3.変事②

文字数 2,047文字

 事件が起きたのは、それからほんの数分後のことだった。
「――トオル? どしたん?」
 ひとしきり雑談で盛り上がっていると、ふとユイがトオルの顔を覗き込んだ。
「何か、めっちゃ顔色悪いよ?」
 その言葉に、皆が話をやめてトオルの方を振り返る。よく彼に注目の集まる日だと、漠然と亮介は思う。
「いや……何か、いきなり気分悪くなってきた」
 呟くように言ったトオルの顔は土気色だ。声も小さく震え掠れている。
「ちょっと、平気?」
「やばい顔してるぞ」
 口々に言う仲間たちに答えず、トオルは震える手でボトムのポケットを探り始めた。
「トオル?」
「ちょっと……待って、これ飲めば…………」
 忙しなくポケットから引きだしたのは、白いカプセルの入ったビニール袋だった。
「何だよ、それ」
「これ飲んだら、元気になる……」
 譫言のように呟いて、トオルは薬を出そうとビニールの口を開く。パラパラと音を立てて、いくつかが地面に落ちた。
「おい、トオル!?」
 明らかにおかしなその様子に、亮介が呼びかけるのも聞かず、トオルは無造作にいくつものカプセルを鷲掴みにすると、迷わず口元に運ぶ。
 口を開け、ざらざらとカプセルを流し込もうとした、その瞬間。
「――やめときなさい」
 低い声とともに、誰かがトオルの腕を掴み、その動きを止めた。
「……マスター」
「トオルあんた、こんなもの、ドコで手に入れたの」
 厳しさの混じった声に、トオルがどんよりとした目をマスターに向けた。
「変なもんじゃ……ねえよ。ただの、ビタミン……」
「ただのビタミンでそんなになるわけないでしょ」
 応じるマスターの表情は、普段からは想像もつかないほど厳しいものだった。
「誰から買ったの」
「………………」
 マスターの問いに答えず、トオルは掴まれた腕を振り払おうとする。だが腕はピクリとも動かなかった。
「おい、トオル。誰から買った?」
 男言葉に戻って重ねられた問いに、のろのろとトオルの唇が動きかけた、その時。
「キャァァーーッ!」
 つんざくような悲鳴に、皆が虚を突かれた。
「何だよ……」
 亮介が振り返ると、メグが震えながら何かをしきりに指さしていた。その顔は、蒼白を通り越して紙のように白い。
「え、おい!?」
「うわぁ!」
 彼女の指先を追っていった仲間達の口から、次々に驚嘆の声が漏れる。
 先程の姿勢のまま、硬直したように動かないトオルの背後で、何かが蠢いている。

 真っ黒い、何か。
昔、書道の時間にこぼした墨汁みたいだと、呆然とした頭のどこかで亮介は思った。
ただ、それは墨汁とは本質的に異なる存在(モノ)であるのは間違いなかった。
 何なのかは全く判らないが、とてつもなく悪い――危険なものだということだけは、本能が知らせてくれた。ぞわぞわと、全身の毛が逆立つ感覚。

「――やばい、おまえら逃げろっ!」
 マスターが緊迫した声をあげた。
だが、誰も動かない。いや、動けなかった。ましてや、マスターが男言葉に戻っていることになど、誰一人気づかなかった。
 その場に集った全員が、呪縛されたかのように身じろぎもせず、トオルの後ろの

を見つめていた。

 ゾゾゾゾ……という不気味な音を発しながら蠕動し、その墨汁のような何かは徐々に人型にまとまっていくように見える。
程なく、完全に人の形になった

は、真っ黒い粘土で作った土人形のようだった。だが、その身長は二メートルを軽く超している。

が――上から覗き込むように、硬直したトオルをじっと見下ろした――目など、ないのに。
 見守る仲間たちの視線の先で、

が大きく口を開けた。その向こうも同じように真っ黒なのに、それは口だと、なぜか全員が認識した。
「あ……」
 ようやく金縛りが解けたかのように、トオルが

を見上げ、一声発したその瞬間。

――ゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾ……

 再び不気味な音とともに、人型が蠕動する。
 そして。

 大きく口を開けた

が、トオルを頭からひと呑みした。

「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
 叫んだのは、自分か。それとも他の誰かだったのか。
「はやく逃げろ!」
 マスターの声が響くのとほぼ同時に、仲間たちが蜘蛛の子を散らしたように駆けだした。青年達は、本能が導くかのように光の煌々と灯った場所を目指す。同じように、亮介もまた勢い良く走り出す。
 だが。
「――あ」
 遁走する途上、ふと振り返った亮介は、もとの場所に取り残された少女――ユイ――に気づいた。
「ユイ!」
「……ダメ、動けない」
 亮介の声に、怯えた表情でふるふると首を振り、ユイは呟く。
 不意に降って湧いた恐怖に竦んだ足は、ぴくりとも動こうとしない。
 立ち竦んだ彼女を連れ戻そうと、亮介は一歩、足を踏み出しかけ――
「――――っ」
 後ろ髪を振り切るように踵を返すと、二度と振り返ることなく明るい街路の方角へと姿を消した。
「な……ちょっと、ねえ」
 一人残された少女の、恐怖に揺れる声を聞くまいと両手で塞いだ亮介の耳に。
「いやぁぁぁぁっ!」
 塞いでもなお聞こえる少女の絶叫が、絶望と消えない悔恨を植え付けた。
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