた瞬間だった。
「リン、行って! 早く!」
唐突に、エイダが叫んだ。その声にビクリと身体を揺らし、リンは反射的に主を見上げた。
「あ……あの」
主の全身から黒い靄が立ち上っているかのようだ。恐怖で、身体が動かない。何か言わなくてはと思うのに、頭の中は真っ白だ。
「どこへ?」
氷点下よりもなお冷たい視線がリンを射貫く。主からこんな目を向けられたことは、ついぞなかった。どうして、という思いが脳裏に浮かぶ。主はなぜ、怒っているのだろう。何か、誤解をしているのだろうか――何を?
説明をすべきか否か、リンが躊躇したその瞬間。
腕の中の赤子が奪われた。
「返して!」
エイダが叫んだ。
腕の中に赤ん坊を抱え、嵯峨がクツクツと喉を鳴らす。
「はて、おかしなことを言う。今、この娘に手渡しておったではないか」
「それは……」
「おお可哀想に、お前は要らぬ子のようだ」
「違う! その子を返して!
母親の喉を切り裂くような叫び声に何かを感じたのか、それとも場の空気がそうさせたのか。赤ん坊が激しく泣き始める。
「どうしてやろうか。手塩に掛けて育ててやろうか、それとも――」
ニマア、と口角が上がる。
「あの方の贄にしてやろうか」
「やめて!! お願い、返してください!」
バシッと乾いた音が響く。
子どもを取り返そうと駆け寄りすがりついたエイダの頬を、嵯峨は思い切り張り倒した。
「…………っ」
エイダのすすり泣く声が聞こえる。
子を取り上げられ叫ぶ彼女をいたぶり、火のついたように泣き叫ぶ赤子を見下ろしながら、嵯峨は愉悦の笑みを浮かべた。そんな主を、リンは呆然と眺める。
――何なのだ、これは
両親亡き後、自分を手元に置いてくれた優しい主の姿は、もはやそこには存在しなかった。
何が起きたのか分からない。混乱した頭では、状況を冷静に読み解くこともできない。
「さあて、鈴よ」
そんなリンに、嵯峨は選択を迫った。
「この赤子がどうなるかは、お前次第だ。私を裏切るか、それとも忠誠を誓うか」
唐突に提示された選択肢に、リンはせわしなく視線をさまよわせた。
赤ん坊を抱えた主、その足下にすがりつく――姉と慕った人 の姿。
彼女のすすり泣きと、泣き叫ぶ赤ん坊の声。
「ふふ、ちょうどよい頃合いだ。そろそろ母性とやらを装うのにも飽いておったのでな。これで、お前も使いやすくなるだろうて」
目を細め、嵯峨はにやりと嗤った。
「鈴よ。お前が私に忠誠を誓うのなら、この赤子は母親に返してやろう」
「………………」
選択の余地はなかった。
そうとは言葉にされなくとも、赤ん坊の命が質に取られていることは分かった。そしておそらくは――エイダとリン自身の命もまた。
「仰せの……ままに」
湿った地面に膝をつき、絞り出すようにリンは誓った。
それは今から1年半前のこと――苦難の始まりだった。
リンは陽の光の差し込む窓際に置いた椅子に座り、外を眺めていた。
風が梢を揺らし、時折、花の香りがふわりと漂う。その香りに、リンの脳裏に面影がよぎる。
実の姉のように慕った人がいる。
エイダという名のその人は、春風のように温かい人だった。
彼女はリンが生まれ育った家の使用人の娘だった。
リンよりも6歳年上で、幼い頃は子守としてずっと側にいた。花が好きで、傍に寄るといつでも甘い花の香りがした。いつもにこやかで、エイダの側にいれば、どんな時も安心することができた。
両親が亡くなり、リンが嵯峨の元で暮らすようになってすぐ、彼女は新たな屋敷に奉公に出ることになった。嵯峨(主)が働き口を見つけてくれたのだと、そう聞いた。少し遠いけれど、待遇は悪くないとも。
だが――、それから2年ほど音信不通の日々が続いたある日、リンの元に手紙が届いた。
どうしても会って話がしたい、誰にも知らせないでほしいというその文面に、なんともいえない嫌な胸騒ぎがしたことを覚えている。
取るものも取りあえず、リンはエイダが指定した場所へと急いだ。
ようやく辿り着いたそこは、「光」と「闇」の境界――樹海だった。木々の間に身を隠すようにして声を掛けてきたエイダの姿に、リンは息を呑んだ。
久しぶりに会ったエイダは酷く痩せていた――やつれていた、と言った方がいいかもしれない。ひとつにまとめた髪はほつれて乱れ、栄養状態が良くないのか、顔色も悪い。
何より――彼女はその腕に、赤ん坊を抱いていた。まだ生まれて間もない、小さな小さな赤ん坊だった。
「エイダ、どうして……」
言葉をなくしたリンの腕に、彼女はその赤ん坊を押しつけた。
「この子を連れて、逃げて。嵯峨の所に戻ってはだめよ。このまま北に抜ければ、私のひいおじいさんの村がある。そこまで急いで行って」
反問する余地を与えず、低く押し殺した声でエイダは矢継ぎ早に告げる。
「私はもう、戻らなくては。この子が生まれたことが知られないうちに。あなたも早く――――」
せき立てるような言葉が急に止まったかと思うと、彼女がひっと喉を詰まらせた。
視線の先を追って振り返ると――そこに、嵯峨がいた。
薄暗い樹海に溶け込むような濃灰色の服を着た主が、口元にゆったりとした微笑を浮かべている。
「――――」
いつからそこにいたのか。なぜ――そこにいるのか。
言葉を発することも、身じろぎも許されないほどの緊張感が辺りを支配する。
微笑んでいるはずなのに、氷を注ぎ込まれたかのような、ひやりとした感覚が背筋を駆け上る。
それは、リンがはじめて主を恐ろしいと感じた瞬間だった。
「リン、行って! 早く!」
唐突に、エイダが叫んだ。その声にビクリと身体を揺らし、リンは反射的に主を見上げた。
「あ……あの」
主の全身から黒い靄が立ち上っているかのようだ。恐怖で、身体が動かない。何か言わなくてはと思うのに、頭の中は真っ白だ。
「どこへ?」
氷点下よりもなお冷たい視線がリンを射貫く。主からこんな目を向けられたことは、ついぞなかった。どうして、という思いが脳裏に浮かぶ。主はなぜ、怒っているのだろう。何か、誤解をしているのだろうか――何を?
説明をすべきか否か、リンが躊躇したその瞬間。
腕の中の赤子が奪われた。
「返して!」
エイダが叫んだ。
腕の中に赤ん坊を抱え、嵯峨がクツクツと喉を鳴らす。
「はて、おかしなことを言う。今、この娘に手渡しておったではないか」
「それは……」
「おお可哀想に、お前は要らぬ子のようだ」
「違う! その子を返して!
母親の喉を切り裂くような叫び声に何かを感じたのか、それとも場の空気がそうさせたのか。赤ん坊が激しく泣き始める。
「どうしてやろうか。手塩に掛けて育ててやろうか、それとも――」
ニマア、と口角が上がる。
「あの方の贄にしてやろうか」
「やめて!! お願い、返してください!」
バシッと乾いた音が響く。
子どもを取り返そうと駆け寄りすがりついたエイダの頬を、嵯峨は思い切り張り倒した。
「…………っ」
エイダのすすり泣く声が聞こえる。
子を取り上げられ叫ぶ彼女をいたぶり、火のついたように泣き叫ぶ赤子を見下ろしながら、嵯峨は愉悦の笑みを浮かべた。そんな主を、リンは呆然と眺める。
――何なのだ、これは
両親亡き後、自分を手元に置いてくれた優しい主の姿は、もはやそこには存在しなかった。
何が起きたのか分からない。混乱した頭では、状況を冷静に読み解くこともできない。
「さあて、鈴よ」
そんなリンに、嵯峨は選択を迫った。
「この赤子がどうなるかは、お前次第だ。私を裏切るか、それとも忠誠を誓うか」
唐突に提示された選択肢に、リンはせわしなく視線をさまよわせた。
赤ん坊を抱えた主、その足下にすがりつく――
彼女のすすり泣きと、泣き叫ぶ赤ん坊の声。
「ふふ、ちょうどよい頃合いだ。そろそろ母性とやらを装うのにも飽いておったのでな。これで、お前も使いやすくなるだろうて」
目を細め、嵯峨はにやりと嗤った。
「鈴よ。お前が私に忠誠を誓うのなら、この赤子は母親に返してやろう」
「………………」
選択の余地はなかった。
そうとは言葉にされなくとも、赤ん坊の命が質に取られていることは分かった。そしておそらくは――エイダとリン自身の命もまた。
「仰せの……ままに」
湿った地面に膝をつき、絞り出すようにリンは誓った。
それは今から1年半前のこと――苦難の始まりだった。