転章②

文字数 2,788文字


 ――ゴボッ

 ――ドォ……ッ、ゴボッ


 腑の底を震わせる低く不気味な音が、その部屋には絶え間なく充満していた。
 暗い――部屋だ。
 入り口も出口もなく、ほぼ正方形に近い真四角の密閉空間の中程くらいまで、黒い液状の何かが満ちている。時折沸き立つかのようにゴボゴボと音を立てて蠢くその音は、生き物がゆっくりと呼吸する音にも、また波濤の唸る音にも聞こえる。
「――大分、溜まったな」
 呟く声は、その部屋の中空から響いた。
 天井に近い片隅に、男女一対の人影が浮いていた。

 女の名は嵯峨。『闇の者』を統べる一族の長である。
 そしてその傍らに浮かぶ色眼鏡の男は紫月という。
 時折、何もないはずの空間から、同じように黒くドロリとした何ものかが落ちてきては、嵩を増すその光景を眺めやり、女は袂から何かを取り出した。
 昏い光を放つその球体は、闇の「命の灯」とよばれるものだ。

 かつて、闇の創世者の力を継ぐはずだった闇の継承者セルノの造反の末、処刑された彼の身体は一つの球体へと変えられた。
 闇を司る者なき今、世界のバランスを保つためだけに存在しているそれを、嵯峨は眼下に蠢く黒い何かの上に翳した。
 刹那、「命の灯」の放つ昏い光に呼応するかのように、ザザァッと大きな音を立ててせり上がると、それは意志をもっているかのように渦を巻きながら、一点に集まっていく。
 渦を巻きながら集まっていくそれは、人の形にも見える。
 手のように見える部分が、「命の灯」に向かって伸び――届く直前で、ズルリと形をなくしたそれは、再びズルリと分散して床へと落ちていった。
「まだだな」
 感情を伺わせないくぐもった声で、男が呟く。
「ふふ、だが、もう間もなくだ……」
 低い含み笑いを洩らすと、女は中空に浮いたまま踵を返す。
「思わぬ邪魔に遭うたが、計画通りにすすみそうだ――のう、紫月?」
 媚態とすら映る仕草で男の肩に手を掛け、嵯峨は婉然と微笑んだ。
「そちの機転のおかげじゃ」
「……計画が遅れると、おれも困るんでね」
 冷ややかな声を返す紫月に、「そういえば」と嵯峨は一層艶やかな笑みを刻む。
「最前、鈴を連れ戻すと言うておったそうだが?」
 言葉とともに、微笑んでいる筈の女の瞳に、えもしれぬ不気味な圧力が宿る。
「……ご存じの通り、追い返されたよ」
「そちほどのやり手がか?」
「監視役の力量が予想外でね。転送術の起動時間を読み違えたのさ」
 女の瞳を正面から受け流し、紫月は肩を竦める。
「ふむ。して、あの娘はどのような様子であった?」
「どんな、とは」
 にたり、と真赤な紅の塗られた唇が歪む。
「なに、あれが正気であれば、どんなことをしてでも戻ってくる筈なのでな」
「戻ってくる理由でもあるのか」
「――さて」
 紫月の問いはさらりと交わして、再び嵯峨は彼の視線を探る。
「戻ってこようとしないということは、諦めたか。それとも――」
 三日月のように婉曲した口元から、ちらりと赤い舌が覗く。
「何者かが、あれに手を加えたか」
 表情は優しいとも言える微笑を浮かべているのに、目だけが笑っていない。
 どこか寒々しい嵯峨の気を受けてなお平然と、紫月は返す。
「あるいは、『胤』の副作用って事もあるかもな。何しろあのお嬢さんは、唯一の生き残りだ」
「――なるほど」
 髪の一筋ほども動揺した様子のない男の反応に、嵯峨は不意に興味を失ったというように、ふん、と鼻を鳴らして身を離す。
「それで――お主は、あれを取り戻しにはいかんのかの」
「――もう用済みじゃあなかったのか?」
 探るような紫月の問いに、嵯峨は、ほほ、と昏く笑った。
「必要はないが、手元におれば、それなりに使いようはあるのでな――」
 言葉とともに、さらりと眼下の蠢きへと流し目をくれた女に、色眼鏡に隠れた目を眇め、紫月は肩を竦める。
「怖い女だな」
「ほほ、褒め言葉と受け取っておこう」
 黒い瞳の奥に狂気を仄めかせ、嵯峨は男を置いて歩き出す。
「――先程の答えだが」
「……あんたと同じだ。いればそれなりに役立つかと思っただけさ。危険を冒してまで連れに行く必要はない」
 出口の手前で足を止めた女の声に、振り返ることなく紫月は答えた。

 *

 ダンッ!と床を強く鳴らして、睦月は後方に飛んだ。
「――右、すぐ疎かになるよ!」
 着地するや否や、右手から聞こえた声に、慌てて上体を捻る。
 瞬間、ブンという低い音とともに、友香の蹴りが空気を切り裂く。それを何とか片腕でいなして、睦月は相手から距離を取ると、簡易結界を張った。
「ほら、すぐ休もうとしないの!」
 ごく弱いながらも結界を張ることで体勢を立て直し、休息をとろうとした睦月の魂胆を見抜いた友香の掌から弱い光が迸り、結界を破壊する。
「ちょ……っ、それナシ!」
「問答無用! 敵は手加減なんかしてくれないわよ」
 確かこの組手のはじめに、彼女は体術だけという約束を交わしたはずだ。慌てて抗議する睦月に、友香は息ひとつ乱すことなくにっこりと笑う。
「ほら、ぼーっとしてたらやられるよ! 防御防御!」
 言うなり、立て続けに繰り出される拳と脚を紙一重で避けながら、睦月はさっと身を屈め、脚払いを掛けた。
「――!」
 狙い通りに体勢を崩した友香が側転で体勢を立て直す隙に、睦月は簡易結界を張り巡らせた。
「――よし、そこまで」
 横合いからかかったアレクの声に、動きを止め、睦月は長い溜息を吐いた。
「……ちょっと、友香さん! 約束が違うんだけど!?」
「あはは、ごめんごめん」
 ぽん、と軽く背中を叩いて、友香が笑う。
「でもかなり上達したね。体力もついてきたし」
「……まだ簡易結界しか張れないけどね」
 両膝に手をついて呼吸を整えながら、睦月はアレクに視線を移す。
「どう? 合格?」
 問いに、アレクは腰に手を当てて頷いた。
「ああ。これだけできれば、時間稼ぎはできるだろ。後は、通いで特訓だな」
 そう言って、彼は不意に真顔に戻る。
「気をつけろよ。最近、少し人界での事件が増えてる」
「――うん」
「やばいと思ったら、とにかく逃げろ」
「アレク、脅してどうするのよ。心配しなくても、睦月の周囲はこまめに巡回させるから、大丈夫よ。ね?」
「ああ――あと、これな」
 と、アレクがポケットから出したのは、シンプルなデザインのバングルだった。
「おまえの力なら、多分反動も生じないだろうが、念のためな」
 それは、彼らが人界で力を行使する際、人界の事物に影響を与えないようにするための道具だった。
「レイに頼んで、ついでにゲートを開く機能もつけてもらった。いざとなったら、ここを捻れば、こっちへのゲートが開くからな」
「うん、わかった。ありがと」
「礼には及ばない……というかだな」
 と苦笑し、アレクは頭を掻く。
「礼の代わりに、向こうの電化製品持ってこいだとさ」
「……はは」
 開発長らしい言い草に、渇いた笑いを返すと、睦月は身体を伸ばした。
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