16.追跡者②

文字数 2,259文字

 音もなく店の外に出るや、レイ・ソンブラは階段の上を見上げた。
店から出る前に目くらましの術式を作動させたから、自分の姿は他人からは認識しづらくなっているはずだ。とはいえ、あまり近づくと気取られる可能性があるから気をつけねば。
「さて、と」
 見上げた視線の先――錆びた階段の上に、激しく動き回る人影がふたつ。それをじっと見つめ、レイはゆっくりと口元に笑みを刷いた。
「なるほど、あれがシヅキか」
 言うが早いか、手元から一片の紙を取り出して、レイはにやりと笑う。
「ちょうど、試してみたかったんだよね」
 マスターから譲られた古い術式を応用して開発したばかりの術だ。まだ自力で使いこなすところまではいかないため、利便性を重視して呪符にしてみたのだが、さて上手く作動するだろうか。
 タイミングを見計らう。下から見えるだけでも、マスターは防戦一方のようだ。対する紫月は余力を残しているのが明らかで、このままでは程なく決着がつくだろうと容易に推測できる。
「――――――――――――――――」
 静かに、けれど素早く。呪を唱えると、手にした紙を翳し――息を吹きかける。仄かに光り始めたそれを、レイは階段の最下段に押し当てた。
 次の瞬間、呪符が消える。
そして――――



 亮介を先に行かせると、男は足を止めた。傍らの自販機で飲み物を物色するような振りをしながら、まだ何者かの気配が自分に向けられていることを確かめる。間違いない、追っ手の狙いは亮介ではなく自分だ。
マスターはそのままゆっくりと周囲を伺う。依然として、それらしき人物は視界に入らない。どこか遠くから観察されているのだ、きっと。
亮介はそろそろ店に入った頃だろうか。このところ毎晩やってくる、あの変わり者の開発長が店にいれば、既に手は打っているはずだ。もし来ていなければ――と考えて、男は首を振った。考えても詮無いことだ。今は逃げ延びることだけに集中しなくては。
自分を落ち着かせるように一呼吸。それからさっと路地へと踏み込んだその瞬間――背後から叩きつけるような猛烈な殺気を感じ、彼は咄嗟に右に飛び退いた。
「――っ」
「へえ、避けたか。勘は良いようだな」
「!」
 背後で声がした、と思った次の瞬間、目の前に男の顔が迫っていた。危ない、と思う間もなく、身体に衝撃が走る。
「――――――――ッ!!」
 ビルの外壁に取り付けられている非常階段の金属製の囲いに思い切り身体を打ち付ける。ガアン、とすさまじい音が路地にこだました。
「いったいわね……、何すんのよいきなり」
「いや、どこかで見たような顔だと思ってな」
「……何の話?」
 ひやりと背中に汗が流れるのを感じながら、マスターは素知らぬ顔で答えた。咄嗟に女言葉に切り替えたのは、自分の身元を少しでも誤魔化したいという思いからだが――、さて功を奏するか。
「俺の顔を知ってるな?」
 断定口調で紫月が問いかける。
「はぁ? あんたいきなり人殴っといて、何なのよ一体。警察呼ぶわよ」
 果たしてどこまで誤魔化されてくれるかは分からないが、しらを切る以外にこの場をやり過ごす方便はない。どうせ、人界人でないことには気づかれている。だが、自分が嵯峨の所から逃亡した元歴史学者だということだけは決して知られてはならない。あくまで、気ままに人界暮らしを楽しんでいる変わり者というスタンスを保たねば。
「なら、そのポケットに入っているのは何だ? あのガキから取り上げただろう」
 マスターの正体に気づいているのかいないのか。紫月は冷ややかに嗤った。
「……ああ、あれ? あたしの知り合いに売りつけようとしてやがったから取り上げたのよ、なんか文句あるっての?」
「それが何か、分からないとでも言うつもりか?」
「ドラッグの類でしょ、種類までは知らないけど。だからなんだってのよ」
 あくまで知らぬ振りで通そうとする男の言葉に、紫月が苛立たしげに眉を潜めた――と思うよりも早く、殺気が放たれる。
「っ! だから、何なのよあんた!」
「まあいい。嵯峨の元に連れ帰れば分かることだ。なあ?」
「…………何を勝手に納得してんのか知らないけど、自己完結系の男は嫌われるわよ」
 にんまりと紫月の唇が引き上がる。一触即発の緊張感に、男は息を殺してじりじりと間合いを広げ――一気に走り出した。
「無駄だ」
「――ぐ……っ」
 路地の外に向かう足を、黒い塊が止める。闇を凝縮した力を手元に集め、紫月は余裕の笑みを浮かべ、続けざまに力を放つ。右に左に、逃げ場を塞ぐように投げつけられるそれは、避けるだけで精一杯だ。
「ちょ……、いい加減にしてよ!!」
 見た目はともかく、自分の本質は頭脳労働の方が得意な歴史学者だ。ましてこの数年、ろくに運動もしていない身に、激しい攻撃を避ける余力などある訳もない。
 それでもなんとか不格好に転がりながら、マスターは紫月の放つ波動が直撃するのだけは避け続ける。
――――くっそ、本気でヤバいな
 この路地にはいくつか、防御のための術式を隠してある。それを上手いこと起動させることができれば、時間を稼ぐこともできるはずだ。だが紫月が間髪空けずに攻撃を仕掛けてくるせいで、集中することができない。頼みの綱は、店にいるかもしれない開発長だが――ランブルの幹部とはいえ、あれも明らかに自分の側の人間だ。いや、おそらく自分以上に非活動的なタイプだろう。
とすれば、この戦闘に参加してくれるのを期待するのは無理筋か、とマスターは諦める。せめて、店にいて亮介を守ってやってくれているなら、それだけで御の字だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み