18.黄昏に誓う①

文字数 1,772文字

 陽が傾いてくると、精界の空気はほんのわずかに湿り気を帯びる。そのしっとりとした空気をゆっくりと吸い込み、アレク・ランブルは地平線へと視線を送った。
 小高い丘陵の頂上に建つ本部棟の屋上からは、ぐるりと一周、地平線を見渡すことができる。沈みかけた夕陽が、燃えるような朱から薄紫へと美しいグラデーションを作り出している。それを眺め、アレクは重い息を吐いた。
 その手には一枚の紙切れがある。つい先程届いたばかりの報せだ。辺境の三地方に調査を命じた件についての第一報――ヴァーレンから届いたものだ。あまりにも早い報せに、現地の駐在員の耳には情報が入っていたのだろう事が窺える。溜息を吐いて、アレクは無関係の者には読むことができないよう暗号化されたそれに目を通した。

 ――ヴァーレンの領主の屋敷には「闇」から献上された娘とその娘に産ませた子供がいると、領内の民が噂を交わしている。

「これでほぼ確定、だな」
 既に想定していたとはいえ、現実になってほしくはなかった最悪の報せだ。裏付けはこれからだが、火のないところに煙は立たぬ。噂の出所は、領主の元に出入りする商人や使用人の関係者たちらしい。どんなに厳重に隠しても、些細なほころびから噂は漏れ出していくものだ。

 内通者の存在が判明した今、足下を掬われる前にこちらから対処を練らねばならない。内通者を敢えて泳がせるという手段もあるが、現状を鑑みると、後手に回るリスクは回避したい……とはいえここ半年ほどはずっと、自分たちが後手に回っている感が否めないこともまた、事実なのだが。
 よもやこんなタイミングで闇の者たちが動き出すとは――いや、このタイミングだからこそ、か。

 アレクは小さく溜息を吐いた。
 彼が正式に指揮官に就任して、もう――まだ3年だ。先代からの引き継ぎの期間を計算に入れて、ようやっと5年。組織全体が新しい体制に慣れて円滑に動くようになり、地盤が固まりつつあるのを感じ始めたばかり。敵はその、まだ盤石とは言い難い時期を狙ったのだろう。

 代々、ランブル当主の家督継承は次代の成人と同時に始まる習わしだ。そこから2年間の引き継ぎと人材育成の後、正式に新体制へと移行する。つまりアレクの年齢さえ調べれば、代替わりの不安定な時期を狙って準備することは容易い。
 ランディスのような現体制に不満を持つ反乱分子を取り込むことができれば、なおさらだ。
「――ったく、頭が痛いな」
 セルノの復活などという大それた計画が本当に実現するかはわからない。だが、自分たちの陣営の穴を狙われたことはかなり痛い。ランディスの他にも同じような輩が獅子身中の虫となっている可能性があるということなのだから。内なる敵を探して疑心暗鬼になれば、ただでさえ万全とはいえない体制がさらに揺らぐ。それだけは何としても防がねばならない。

 ここまで後手に回らざるを得なかった分、これからは先手を取っていきたいところだ。
 けれど、敵はことごとくこちらの常識の隙を突いてくる。まったく、一体どうしろというのか。

「あー…………くそ」
 もう一度、今度は深く長い溜息を吐くと、アレクは目を閉じて額を鉄柵に押し当てた。
 弱気になっている場合ではない。敵の出方を読み、手を打たなければ。毅然と、けれども慎重に。
 打つ手はある、はずだ。嵯峨の陣営にいた人物が二人も手元にいるのだから。彼らから情報を得られれば、それだけ相手の手の内を読むことができるようにもなるだろう。

 波立った気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと目を開ける。
 眼下を見下ろすと、ランブルの職員たちが動き回っているのが見えた。書類を持って本部棟から別棟へとそれぞれ向かう者たち。武練場の方角から数人で連れ立ってこちらにやってくる新人たち。勤務が終わったらしく、私服に着替えて寮の方角へと帰って行く者もいる。
 この先、アレクの判断が彼らの人生を左右するかもしれない。いや、彼らだけではない。ひとつ下手を打てば、精界全体に大きな争いが起きる可能性すらある。

 その端境に立っているという自覚と――畏れ。
 自分は過たず、この危機を乗り越えられるだろうか。そんな思いに、アレクは身震いした。
 けれど、そんな内心に抱える不安は、指揮官としての顔の裏に隠してしまわねば――下の者たちに不安を与えるのは本意ではない。
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