転章①

文字数 3,606文字

 扉の開く音に、廊下で待っていた中山友香が立ち上がった。
「どうだった?」
 パタパタと駆け寄ってきた彼女の問いに、開発部長官レイ・ソンブラは首を振った。
「駄目だね。なんかの術がかかってるのは確かだけど、ひどく中途半端だ」
「――中途半端?」
 首を傾げた友香に、レイは白衣の袖を捲り上げる。
 ひと月前に参考人として監察に連れて来られたリンという少女の記憶の欠落を探っていたのだが、芳しい結果は得られなかったようだ。
「術自体は結構最近掛けられたものっぽいから、多分あれだね」
 と、背後に視線を流し、彼は続ける。
「さしずめ、術を掛けてる途中でセイヤーズが攻撃したとかじゃないの?」
「……って、俺かよ!?」
「うるさいなあ」
 急に矛先を向けられたロン・セイヤーズの声に耳を押さえながら、レイは相手を睨んだ。
「じゃなきゃ、あんな中途半端に術がかかってる状態なんてありえないよ。心当たりないの?」
「…………」

 訊ねられ、ロンは半月ほど前の出来事を思い出そうと中空に視線を飛ばす。しばしの間の後、その眉尻がほんの僅かに上がり――
「……記憶にな」
「あるのね、ロン……」
 誤魔化そうとした旧友の声を遮り、友香は溜息を吐いた。
「おまえら、そう言うけどな。あん時はそんなことに気を払う余裕なんかなかったっつの」
「それはそうだろうね――ま、その時だとも限らないんだけどさ」
 と、ロンが体重を預けている杖を眺め、レイは肩を竦めた。
 『紫月』と呼ばれる侵入者に監察が襲撃されて半月。その時の戦闘で負ったロンの怪我は順調に回復に向かってはいるが、最近ようやく退院してリハビリに入ったばかりだった。
「だからさ、すぐは無理。まずいつ掛けられた何の術式かを見極めて、それから解呪しなきゃ」
「できそう?」
「僕を誰だと思ってんの?」
 同僚の問いに、開発長は、白衣のポケットに手を突っ込んだ姿勢で片眉を上げる。
 開発部の業務は、『ランブル』の各部署が扱う機器の開発・整備だけではない。そうした領域は、むしろ先代から導入された新しいものにすぎず、本来は様々な呪術や術式を研究することが中心の部署である。
「ま、例の転送装置だか転移術だかの調査も急がなきゃいけないから、ちょっと時間はかかるけどさ。何とかするよ。――面倒な仕事が増えたおかげで、研究が滞るったらないね、まったく」
 そう言いつつも、開発長の瞳は、玩具を見つけた子どものように輝いていた。


 ふ、と意識が浮上するのに従って目を開くと、まず目に入ったのは静かな微笑だった。
「お疲れさま。気分はどう?」
「…………?」
 長身を思い切り屈めて微笑むハリーを、リンはぼんやりと眺めた。
 彼女の記憶を閉ざしている術式を調べるため、半ば催眠状態に置かれていた意識は、ふわふわと波間を漂っているようだ。状況が把握できないままの少女に、彼は苦笑を漏らす。
「状況、覚えてる?」
「……覚えている」
 鸚鵡返しのように答えてふらりと立ち上がった途端、細い肢体がぐらりと揺れる。
「――っとと。大丈夫?」
 さっと手を差し伸べ、よろけた身体を支えると、ぱし、とその手を払われた。
「……触るな。平気だと言っている」
 少しは意識がはっきりとしてきたらしいリンに睨まれ、ハリーは「そうだね」と微苦笑を浮かべた。とても敵に対するものとは思えないその態度に、リンは無言で彼を見上げる。
「どうしたの? 眉間、シワ寄ってるよ」
 視線を感じたのか、ハリーが不思議そうに自分を見下ろす。
「そんなに見つめられると、さすがに照れるなあ」
 相手の戯れ言は聞き流し、少女は自分よりもかなり上背の高い男の様子をじっと見つめた。
 日頃から表情の読み難い相手ではあるが、後ろ暗いところがあれば、多少なりとも普段とは違う所を見つけられるはずだ。そう思っての行動だったが、にこやかな笑顔にも、軽口を叩く口調にも常とは違ったところは見出せない。
「……まさか本当に、術式を探っただけなのか」
 思わず漏れた低い呟きに、「ああ、そういうこと」とハリーは微笑を深める。
 頑なに口を閉ざす彼女が半催眠状態にあるうちに、必要な情報を引きだしたのではないかと、リンは疑っているのだろう。
「本当にそれだけだよ。一応、状況を録画してるから、気になるなら確認する?」
「――っ、どうして!」
 思わず大きな声を出したリンに、ハリーは穏やかな表情を崩さないまま答えた。
「だって、フェアじゃないでしょ」
「そんなもの、敵味方の間では関係ないだろう!?」
「――あるよ」
 落ち着けと言うように、ぽんぽんと彼女の頭を軽く撫でて、彼は傍らの椅子に腰を下ろした。目顔で促され、渋々とリンも傍らのソファに座る。
「ほんとはね、そういう意見も出たらしいよ」
 椅子に腰を下ろし、落ち着いた声音でハリーは続ける。
「けど反対意見も出て、協議の結果、結局見送ることにしたんだって」
「……どうして」
「さあ」
 と、彼は首を傾げる。
「僕は長官会議に出席してないから――想像はつくけどね」
 視線だけで「聞きたいか」と問われ、少女は無言で頷く。

 紫月による監察襲撃以降、彼女は同じ問いを抱き続けていた。
 敵の侵入を許し、身内から負傷者を出した以上、形振り構わぬ強硬姿勢をとるのが当然の対応のはずだ。それなのに結局、彼女の置かれた立場はそれ以前と変わらない。
 数日に一度、監察長が警備長を伴って現れるものの、強硬な尋問をしようとはしない。力づくで彼女から話を聞き出そうと思えば、いくらでも方法はあるはずなのに、そうしない彼らの姿勢が、リンには不思議なことこの上ない。
 胸の中の疑問を消化しきれずにいたところに今回の話だ。おそらくは術式を探るという口実のもとに、催眠状態で話を聞き出すのだろうと思っていたのに、その機会を何故見送ったのか。

 内心の疑問をありありと映し出す少女の瞳に、ハリーは目を伏せた。
「……実際の所、君から無理やり話を聞こうと思ったら、できないことはないよ」
 でも、と独白のように彼は続け、目を上げる。
「そうしたら、僕らはその代わりに、君の信用を失うことになる」
 正面から目を合わせ、微笑んだ彼の表情の穏やかさに、リンは返す言葉を見失う。『もともと信用などしていない』という憎まれ口が、ほんの一瞬脳裏を過ぎるが、それを口にできる雰囲気ではなかった。
「……」
 無言のまま、リンは相手の真意を見極めようとするかのように視線を送る。
「それに、たとえ『参考人』ではなくなっても、君の罪は軽い。すぐに、ここから出られるだろう。そうなったとき、少しでもいいから僕たちへの不信感がなくなっていればいいと思うんだ」
 グレーの瞳に穏やかな微笑を浮かべる監察部副官の声に、偽りの色はない。
 彼女の中では深く根を張る不信感が存在を主張し続けている。だがそれにも関わらず、彼が本心を言っているということに、リンは微塵も疑念を抱かなかった。
 けれど。
「そうやって、光と闇が少しずつでも相手に対する不信感を消し去っていけば、いつかは手を取り合うこともできるんじゃないかな」
 青年が口にするその未来は、理想とはいえ、あまりに彼女の認識してきた世界とはかけ離れていた。そもそも、ここから出たとして、自分にはもはや帰る場所などないのかもしれない。
――ここから出ることが、その日が来るのが――怖い。
「…………そんなもの」
 内心を押し隠した少女の低い呟きに、ハリーは頷く。
「――うん、夢みたいな話だね。しかも、気が遠くなるくらい、回りくどい」
 そう言いながらも、屈託のない表情で彼は続けた。
「でも、そうなったらいいと思わない? 光だとか闇だとか、そんなの僕らが自分で選んだわけじゃない。それなのに、そんなもので自分や他人を評価するなんて、つまらないよ」
「……」
 同じようなことを、あの襲撃の日、ロンも言っていた。
 その事に気付き、リンは黙り込む。
「まあ、さっきの話は僕の勝手な憶測だけどね。でも多分、指揮官やうちの長官なんかは似たようなことを考えてるはずだよ」

 ――戦わずにすむ道を協議する気はないか

 いつだったか、アレク・ランブルが彼女に託した言葉が脳裏に蘇る。
 結局伝えることができないまま終わったあの「伝言」は、本当に本心からの言葉だったのかもしれない。そんな思いが、ほんの一瞬脳裏を過ぎり、そして消えない疑問を刻み込む。
「――それに」
 自分の考えに沈み込んでいたリンを、ハリーの声が引き戻す。
 顔を上げると、薄鈍色の瞳が正面から彼女を捉えていた。
「うちの情報部は結構優秀なんだ。嫌がる女の子に無理強いなんて無粋な真似をしなくても、ある程度の情報は手に入る」
 そこで言葉を切り、彼はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「だから、もう少し僕らを信用してくれると嬉しいんだけどね」
 冗談めかした口調の奥に真面目な気配が滲んでいる。リンは返す言葉に詰まり、黙り込んだ。
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