序章
文字数 2,247文字
「そういえば。とりあえず、ひとつめの術は解除できそうだよ」
開発長レイ・ソンブラが開口一番に言ったのは、そんな一言だった。
「ひとつめ?」
毎朝行われる定例の長官会議の席である。
一通りの議題を終えたところで、前後の文脈も何もなく唐突に発された台詞に全員が首を傾げた。
「ほら、あのリンって子の。結局、複数の術式がこんがらがってるってわかってさ」
そう言って、レイは手元の紙にさらさらと術式を書き込んでいく。
「これが最初に調べたときに分かった術式ね。で、これを解読していくと――」
ペンを動かしながら説明するレイの手元を一同がのぞき込む。
「――で、これがこうなるから」
「結局なんなんですの?」
放っておけば延々と説明を続けそうなレイを、医療長マリアム・ナゼルが止めた。
全員、現職の長官職だ。術式の解読は専門ではないとはいえ、大まかな理論は理解出来ている。が、いかんせん――長い。
「だからさ、中途半端な状態だって言ってた術式は、その下にある術式を重ねがけする途中だったってこと。構成式も全く同じだから、同じ人物の仕業だね」
精界で使われる「呪」には、攻撃術や結界術、医療部の使う治療術など、様々な術式がある。それらは概ね基本的な術式――原初の六柱に由来する自然界の力――の組み合わせから成り立っている。
基本の術式は、練習さえすれば誰でも使うことができるものだ。浄化には火または水、護りには土といったように、求める効果に応じた組み合わせや強度のバランスにはある程度の法則性がある。ちょっと火を付けるというような基本的な術式であれば、基本の公式さえ覚えれば十分である。
だが術を応用しようとする場合や、記憶の封印のように特殊な性質の術式の場合、高度な組み合わせと調整が必要になる。構成式はいわば料理のようなもので、術者毎に、手順や細かい隠し味のような一手間が加えられていることもある。
つまり――同じ効果の術でも、構成式は個々の術者によって異なる。示し合わせない限り、全く同じ術式になることは、まずないと言っていい。
「で、ここまで解いてみて分かったんだけど、多分この下にもうひとつ、別の術式がある」
「三重に掛かってるってこと?」
中山友香の声に、レイは頷いた。
「そう。ただ下の術式はまだ見えてこない。上のを外せば見えるけど、どうする?」
最後の問いかけは、指揮官アレク・ランブルに対するものだ。視線を受けてアレクは軽く眉を上げる。
「何か問題があるのか?」
「いや特には。ただ、二度掛けしようとしたり、あの子自身が記憶の欠落に気づいたりするくらいだから、あの子にとっては相当重要な記憶なんだろうと思うだけだよ。良くも悪くもね」
「良くも、悪くも……ね」
「まあ後は、封印術はダミーで、下に掛かっている術式を抑えるのが目的って可能性もあるけど」
それはやってみないことには分からないし、と軽い調子で言い放つ。下から出てくる術式が何であれ、大抵のものなら対処できるという自信があるからこその発言だろう。
「だからさ、僕の方はいつでも解呪できるってこと。その上でどうする?」
改めて問われ、アレクはふむ、と頷く。
「俺は良いと思うが。下にあるという術式は気になるが、いずれにせよ解除しないことにはな」
「そうね……」
友香が溜息交じりに同意する。
「あれ、中山は嫌がるかと思ったんだけど」
「え、何で?」
「だってあの子のこと気にしてるでしょ」
「あー……、それはまあ、ね。本人の意志は尊重した方がいいとは思うけど。でも、記憶を勝手にいじられるなんて嫌じゃない?」
苦笑交じりに友香は言う。
「悪い記憶でも?」
「それでも。その記憶が要るか要らないかなんて、本人にしか分からないもの」
そう言って、人よりも「悪い記憶」が多いはずの公安長はからりと笑った。
*
赤ん坊の泣き声が聞こえる。
――返して!
争う声。頬を打つバシッという音。
すすり泣く声。
――返してください…………!
再び、すすり泣く声。
――……はい……仰せのままに
「――――!」
声にならない悲鳴を上げて、リンは飛び起きた。
「…………」
心臓が押しつぶされたように痛い。
肺が少しでも多く酸素を取り入れようと、耳障りな音を立てて蠕動する。
額には脂汗がびっしりと浮き上がり、寝間着の背中は嫌な汗でぐっしょりと濡れている。
「…………ぅ……」
少女ののどから、小さな嗚咽が漏れた。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
例え記憶を封じられても、それでも決して忘れてはいけなかったのに。
ぽたぽたと、見開いた瞳からとめどなくこぼれる涙が、シーツに大きな染みを作る。
「……う……ぁぁっ」
シーツを握りしめ、声をかみ殺して、リンは泣いた。
少女の嗚咽を聞きながら、ハリーは重い溜息を吐いた。
夢に魘され飛び起きた少女は、彼の気配に気付いていない。
開発長レイ・ソンブラによって、彼女に掛けられていた記憶封じの術式が解呪されてから、間もなく一夜が明けようとしている。深い催眠にかけられた少女の意識が戻るまではと、部屋の隅で待っていたハリーは、そのまま注意深く気配を殺した。
本当は目を醒ましてすぐ、声を掛けようとした。けれど、鬼気迫るリンの声がそれを許さない。
きっと彼女は、今の自分の姿を誰にも見られたくないだろうから。
「ふ…………ぅえぇ……っ」
苦しそうな少女の嗚咽が、ハリーの胸までもかき乱す。
「…………」
何かを堪えるように胸を抑え、彼は泣き続ける少女の姿を見つめた。
開発長レイ・ソンブラが開口一番に言ったのは、そんな一言だった。
「ひとつめ?」
毎朝行われる定例の長官会議の席である。
一通りの議題を終えたところで、前後の文脈も何もなく唐突に発された台詞に全員が首を傾げた。
「ほら、あのリンって子の。結局、複数の術式がこんがらがってるってわかってさ」
そう言って、レイは手元の紙にさらさらと術式を書き込んでいく。
「これが最初に調べたときに分かった術式ね。で、これを解読していくと――」
ペンを動かしながら説明するレイの手元を一同がのぞき込む。
「――で、これがこうなるから」
「結局なんなんですの?」
放っておけば延々と説明を続けそうなレイを、医療長マリアム・ナゼルが止めた。
全員、現職の長官職だ。術式の解読は専門ではないとはいえ、大まかな理論は理解出来ている。が、いかんせん――長い。
「だからさ、中途半端な状態だって言ってた術式は、その下にある術式を重ねがけする途中だったってこと。構成式も全く同じだから、同じ人物の仕業だね」
精界で使われる「呪」には、攻撃術や結界術、医療部の使う治療術など、様々な術式がある。それらは概ね基本的な術式――原初の六柱に由来する自然界の力――の組み合わせから成り立っている。
基本の術式は、練習さえすれば誰でも使うことができるものだ。浄化には火または水、護りには土といったように、求める効果に応じた組み合わせや強度のバランスにはある程度の法則性がある。ちょっと火を付けるというような基本的な術式であれば、基本の公式さえ覚えれば十分である。
だが術を応用しようとする場合や、記憶の封印のように特殊な性質の術式の場合、高度な組み合わせと調整が必要になる。構成式はいわば料理のようなもので、術者毎に、手順や細かい隠し味のような一手間が加えられていることもある。
つまり――同じ効果の術でも、構成式は個々の術者によって異なる。示し合わせない限り、全く同じ術式になることは、まずないと言っていい。
「で、ここまで解いてみて分かったんだけど、多分この下にもうひとつ、別の術式がある」
「三重に掛かってるってこと?」
中山友香の声に、レイは頷いた。
「そう。ただ下の術式はまだ見えてこない。上のを外せば見えるけど、どうする?」
最後の問いかけは、指揮官アレク・ランブルに対するものだ。視線を受けてアレクは軽く眉を上げる。
「何か問題があるのか?」
「いや特には。ただ、二度掛けしようとしたり、あの子自身が記憶の欠落に気づいたりするくらいだから、あの子にとっては相当重要な記憶なんだろうと思うだけだよ。良くも悪くもね」
「良くも、悪くも……ね」
「まあ後は、封印術はダミーで、下に掛かっている術式を抑えるのが目的って可能性もあるけど」
それはやってみないことには分からないし、と軽い調子で言い放つ。下から出てくる術式が何であれ、大抵のものなら対処できるという自信があるからこその発言だろう。
「だからさ、僕の方はいつでも解呪できるってこと。その上でどうする?」
改めて問われ、アレクはふむ、と頷く。
「俺は良いと思うが。下にあるという術式は気になるが、いずれにせよ解除しないことにはな」
「そうね……」
友香が溜息交じりに同意する。
「あれ、中山は嫌がるかと思ったんだけど」
「え、何で?」
「だってあの子のこと気にしてるでしょ」
「あー……、それはまあ、ね。本人の意志は尊重した方がいいとは思うけど。でも、記憶を勝手にいじられるなんて嫌じゃない?」
苦笑交じりに友香は言う。
「悪い記憶でも?」
「それでも。その記憶が要るか要らないかなんて、本人にしか分からないもの」
そう言って、人よりも「悪い記憶」が多いはずの公安長はからりと笑った。
*
赤ん坊の泣き声が聞こえる。
――返して!
争う声。頬を打つバシッという音。
すすり泣く声。
――返してください…………!
再び、すすり泣く声。
――……はい……仰せのままに
「――――!」
声にならない悲鳴を上げて、リンは飛び起きた。
「…………」
心臓が押しつぶされたように痛い。
肺が少しでも多く酸素を取り入れようと、耳障りな音を立てて蠕動する。
額には脂汗がびっしりと浮き上がり、寝間着の背中は嫌な汗でぐっしょりと濡れている。
「…………ぅ……」
少女ののどから、小さな嗚咽が漏れた。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
例え記憶を封じられても、それでも決して忘れてはいけなかったのに。
ぽたぽたと、見開いた瞳からとめどなくこぼれる涙が、シーツに大きな染みを作る。
「……う……ぁぁっ」
シーツを握りしめ、声をかみ殺して、リンは泣いた。
少女の嗚咽を聞きながら、ハリーは重い溜息を吐いた。
夢に魘され飛び起きた少女は、彼の気配に気付いていない。
開発長レイ・ソンブラによって、彼女に掛けられていた記憶封じの術式が解呪されてから、間もなく一夜が明けようとしている。深い催眠にかけられた少女の意識が戻るまではと、部屋の隅で待っていたハリーは、そのまま注意深く気配を殺した。
本当は目を醒ましてすぐ、声を掛けようとした。けれど、鬼気迫るリンの声がそれを許さない。
きっと彼女は、今の自分の姿を誰にも見られたくないだろうから。
「ふ…………ぅえぇ……っ」
苦しそうな少女の嗚咽が、ハリーの胸までもかき乱す。
「…………」
何かを堪えるように胸を抑え、彼は泣き続ける少女の姿を見つめた。