15.拡散②

文字数 2,122文字

「――亮介?」

 第三者が自分を呼ぶ声が聞こえたのは、その時だった。助かった、と思った。これで、穏便にこの場を去ることができると。

「あ――」
 勢いよく振り返る。その動きが、ピタリと止まった。
「マスター……」
「なあに、変な顔してんのよ」
 安堵と、困惑と。
 咄嗟に声の出ない亮介にいつもと変わらない口調でそう言ったマスターの視線が、亮介の手元で止まった。ゆっくりと、その目が眇められる。
「あんた、それ」
 硬い声に、亮介は小袋を握り続けていたことを思い出した。
「!」
 反射的に投げ捨て、後ずさる。何となく手が気持ち悪い。まるで油でべとついているような、そんな心地悪さが指先にも手のひらにも残っている気がして、亮介は無意識に手をジーンズにこすりつけた。堅いデニム地が何となく気持ちを落ち着かせてくれる。
「おい、リョースケなにやってんだよもったいない」
「あ…………」
 振り返れば、名も知らぬかつての仲間――-そう呼べるのなら――が、憤慨したような表情で、亮介の投げ捨てた小袋を拾おうとかがみ込む。
「信じらんねえ、人が折角――」
「ちょっと待ちな」
 その手が小袋に触れるよりも早く、低い声がその動きを遮った。ドスのきいたその声に、亮介は一瞬、それを発したのが誰なのか分からず混乱する。
 その脇をさっと抜けたのは、他ならぬマスターだった。
「な、何だよ」
 怒気の混じるその語調に、相手が怯む。その隙にさっと小袋を拾い上げると、マスターは素早くそれを上着のポケットの奥へと押し込んだ。
「他にも持ってんなら、全部出せ」
 早くよこせといわんばかりに、マスターは片手を差し出した。低いその声と乱暴な語調に、やはり先程の声はマスターが発したのかと、亮介はどこか人ごとのように思った。いつも、女言葉を使っているところしか見たことがなかったから、別人を見ているような気分になる。
「はあ!? ふざけんなよおっさん」
 どこか現実逃避のようにそんなことを考える亮介を余所に、青年は青筋を浮かべてマスターを睨む。
「こんなもん飲んでると死ぬぞ」
「はあ? なに勘違いしてんの、これはただのビタミンだっつの」
「ほお? じゃあ警察行ってみるか?」
 言い募ろうとした青年は、マスターの口から出た言葉に表情を強ばらせた。薄暗くても分かる程度に顔色が変わったところをみると、合法的な薬ではないという自覚はあったらしい。
「ただより怖い物はないって言葉、知らないのか? お前ら実験に使われてんだよ」
「じ、実験?」
「さしずめ、どれだけ飲んだら死ぬかってとこかね」
「死――」
 敢えて直截な言葉を選んだのは、相手にショックを与えるためだ。
 マスターの言葉に、青年は言葉を失った。先程まで怒気に染まっていた顔には、今や隠しきれない不安の色が浮かびつつある。
「少しは頭使って考えてみろよ。お前らみたいなの相手に、無料でクスリを配り歩いてるってのはそういうこったろ。もし何かあったって、訴えられないのが分かってんだ」
 挑発的な表情を浮かべ、マスターは言い放つ。疑念と不安を与えれば、それが薬を手放すきっかけになるかも知れないと期待して。
「…………」
 思い当たる節があるのだろう、青年が目を逸らす。視線を左右に小刻みに揺らす様子に、マスターは溜息を吐いた。
「ほれ、全部置いてけ。で、二度と変な薬に手を――」
 言いかけた言葉が、不自然に止まった。
 マスターは何かを探るように視線を一点に固定して、眉根を寄せる。
「マスター?」
 恐る恐る亮介が声を掛ける。だが、それよりも僅かに早く、マスターは言葉を継いだ。不自然な沈黙が降りたのは、ほんの僅か、数秒にも満たない時間だ。
「――ま、渡す気がないなら良いわ。でもね、他人を巻き添えにするのはやめてちょうだい」
 差し出していた手をひらひらと振ってそう言うと、マスターは亮介の二の腕を掴んだ。
「行くわよ」
「え、ちょ、待っ」
 言うが早いか、戸惑う亮介を引きずるように、踵を返して歩き出す。その足が大通りに出る直前で止まる。
「あんたも。若い身空で薬漬けになるのはやめときなさいよ。今ならまだ、戻れるから」
 肩越しにそう言い捨てると、マスターは今度こそ、人の波に紛れるように歩き出した。
「……」
 良かったのだろうか。瞬く間に人混みの間に消えていく路地を見送りながら、亮介はちらりとマスターの横顔を見上げた。改めて見ると日本人にしては彫りの深いその顔が、いつになく険しいように見える。
 さっきの唐突な変化は何だったのかと、じわじわと疑問が浮かび上がる。
「マスター、どうし――」
「いいから、黙って着いてらっしゃい」
 問答無用とでも言いたげに、マスターは亮介の腕を掴んだまま人混みを抜ける。徐々にそのスピードは早足から駆け足に近い速度へと上がっていった。
「ちょ、マスター、どこに」
 亮介の問いにも答えず、マスターは混雑した通りばかりを選んで右へ左へと角を折れていく。まるで何かから逃げるかのようだ。急いでいるようにも見えないのに、とてつもなく速い。足がもつれないように着いていくだけでも精一杯で、息が上がる。
「――」
 どうしたのだろうと思いながら、見上げた顔の険しさに、亮介は黙って足を速めた。
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