5.逡巡①

文字数 2,088文字

 開いた窓から、今日も花の香りのする風が吹き込んでくる。
 窓から外を眺め、リンは溜息を吐いた。
 ――どうしよう
 記憶を取り戻してから今日まで、頭を占めているのはひたすらその一言だ。
 ――どうしたら……いいのだろう

 あの日。リンが嵯峨に忠誠を誓ったことで、エイダ親子は命を長らえた。
 赤子はリンの懸命な取りなしによって母親の元に返され、そして母子は奉公先へと返された――筈だ。
「……」
 それ以来、リンは主に命じられるまま、その意のままに動く人形となった。主に背くことなど、考えられなかった。
 朝な夕な雑用を言いつけられる。危険な仕事を命じられ、任務に失敗すれば罵られ、暴力を受ける。

 それでも、逃げることはできなかった――姉と慕う人と赤ん坊の命が、リンの肩に掛かっているから。

「エイダ……」
 ぽつりと、声が漏れた。

 早く帰らなければ、あの母子が殺されてしまうかもしれない。
 幼い頃から傍にいてくれた、優しく温かいあの人を。あの人が必死に守ろうとした命を、失うわけにはいかない。
 リンにとって、エイダはもはや唯一の肉親にも等しい存在だ。その彼女を喪えば、自分を支えるものがなくなってしまう。
 だから、なんとしてでも帰らなくてはならない……のに。

 彼女の置かれた現状が、それを妨げる。

 リンは窓辺を離れ、室内を振り返った。
 ベッドの他には、小さなテーブルと椅子、それからやはり小さなチェストしかない小さな部屋だ。紫月による急襲後、この部屋に移されてから、リンの生活の大半はこの室内だけで完結している。

 部屋から出ること自体は禁じられていない。同じフロアにある風呂やトイレへの移動、運動不足に陥らないためにフロア内を歩き回ることは許されている。
 しかしそれよりも外に出ることはできない。フロアには出入り口が分からないように結界が張られているし、窓は開くとはいえ、地上まではとても飛び降りられる高さではない。
 つまり、リンの力ではとても脱走することなどできないのだ。たとえ運良く結界を抜けられたとしても、きっとそれで終わりではないだろう。誰の目にも触れず、自力で主の元に戻ることなど到底できようはずもない。

 それに――――

「……」
 ぽすん、と小さな音を立ててリンはベッドに腰を落とした。

 ――帰るのが……怖い

 彼女自身が抱く不安こそ、彼女の決心を鈍らせる最大の要因だった。
 ここに来てからというもの、リンは日に日に強くなるその思いから目を背け続けてきた。
 だが、それもそろそろ限界に近づきつつある。エイダとの再会以降の日々を思い出すと、その思いはいや増しに増すばかりだ。
 軟禁状態とはいえ、不自由のない生活。誰に罵倒されることも、暴力も、嫌な仕事を強要されることもない平穏な日々。主の元に戻れば、二度とこんな穏やかな生活は戻ってこない。それどころか――もし主が既に自分のことを不要の存在、あるいは裏切り者とみなしていたら。
 そうなれば、主の元に戻った先に待っているのは……。

 暗澹たる推測に溜息を吐いたところに、ノックの音が響いた。ビクリと肩を揺らしてリンは戸口を振り返る。
「よお、入るぞ」
 声が聞こえるのとドアを開けるのとどちらが早かったか。
 なんとも微妙なタイミングで顔を覗かせたのは、ロン・セイヤーズだった。怪我から本格的に復帰したことは知っていたが、顔を見るのは久しぶりだ。復帰してすぐのころに様子を見に来て以来だから、ひと月半ぶりくらいだろうか。その時にはまだ杖をついていたが、それも取れたらしい。
「食事、持ってきたぞ」
 手にした大きなトレイには、二人分の食器が載っている。それを窓際のテーブルの上に置くと、ロンは部屋の隅から折りたたみ式の椅子を持ってくる。
「ほら、座れよ。食うぞ」
 どうやら食器をトレイから下ろす気はないらしい。というか、ここで一緒に食べるつもりなのだろうか。
 ベッドに腰を下ろしたまま戸惑うリンの表情に疑問を読み取って、ロンは苦笑する。
「ハルに頼まれてるからな」
 どうぞ、と言わんばかりに片手で椅子を指し示され、リンはおずおずと――いや、渋々と――立ち上がり、窓際の椅子に腰を下ろした。
 トレイの上から、スープの入ったマグカップを取り上げ、静かに口を付ける。野菜の甘みの溶け込んだスープが、身体の奥にぬくもりを落とした。
「……悪ぃな、ハルじゃなくて」
 しばらく無言で食事をしていると、不意にロンがそんな言葉を投げてきた。ちらりと視線を上げると、ロンがこちらを眺めていた。彼の手元の皿は、既に空になっている。
「あいつな、しばらく休み取ってなかっただろ。長官命令で今日と明日は休みになったんだよ」
 そういえば、ここしばらくはハリーが毎日欠かさず顔を出していたと、今更のようにリンは気づいた。
「えらく、おまえのこと心配してたぞ」
 その言葉に、リンは驚いて顔を上げた。
「なんだ、気づいてなかったのか?」
 彼女の反応に、意外そうな声でロンが訊ねた。その視線を受けて、リンは俯く。
「……」
 心配されていることに気づいていなかった、訳ではない。
「…………知ってた。けど」
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