10.交換条件①

文字数 2,086文字

 深夜過ぎ、レオは再び裏路地へと赴いた。あれから二日、マスターとの約束の刻限だ。
「――まぁた、えらく寂れたところだね」
 路地に一歩踏み込んだ所で、そんな声をあげたのは、開発長レイ・ソンブラだった。
「それでしたら、お帰りになってもよろしいのよ?」
 レイの言葉尻を捉えるように、ほほ、と医療長マリアム・ナゼルがエキゾチックな微笑を浮かべて混ぜ返す。
「……あー、頼むからここで喧嘩はしないでくれよ」
「嫌ですわ、情報長。私がどうして開発長と喧嘩なんかしなくてはなりませんの」
「それを言うならこっちだね」
「だから、喧嘩はするなと頼んでいるだろう」
 珍しく溜息を吐きながら、レオは繰り返した。この二人が揃うと、すぐにこんなやりとりが始まるのが困りものだ。
「あら、喧嘩なんてしてませんわ。ねえ、開発長?」
「そうだね、僕が絡まれてるだけだね」
「…………わざとやっているだろう」
 疲れた声音で言いながら、レオはゆっくりと階段を下りた。目の前には、寂れたバーのドアがある。閉店の札が掛かった扉の向こうからは微かに人の気配が漂っているが、殺気は感じられない。
「――失礼する」
 一声掛けながら、レオは戸を引き開けた。カラン、とベルが鳴る。
「――ああ、いらっしゃい。来てくれたのね」
 カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターが応じた。昨夜と全く同じ、人気のない埃臭い店内。だが、昨夜とは違う点がひとつだけあった。
 入り口から向かって右手、小ぶりなテーブル席のソファに、人影がある。明るい色に脱色した長い髪を無造作に括った後ろ姿から、まだ10代半ばの娘だとわかる。
「――その子か?」
 レオの声に、少女が僅かに顔を上げて視線を寄越す。だがそれ以上の反応はなく、彼女は無表情に正面に向き直って膝を抱えた。
「ええ、そうよ。その前に――そちらのお二方は?」
 少女の手前なのだろう、女言葉を崩すことなくマスターは尋ねた。
「ああ。気療の専門家を連れてくると言っただろう」
 とレオは、背後の二人を振り返る。
「マリアム・ナゼルとレイ・ソンブラだ」
 厳密には気療を施しに来たのはマリアムだけだが、説明するとややこしくなるので、とりあえずは言わずにおく。
「……できれば、所属も教えて欲しいんだけど、良いかしら?」
「相変わらず、信用はされてないようだな」
「――ま、良いんじゃない? 別に知られて困ることじゃないし」
 苦笑したレオの横で、レイが肩を竦めた。
「どう? ナゼル“嬢”?」
 と、傍らのマリアムをにこやかに振り返る。
「あら、まさか嫌味のおつもりかしら? ソンブラ“卿”?」
「うわ、ムキになっちゃってやだね。年のこと気にしすぎなんじゃない?」
「……頼むから、部外者の前で喧嘩しないでくれ。恥ずかしい」
「……何だかよく分からないけど、大変そうね」
 はあ、と溜息を吐いたレオに同情的な視線を向けつつも、マスターは首を傾げた。
「それで?」
「……白衣が開発長。向こうが医療長だ」
「あら。いやぁね、いきなり大物ばっかり」
「――面白い方ですのね」
 口元に手を当て、大仰に驚いてみせるマスターを眺め、マリアムが楚々と笑う。
「でも、いいのかしら? こんな所に長官殿を三人も集めて」
 わずかに目を眇め、マスターはレオに視線を投げる。
「大丈夫だ。指揮官の許可なら下りている」
 ふ、と口元に微かに笑みを浮かべ、レオは答える。その反応に、マスターは軽く眉を顰めた。
「……そういうことじゃなくて。もし――」
「――そういうことさ。この状況で、罠の可能性を考えない筈ないじゃん」
 口を挟んだのは、レイだった。
「とりあえず、考えられる最悪の事態には備えてある。わかったら、下らない問答はやめてよね」
「あら、開発長は今すぐ帰って頂いてもよろしいのよ」
「医療長こそさっさと仕事すませて帰れば」
 またしても喧嘩紛いの応酬を始めた同僚達を眺め、レオが額に手を当てて既に何度目かの溜息を吐く。
「…………この通り、放っておくとすぐ脱線するんだ。悪いが、先に用件に入らせてくれ。ややこしい話は後だ」
「……そうね、わかったわ」
 カウンターからフロアに出ると、マスターは少女が座るソファの前に移動した。
「――ユイ」
 ここまでのやりとりの間ソファで膝を抱えたまま、ぴくりとも動かなかった少女が、その声に目を上げた。それに小さく微笑を浮かべて頷いてみせてから、マスターはレオに歩み寄り、声を落として訊ねた。
「――昨日お願いした通りよ。任せても良いかしら」
「気療だったな」
 少女を眺めながら眉を寄せたレオに、マスターが頷く。
「……どうだ?」
「私の方は問題ありませんわ。元通り、声が出るようにして差し上げればよろしいのでしたわね?」
「ええそうよ。元の生活に戻れるようにしてあげて」
 その言葉に、開発長は同僚達を順繰りに見遣る。
「……ユイ、と呼んでいたな。この間――」
「――その名前は、今は出さないでちょうだい」
 確か、先日出会った青年――亮介が気にしていたのも、そんな名前の人物だったはずだ。そのことを思い出したレオの言葉を遮るように、きつい口調と共にマスターは首を振った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み