第17章 兄の失踪②

文字数 3,047文字

「何だ、どこか行くのか?」
 今まさにノックをしようとしていたのだろうか、軽く握った拳を下ろしてアレクが訊ねた。
「夕食焦がしちゃって。仕方ないから、食堂に行こうかなーって」
 あはは、と渇いた笑い声をあげる彼女に、アレクは大仰に溜息を吐く。
「何やってんだ……仕方ないな、作ってやるから来い」
「……え?」
 言うが早いか、踵を返した従兄の背を眺め、友香は再びぱちぱちと瞬きする。
「どうした?」
 数歩行ったところで肩越しに振り返り、アレクは眉を上げた。
「いいの?」

 今朝の長官会議での出来事が脳裏を過ぎる。
 少なからず疑惑を抱かれている自分と接することで、指揮官としてのアレクの立場に不都合が生じるかもしれない。
 兄が消えてからずっと、自分を影から支え続けてくれた彼に、負担を掛けるようなことはしたくない。

 戸惑いを含んだ表情で首を傾げた従妹の内心を読んで、アレクは苦笑した。
「いいから言ってるんだろ。ほら、来いよ」
 差し出した手を取るべきか否か躊躇するその姿には、昼間、公安長として部下の前に立つときの風格は微塵もない。こんなに無防備な素のままの彼女を見るのは、随分久しぶりだ。それほど今回の出来事が、彼女にもたらした衝撃は大きいということか。
 そんな思いの導くままに、アレクは自ら彼女の手を取った。そのまま歩き出そうとするが、繋いだ手はぴくりとも動かない。
「――アレ……指揮官?」
 敢えて職名を口にすることで距離感を保とうとする辺りが強情だ。彼は溜息を吐きながら、つないだ手を引く腕に力を籠める。同時に、もう一方の手を伸ばし、彼女の頭を引き寄せる。
 予想外の動きだったのだろう。小さなその身体は、思いの外簡単に腕の中に収まった。
「え……、ちょっ、指揮官?」
 左手で彼女の手を掴んだまま、右手で髪を撫でると、困惑と焦燥の混じった声が発される。
「……」
「指揮官ってば!」
「…………」
 声を荒げて見上げるも、無言で髪を撫でる従兄の無言の圧力に、友香は諦めて小さくその名を呼んだ。
「…………アレク」
「――何だ?」
 応じる声が、ほんの少し笑っている。
「あの……ね、離して」
 呼びかけたものの、続く言葉に詰まり、友香はただ一言だけを口にした。
 長官職の私室が並ぶこの廊下は本館三階の左翼にあり、司令部からは棟続きになっている。つまりは、誰に見られても不思議はないということだ。
「来るか? なら、離してやる」
 柔らかな声が、触れ合った身体を通して響く。心地の良いその響きに反射的に頷きそうになって、友香は理性を総動員し、流されかけた自分を引き戻す。
「……」
「レオ辺りに見られたら、明日は大騒ぎだな。――ああ、おまえのとこの部員ってのもありか」
 答えない従妹の強情さに、アレクは揶揄を滲ませた声で囁いた。
「分かってるなら!」
「それを言うなら、分かってるから――だな」
 思わず声を荒げた友香に対し、不意にその響きを真剣なそれに変え、アレクは言う。
「おまえは何も心配しなくていい」
「だけど……」
「何もしてないなら、堂々と胸を張ってればいいんだよ」
 そう言って、子どもにするようにくしゃりと頭を撫で、アレクはそっと身体を離した。
「……アレク」
 困惑ぎみに見上げる従妹に、彼は微笑んだ。漆黒の瞳が柔らかい光を浮かべ、彼女を映す。
 きゅ、と胸を締め付けられる感覚に、友香は温かいようなくすぐったいような気持ちで俯き、小さく微笑んだ。
「行くぞ、飯食うんだろ?」
「うん――――ありがとう」
 繋いだ手をぎゅっと握った彼女の、小さなその声に、アレクは黙って手を握り返した。


「ごちそうさまでした」
 手を合わせて言った友香の前に、とん、とグラスが置かれた。
「?」
「ブレーム産の酒。下戸に飲ますのはもったいない一級品だけどな」
 とくとくと音を立てて、二つのグラスに乳白色の液体が満たされていく。
「まあ、飲めよ」
「……うん」
 勧められるままにグラスに口を付けると、予想していたよりも甘く芳醇な香りが、混乱を極めた頭の芯を解きほぐす。
「そういえば。友香、おまえセイヤーズの見舞いに行ってないって?」
 しばし無言のまま杯をかわしていたが、やがてアレクが何気なく口を開いた。
「ロンに聞いたの?」
「ああ、昼に様子を見に行ったからな。おまえのこと、酷く心配してたぞ」
 小型のダイニングテーブルの斜向かいに腰を下ろし、グラスを傾ける従兄の言葉に、友香は目を伏せた。
「どんな顔して会ったらいいか……、わからなくて」
「おまえが気にすることじゃないだろう」
「だって……、もし――もし……」
 言葉の先を口にできない。
 たとえそれが事実だったとしても、ロンは決して自分を責めないだろう。けれど。
「セイヤーズも同じことを言ってたぞ」
 苦笑交じりにそう言って、アレクが自分のグラスに酒を注ぐ。
「おまえの立場が危うくなるんじゃないかと、奴にしては珍しく萎れてたが」
「……」
「気の回し方が似てるよな、おまえたちは」
「もし――」
 グラスに映る自分の顔を見るともなしに眺めながら、友香は呟いた。
「もし、私が公安長を辞めることになったら、後任はやっぱりロンかハルのどっちかになるの?」
「……友香」
 淡々と発されたその問いに、アレクが目を眇める。友香はゆっくりと視線を上げた。
「……大丈夫、覚悟はできてる」

 決意をこめた明るい声。微笑をすら浮かべた、落ち着いた表情。
 だがその裏に隠した感情を見逃すには、アレクはこの従妹を知りすぎていた。
 いくつもの意味を含んだ言葉に、彼は小さく溜息を吐く。

「まあ――最悪の事態は覚悟しておいた方がいいだろうが」
 その言葉に、友香が再び目を伏せ、耳だけをぴくりと動かした。それを横目で見ながら、だが、とアレクは続ける。
「……ひとつ言っておくが。俺は何があろうと、おまえを罷免するつもりはないからな」

 ほんの一瞬、間が空いた。

「え、でも」
 ぱちくりと目を見開き、伏せていた視線を上げて、友香は息を呑んだ。

 予想外に強い意志を湛えた瞳が、正面から彼女を見つめていた。

「サイードのあれは、ただの形式的な手続きだろう。俺は、いざってときに信用しあえない面子を選んだ覚えはない」
 上官の顔できっぱりと言い切ると、アレクは従兄の顔に戻って微笑する。
「立場上、あまり表立って庇う訳にもいかないのが歯がゆいところだけどな。それでも手順さえ踏めば、おまえの一人や二人守ってやれる」
 漆黒の瞳に柔らかい色を浮かべ、彼は言う。
「俺の立場はそう簡単に揺らぐほど危うくない。だから、変に気を回す必要はないんだからな?」
「……アレク」

 鳶色の瞳にうっすらとさざ波が立つ。
 自らそれに気づき、友香は慌てて顔を隠すように俯いた。
 胸中を揺する感情の波を抑えようと努めるが、それはますます大きく強くなり、彼女の心をかき乱す。

 探し続けた兄の手がかりを、こんな形で得てしまった事からくる動揺。
 その兄と敵対するかもしれない不安と恐怖。
 大切な人たちに心配をかけている罪悪感。
 そして何より、そんな自分を気にかけてくれる周囲の優しさ。
 様々な感情が入り乱れ、ただただ、胸を締め付ける。

 かたん、と椅子の音がした。
 ややあって――傍らに人の気配。
 無言のままそっと伸びてきた腕が、唇を噛み身体を強張らせて涙を堪える彼女の肩を引き寄せる。
「――っ」
 ゆっくりと髪を撫でる大きな手のぬくもりが、かつて同じように自分を宥めてくれた人の記憶を鮮やかに呼び起こす。
 友香は――声をあげて、泣いた。
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