6.路地で②

文字数 2,594文字

 亮介を驚かせた男は、レオと名乗った。
「随分と驚かせてしまったようで、申し訳ない」
 そう言うと、男は路地の入り口の自動販売機で買った缶ジュースを亮介に手渡す。無言のままそれを受け取って、亮介はプルタブを引き上げた。尻餅をついたその場所で、膝を抱えて座ったままだ。正直まだ腰が抜けているが、今更、取り繕っても仕方ないだろう。開き直った方が早い。
 さっきまで点滅していたのが嘘のように、街灯は新品同様のまばゆい光で辺りを照らしている。
 そうして見る路地の風景は、あの頃とほとんど変わらなかった――皆でたまり場にしていたビルの入り口にシャッターが下りている、それ以外は。
「あんた……あんなトコで何やってたんだよ」
 亮介の問いに、男は軽く眉を上げて肩を竦める。
 あんな誰も寄りつかないような暗がりから出てきたのだから、どうせ酔っ払いかヤク中の類だろうと思ったのに、男からは酷くまともな匂いがしていた。クスリはおろか、酒の一滴すら入っていないだろう。ドリンクが緑茶という辺りからして、えらく健康的だ。
「そう言う青年――亮介こそ、何をしていた?」
「俺は……ただ、客引きがしつこいから……」
 事実を言っている筈なのに何故か言葉に詰まる。だが目を逸らした亮介にレオは気づかなかったらしい。
「確かに、この辺りは多いが――」
 頷いて、男は緑茶に口を付ける。
「この路地だけは別のようだな」
「ああ、それは――」
 答えかけて、亮介はぶるっと頭を振った。
「ちょっと前までは、もう少し明るかったんだ」
「……亮介?」
 不意に暗くなった声色に、レオが不思議そうな声を発する。
「……あんな事さえなけりゃあ、今だってこんな寂れてなかったはずなんだ」
 ――何で俺、わざわざこんな話してんだ
 亮介の脳裏をそんな疑問が過ぎる。だが、思いとは裏腹に、口は言葉を紡ぎ続けた。
「あそこのビルの前で、騒ぎがあってさ。事件にはならなかったから、知ってる奴は少ないだろうけど」
 ただ、又聞きしただけの他人の話のような口調で続ける。本当のことなど、話しても笑われるだけだ。
「そっからは、誰もこの辺に寄りつかなくなったってわけ」
 何も知らないような口振りでそう言って、亮介は肩を竦めた。
 これで、この話はおしまい。そのつもりだった。
「騒ぎ、とは?」
 だが、妙に真剣な声が、彼に更なる情報を求める。
「……言葉のまんまだよ。てか、俺に聞かれてもしらねえし」
 心を過ぎる苛立ちに任せ、亮介は投げやりに言った。
 この話題が思い起こさせるのは恐怖だけではない。仲間を喪い、憩いの場を失った悲しみと怒り。そして何より――、ユイを置いて逃げた自分への呵責。
 その後、あの少女がどうなったのかを自分は知らない。彼女の本名も住処も、メールアドレスさえ知らない自分には、彼女の消息を知る方法など皆無だった。
「……ふむ。それもそうだな」
 亮介の言葉に、レオはあっさりと頷いた。
「それはそれとして、さっきは随分驚かせたみたいですまなかった」
「あー……それは、まあ」
 さっきのことを思い出し、少しばつの悪い気持ちで、亮介は頷く。驚いたのは事実だが、その理由を訊かれたくはない。何と返したものか、という逡巡は、思わぬ第三者の出現で遮られた。
「――あら、亮介じゃないの」
「……マスター?」
 見れば、あのバーのマスターがそこに立っていた。あの夜と何ら変わらぬその姿に、懐かしさともつかない不思議な感情が胸を過ぎる。
「何やってんの、あんた」
「マスターこそ、何で。店、閉めたんじゃ……」
「何で閉店しなきゃなんないのよ。ただでさえ赤字なのに、本気で閉店した日にゃ、餓死しちゃうわよ」
 そう言うと、彼は亮介の隣に視線を移す。
「あら……お客さんかしら?」
「いや――」
「そこの店の方かな」
 亮介が否定するよりも早く、レオが口を開いた。
「ええ、寂れた店ですけど。見たところ、外国の方みたいですけど、この店のことはどこかで?」
「ああ、噂で少しな……ここのところ閉まっていたようだが」
「あら、何度か足を運ばせちゃったかしら? ちょっと訳があってね、しばらく閉めてたのよ」
 ごめんねぇ、と言って、マスターはビルのシャッターを押し上げる。
「亮介、あんたも飲んできなさいな」
「え、いや、俺は……」
 マスターの誘いに、亮介は小さく手を振って断りの意を示した。
 あの夜の出来事について、マスターと話したいことは、沢山ある。あの時トオルが飲んでいた薬のことや、あの影は一体何だったのか、そしてどこに行ったのか。他の面々はその後、ここに来ているのか。そして何より――ユイの安否。
 だがついさっきレオに対して、ここで起きた事件を知らないと言ってしまった手前、今更その話を口にすることは躊躇われた。それに、この場所に長く留まっていると、懐かしさと悔恨に圧し潰されてしまいそうな気がする。
「そう? じゃあまたね」
 あっさりと頷くと、マスターは踵を返した。レオの背中もその後に続く。
「あ……」
「亮介、驚かせてすまなかったな。機会があればまた会おう」
 ――行ってしまう
 せめて、ユイの安否だけでも聞いておかなくては。
 亮介の混乱した記憶が定かならば、あの時最後までユイの傍にいたのはマスターだったはずだ。
「あ、あのさ……!」
 そんな思いに突き動かされたかのように、気づけば亮介は彼らを呼び止めていた。
「何、どうしたの」
 こちらを振り返ったマスターが怪訝そうに問い返す。
「あのさ……あ、ゆ、ユイ……は」
「……ユイなら、無事よ」
 マスターの言葉に、亮介の肩から力が抜けた。
「そ、そっか……」
 自分のした事が帳消しになるわけではないと解ってはいても、肩の荷が下りたような気がして亮介はほっと息を吐いた。
「あのさ、それで……」
「――会いたいなら、今はやめときなさい」
 その後の消息を訊ねようとした瞬間、厳しい声が続きを塞ぐ。
「今、あんたが顔を見せても、お互い辛いだけよ」
「な、んで……」
 一度ほっとした後だっただけに、余計にその言葉は胸に深く突き刺さった。
「あんたを責めるつもりはないわ。ただ、今はやめときなさい」
「あの後、何が……」
「――知らない方が良いことよ」
 そう言うと、これで話は終わりだというように、マスターは背を向けた。
「…………」
 去っていく背中にそれ以上声を掛けることが出来ず、亮介はただその場に立ち尽くしていた。
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