第5章 蠢動①

文字数 2,751文字

 どんな任務に就いているときでも、陽が沈み宵闇が訪れる瞬間には、スルリと意識の様相が切り替わる。
 それは直人に限らず、公安部に所属する者たちの一致した所感である。

 闇の者の時間帯。

 視覚、聴覚、あらゆる感覚を研ぎ澄まさねば、夜と同化した闇の者と戦うことは出来ない。
 都会とはいえ、表通りから離れた住宅街には、まばらな街灯と家々の窓からもれる仄かな電光以外、光源はない。

「――変化は?」
 物音ひとつ立てず近づいてきた中山友香の囁きに、驚くこともなく、直人と京平は同時に首を振った。
「今のところ、何も」
「そう。良かった」
 今自分たちがいるアパートの屋上から十数メートル離れた、住宅街の中の一軒家。
 その二階の一室の中に、机に向かう萩原睦月の姿を認め、友香は頷いた。
「――で?」
「で、って?」
 不意に投げかけられた疑問符に、彼女はきょとんとした表情で部下に問い返す。
「誤魔化そうとしても無駄ですよ。ネタは上がってるんやから」
 冗談めかしながらも真剣な目をした部下達に、屋上の手摺に腰を下ろしながら、友香は苦笑した。
「だから何も話すことはないんだってば」
「ほんまに?」
「ほんまに」
 直人の口調を真似して、友香はいたずらっぽく微笑んだ。
「……その内、事情は説明するから。約束するわ」
 直接的な問いかけでは、正面の窓から漏れる光を眺める彼女から、これ以上何も聞き出せそうにない。

 直人と京平はひっそりと視線を交わした。
 しばし、風の音だけが耳を騒がせる。

「――そういえば、あの噂はいつの間にか消えましたね」
「……噂?」
 やがて静かに切り出した京平の言葉に、その意味をしばし考え――次いで意図に気付くと、友香はぷっと噴き出した。
「あなた達は、まったく……ほんとにいいコンビよね」
 くすくすと笑いながらも、彼女の視線はターゲットの家の窓から離れることはない。
 いつ何が起きても即座に対応できるだけの緊張感が小柄な身体を包み、広範囲に向けてアンテナが張り巡らされている。
「知っての通り、特に目立った動きはなかったみたいね。所詮、噂よ」
 ひとしきり笑った後で上官が告げたのは、にべもない回答だった。
「……ほんなら、ひとつだけ。ひとつだけでええから、答えて下さい」
 往生際悪く、駄目を知りつつ直人は食い下がる。
「こだわるわね」
 と友香は小さく溜息を吐いた。
「――そんなに、私が信用できない?」
「そうやないけど」
「気になることを放置しているのが気持ち悪いだけです」
 部下達の真剣な表情を横目で眺め、友香は苦笑を漏らした。

 就任以来、部下との相互理解を深めようと、秘密は出来る限り少なく保つようにしてきた。仕方ないこととはいえ、こんな風に何も話さぬままで部下を特殊任務に当たらせたことは、これまで一度としてなかった。そのことに心苦しさを感じる一面もある。
 そんな思いが、彼女に妥協できるラインを諮らせた。
「……わかった。ひとつだけ、イエス・ノーで答えられる質問なら答えてあげる」
 彼女の言葉に、直人は勢い良く相棒を振り返った。

 ようやく上官から最大限の譲歩をひきだした以上、下手な質問をするわけにはいかない。
 その視線を受けて京平がゆっくりと頷く。

「それじゃ……」
 ややあって、彼はゆっくりと切り出した。上官の反応を確かめるように、ゆっくりと問いを口にする。
「――この件は『目立った動き』には入らないんですか?」
「…………」
 友香はすぐには答えなかった。
 まっすぐにターゲットの部屋の窓を見つめる横顔に、思案と逡巡の色がほんの一瞬だけ浮かぶ。
「…………ノーコメント」
「えー、ズルい! 答えるて言うたやん!」
「大声出さないの。イエス・ノーで答えられる質問ならって言ったでしょ」
 反射的に叫んだ直人を軽く睨み、友香は肩を竦める。
 そこに、京平が冷静に口を挟んだ。
「……つまり、一言では答えられない程度には絡んでいる、ということですか?」
「質問はひとつだけよ」
「そのひとつにもまだ答えてもらってませんが」
「……可愛げないなぁ」
 京平の言い草にわざとらしく顔を蹙めて、友香は盛大に溜息を吐いた。
「……イエス、かな」
「それはどっちの問いに対する答えです?」
「さあ、どっちかしらね?」
 小さく苦笑を漏らし、友香はふっと立ち上がった。
 身に纏っていた緊張が鋭さを増し、スッと瞳が剣呑な色を孕む。
「――お喋りは終わり。来たわ」

 視線の先、ターゲットの家の屋根に闇が生まれていた。
 夜のそれよりも一段濃いその闇から、今しも人影が現れようとしている。

 長い白金の髪、白く小柄な肢体。
 間違いなく先日出会った少女だと確認し、友香は小さく溜息を吐いた。
 確か、名をリンと言っただろうか。

「……昼間と同じ子です」
 部下の囁きに、友香は頷く。

 昼間に続いて現れたということは、彼女は自分たちが睦月に貼り付いていることに気付いていないのだろうとは思う。
 だが逆に、気付いていて敢えて間をおかずに現れたのならば、面倒なことになりそうだ。

 そう判断し、友香は自分が出ることに決めた。
「私が行くわ。あなた達はターゲットの保護を」
 そう言って足を踏み出した、その瞬間。
「――!?」
 少女が現れたのとは逆の方向から「闇の者」の気配が漂ってきた。
 ほんの一瞬で消えたそれは、リンの気配とは比べものにならないほど、強烈かつ凶悪だった。
「今のは……?」
 同じ気配を感じたのだろう。部下達もまた、怪訝な表情で振り返る。
「別件ですかね?」
「どうかしら……もうしないわよね?」
 片目で少女の様子を確認しながら、友香は辺りを見回した。
「……少し距離がありましたね。どうします?」
 言外に別行動を取るかと確認した部下に、友香は即座に首を横に振った。
「ううん、今はこっちに集中しましょ」

 嫌な予感がする。
 経験上、こういうとき下手に勘を無視すると、痛い目を見る場合があることを彼女は知っていた。

「一応、司令部に連絡だけしておいて。――先に行くわ」
 言い残し、友香はとん、と地を蹴る。
 気配を殺したまま、軽やかに木々の枝を飛び移ると、彼女は音もなく少女の背後に着地した。


 リンは、屋根の上から屋内の様子を探っていた。
 『今夜、必ず彼を殺せ』
 暗く寒い廃墟の床に座り込んだまま震えていたリンの腕を掴み、囁いた紫月の声が脳裏によみがえる。
 『彼には監視がついている。だが、今のきみならできるはずだ』
 それがあの「助力」を指していることはすぐに分かった。
 だが、自分の何が変わった――否、変えられたのかは分からなかった。
 『その時になれば分かる。いいね、今夜だ』
 優しいとさえ言える口調でそう囁いて、彼女を置いて出ていった紫月の冷たい目を思い出し、リンはともすればそぞろになる意識を集中させた。
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