第2章 消えた少女②
文字数 3,090文字
「…………?」
ふと視線を感じた気がして、睦月は足を止めた。
まだ早い時間のためか、住宅街を抜ける大学からの帰路には人影もまばらで、睦月の後ろには数人の学生達が歩いている他は、人影もない。
気のせいか、もしかしたらその中の誰かがぼんやりと自分の方を眺めていただけかもしれない。
「どうした?」
隣を歩く岬孝允が不思議そうに振り返った。
「何でもない。誰かに見られてる気がしたんだけど、気のせいだったみたい」
「あー、そりゃあれだ。やっぱ見舞客がストーカーだったんだな」
「もう。何でそうなるのさ」
再び歩き出しながら、睦月はそっと背後を窺った。
やはり学生が数人歩いているだけで、怪しい素振りひとつありはしない。
――やっぱり、気のせいか。
軽く頭を振り、気分を変えると睦月は岬を振り向いた。
「月城さんとはY駅で待ち合わせ?」
睦月の問いに、岬はおう、と頷いた。
「今日はあいつ講義ないから」
岬の彼女は国際学部の学生で、Y駅近くに部屋を借りて一人暮らしをしているらしい。睦月も何度か見かけたことがあるが、背が高く凛として、人を寄せ付けない雰囲気すらある美人だ。
「ようやく映画観に行く約束取り付けてさ」
「ようやくって、そんな大袈裟な」
「そういうけどな、この約束とりつけるのがどれ……っだけ大変だったか」
「……付き合ってるんだよね?」
拳を握って力説する友人の口調に、ふと不安を覚えて睦月は訊ねた。
件の彼女は、岬と話しているときには大抵怒っているという印象がある。
人よりも頭ひとつ抜けた長身のふたりが喧嘩まがいのやりとりをしている様は異様に人目を引くのだが、もしかして、二人きりの時でさえあの調子なのだろうか。
「んー、少なくとも俺はそのつもりだけど」
「岬は……って」
予想外の答えに返す言葉を失った睦月に、岬はばつが悪そうに視線を逸らすと、頭を掻いた。
「一応、あれでも高校の頃に比べたら大分丸くなったんだけどなぁ」
「え、高校時代からのつきあい?」
「ああ、高校三年間ずっと同じクラス」
そう言って、彼は大仰に溜息を吐く。
「で、ずっとあの調子」
「……大変だね」
思わず出た言葉に「ま、俺は別に気にならないしいいんだけどさ」と、岬は苦笑混じりに呟くと、
「そういう萩原はどうなんだよ? 噂の見舞客、ホントに元カノじゃねえの?」
人の悪い笑みを浮かべて話をぶり返した。
「違うって。僕、髪の長い女の子と付き合ったことないもん」
「髪なんて伸びるだろ」
「高校卒業してから自然消滅で連絡取ってないよ。
報道されたわけでもないのに、お見舞いなんて来るわけないじゃ……」
岬にそう返しながら、脳裏を過ぎった何かに睦月は言葉を止めた。
「うーん、そうか。誰なんだろうな?」
彼の様子に気付いていないらしい岬の言葉に生返事を返しながら、睦月はたった今脳裏を通り過ぎたイメージを掴もうと意識を集中した。
ぼんやりと、髪の長い娘の輪郭が浮かび上がってくる。
――髪の長い女の子。
顔までは思い出せない。
だが、確かに記憶がある。
どこかで会った。それも、つい最近の筈。
――どこで会った? どこで……
「おい、萩原」
「ん、何?」
岬の声に睦月は我に返った。
気付けば、いつの間にか住宅街を抜け、駅前の大通りに出ていた。
ちょうど事故に遭った辺りだ。
「あの子、知ってるか?」
「誰のこと?」
睦月の反問に、岬は視線で通りの向こう側を示した。
つられてそちらに視線を向けようとした、その矢先。
まさにその方角から灼けつくような視線を感じ、睦月は動きを止めた。
顔はそのままに、ゆっくりと目だけを動かす。
車の行き交う大通りの反対側、まばらな通行人の間に一人、立ち止まっている人影が見える。
「あの、銀髪……っぽい感じの女の子?」
白のサマーニットに花柄のロングスカートを履いた銀髪(プラチナブロンド)の少女がこちらを向いて立っている。
視界の隅で捉えているせいではっきりとは見えないが、年の頃は十五歳くらいだろうか。
目深に被った麦わら帽子の下からじっとこちらを見つめる気配に、ぞわりと背筋が粟立つのを感じる。
「……あれじゃないのか? 見舞客」
囁いた睦月に、同じく顔は正面に向けたまま小声で岬が返した。
交差点の信号が点滅し、赤に変わった。
「大分年下っぽいけど……? それに彼女、日本人じゃないよ」
髪が長く小柄である点だけは確かに母の目撃証言と一致するが、外国人らしいその少女に見覚えはない。
――本当に?
見覚えはない、と思った瞬間、脳裏にそんな声が響く。
だが、睦月はそれを気のせいだと振り切った。
「さっきからずっとおまえのことを見てる」
ちらりと視線を少女に向けながら、岬が囁く。
つられて、睦月も小声で返した。
「さっきって、いつから?」
「この通りに出てからだから、三分くらい前からか? 知り合いかそれともナンパかと思ったけど、そんな雰囲気でもないよな」
「うん。何だろ……」
「どうする?」
岬の問いに、睦月は目を上げた。ちらと友人と視線を交わし、頷く。
「本人に訊こう。信号が変わったら、走るよ」
「OK」
何気ない様子で信号が青に変わるのを待つと、二人はゆっくりと道を渡り出した。
件の少女は、未だ同じ場所に立ってこちらを見つめて――睨んで――いる。
通行人が道の真ん中に立ちつくした少女を避けるように歩いていく。
誰一人、彼女を振り返りもしないのが、やや奇妙と言えば奇妙な光景だった。
「――いくぞ。3、2」
道を渡り終えると同時に、岬が囁いた。
「1!」
岬の声を合図に、二人は同時にくるりと九十度方向を変え、走り出した。
「――――!」
その不意の動きに、少女が息を呑むのが見えた。
だが、立ち竦んだのはほんの一瞬で、少女はくるりと踵を返すと、帽子を押さえながら素早く人並みを抜け、走り出す。
「待って!」
睦月に構わず、少女は巧みに人々の間を抜けていく。
通行人が怪訝そうに睦月と岬を振り返る。
その隙に、少女は角を曲がり、姿を消した。
足の速い岬がそれを追っていく。
「――いない……」
岬からやや遅れて路地を折れたところで、睦月は足を止めた。
ビルの間の暗く細い路地には人が隠れるような隙間もなく、向こう側の光がぽっかりと四角く開いている。
そこに求める人影はなく、先に到着した岬の背中が軽く上下しているのみだった。
「萩原」
心なしか青ざめた表情で振り返り、岬が呼吸を整えながらこちらに寄って来る。
「あいつ、消えたぞ」
「うん、逃げられちゃったね」
睦月の返事に、「そうじゃない」と岬は首を振る。
「文字通り消えたんだ。俺の目の前で。すうっと、ビルの影に溶け込むみたいに」
「?」
睦月が訝しげに首を傾げると、彼は硬い表情のまま続けた。
「自分でも馬鹿げたこと言ってると思うぜ。でも確かに消えたんだよ」
「岬、何言ってんの。そんなこと言って……」
「マジだって。おまえ怖がらせて何の意味があんだよ?」
取り合おうとしない睦月の様子に焦れたように、岬が語調を強める。
真剣なその表情はとても冗談には見えず、睦月は困惑した表情を浮かべる。
「だって、消えたって、そんなの……」
「俺だって信じらんねーよ。何だ、あれ。萩原、おまえ本当に心当たりないのか?」
「ないよ、そんなホラーみたいなの」
そう言って睦月は路地の奥に目を凝らした。
複数のビルの影が重なり合ってどこか淀んだ空気を醸し出しているとはいえ、至って普通の風景だ。
だがその光景に、その隅に凝 った他よりも一段濃い影に、今にも蠢きそうな禍々しさを感じて、睦月は気のせいだと頭を振った。
ふと視線を感じた気がして、睦月は足を止めた。
まだ早い時間のためか、住宅街を抜ける大学からの帰路には人影もまばらで、睦月の後ろには数人の学生達が歩いている他は、人影もない。
気のせいか、もしかしたらその中の誰かがぼんやりと自分の方を眺めていただけかもしれない。
「どうした?」
隣を歩く岬孝允が不思議そうに振り返った。
「何でもない。誰かに見られてる気がしたんだけど、気のせいだったみたい」
「あー、そりゃあれだ。やっぱ見舞客がストーカーだったんだな」
「もう。何でそうなるのさ」
再び歩き出しながら、睦月はそっと背後を窺った。
やはり学生が数人歩いているだけで、怪しい素振りひとつありはしない。
――やっぱり、気のせいか。
軽く頭を振り、気分を変えると睦月は岬を振り向いた。
「月城さんとはY駅で待ち合わせ?」
睦月の問いに、岬はおう、と頷いた。
「今日はあいつ講義ないから」
岬の彼女は国際学部の学生で、Y駅近くに部屋を借りて一人暮らしをしているらしい。睦月も何度か見かけたことがあるが、背が高く凛として、人を寄せ付けない雰囲気すらある美人だ。
「ようやく映画観に行く約束取り付けてさ」
「ようやくって、そんな大袈裟な」
「そういうけどな、この約束とりつけるのがどれ……っだけ大変だったか」
「……付き合ってるんだよね?」
拳を握って力説する友人の口調に、ふと不安を覚えて睦月は訊ねた。
件の彼女は、岬と話しているときには大抵怒っているという印象がある。
人よりも頭ひとつ抜けた長身のふたりが喧嘩まがいのやりとりをしている様は異様に人目を引くのだが、もしかして、二人きりの時でさえあの調子なのだろうか。
「んー、少なくとも俺はそのつもりだけど」
「岬は……って」
予想外の答えに返す言葉を失った睦月に、岬はばつが悪そうに視線を逸らすと、頭を掻いた。
「一応、あれでも高校の頃に比べたら大分丸くなったんだけどなぁ」
「え、高校時代からのつきあい?」
「ああ、高校三年間ずっと同じクラス」
そう言って、彼は大仰に溜息を吐く。
「で、ずっとあの調子」
「……大変だね」
思わず出た言葉に「ま、俺は別に気にならないしいいんだけどさ」と、岬は苦笑混じりに呟くと、
「そういう萩原はどうなんだよ? 噂の見舞客、ホントに元カノじゃねえの?」
人の悪い笑みを浮かべて話をぶり返した。
「違うって。僕、髪の長い女の子と付き合ったことないもん」
「髪なんて伸びるだろ」
「高校卒業してから自然消滅で連絡取ってないよ。
報道されたわけでもないのに、お見舞いなんて来るわけないじゃ……」
岬にそう返しながら、脳裏を過ぎった何かに睦月は言葉を止めた。
「うーん、そうか。誰なんだろうな?」
彼の様子に気付いていないらしい岬の言葉に生返事を返しながら、睦月はたった今脳裏を通り過ぎたイメージを掴もうと意識を集中した。
ぼんやりと、髪の長い娘の輪郭が浮かび上がってくる。
――髪の長い女の子。
顔までは思い出せない。
だが、確かに記憶がある。
どこかで会った。それも、つい最近の筈。
――どこで会った? どこで……
「おい、萩原」
「ん、何?」
岬の声に睦月は我に返った。
気付けば、いつの間にか住宅街を抜け、駅前の大通りに出ていた。
ちょうど事故に遭った辺りだ。
「あの子、知ってるか?」
「誰のこと?」
睦月の反問に、岬は視線で通りの向こう側を示した。
つられてそちらに視線を向けようとした、その矢先。
まさにその方角から灼けつくような視線を感じ、睦月は動きを止めた。
顔はそのままに、ゆっくりと目だけを動かす。
車の行き交う大通りの反対側、まばらな通行人の間に一人、立ち止まっている人影が見える。
「あの、銀髪……っぽい感じの女の子?」
白のサマーニットに花柄のロングスカートを履いた銀髪(プラチナブロンド)の少女がこちらを向いて立っている。
視界の隅で捉えているせいではっきりとは見えないが、年の頃は十五歳くらいだろうか。
目深に被った麦わら帽子の下からじっとこちらを見つめる気配に、ぞわりと背筋が粟立つのを感じる。
「……あれじゃないのか? 見舞客」
囁いた睦月に、同じく顔は正面に向けたまま小声で岬が返した。
交差点の信号が点滅し、赤に変わった。
「大分年下っぽいけど……? それに彼女、日本人じゃないよ」
髪が長く小柄である点だけは確かに母の目撃証言と一致するが、外国人らしいその少女に見覚えはない。
――本当に?
見覚えはない、と思った瞬間、脳裏にそんな声が響く。
だが、睦月はそれを気のせいだと振り切った。
「さっきからずっとおまえのことを見てる」
ちらりと視線を少女に向けながら、岬が囁く。
つられて、睦月も小声で返した。
「さっきって、いつから?」
「この通りに出てからだから、三分くらい前からか? 知り合いかそれともナンパかと思ったけど、そんな雰囲気でもないよな」
「うん。何だろ……」
「どうする?」
岬の問いに、睦月は目を上げた。ちらと友人と視線を交わし、頷く。
「本人に訊こう。信号が変わったら、走るよ」
「OK」
何気ない様子で信号が青に変わるのを待つと、二人はゆっくりと道を渡り出した。
件の少女は、未だ同じ場所に立ってこちらを見つめて――睨んで――いる。
通行人が道の真ん中に立ちつくした少女を避けるように歩いていく。
誰一人、彼女を振り返りもしないのが、やや奇妙と言えば奇妙な光景だった。
「――いくぞ。3、2」
道を渡り終えると同時に、岬が囁いた。
「1!」
岬の声を合図に、二人は同時にくるりと九十度方向を変え、走り出した。
「――――!」
その不意の動きに、少女が息を呑むのが見えた。
だが、立ち竦んだのはほんの一瞬で、少女はくるりと踵を返すと、帽子を押さえながら素早く人並みを抜け、走り出す。
「待って!」
睦月に構わず、少女は巧みに人々の間を抜けていく。
通行人が怪訝そうに睦月と岬を振り返る。
その隙に、少女は角を曲がり、姿を消した。
足の速い岬がそれを追っていく。
「――いない……」
岬からやや遅れて路地を折れたところで、睦月は足を止めた。
ビルの間の暗く細い路地には人が隠れるような隙間もなく、向こう側の光がぽっかりと四角く開いている。
そこに求める人影はなく、先に到着した岬の背中が軽く上下しているのみだった。
「萩原」
心なしか青ざめた表情で振り返り、岬が呼吸を整えながらこちらに寄って来る。
「あいつ、消えたぞ」
「うん、逃げられちゃったね」
睦月の返事に、「そうじゃない」と岬は首を振る。
「文字通り消えたんだ。俺の目の前で。すうっと、ビルの影に溶け込むみたいに」
「?」
睦月が訝しげに首を傾げると、彼は硬い表情のまま続けた。
「自分でも馬鹿げたこと言ってると思うぜ。でも確かに消えたんだよ」
「岬、何言ってんの。そんなこと言って……」
「マジだって。おまえ怖がらせて何の意味があんだよ?」
取り合おうとしない睦月の様子に焦れたように、岬が語調を強める。
真剣なその表情はとても冗談には見えず、睦月は困惑した表情を浮かべる。
「だって、消えたって、そんなの……」
「俺だって信じらんねーよ。何だ、あれ。萩原、おまえ本当に心当たりないのか?」
「ないよ、そんなホラーみたいなの」
そう言って睦月は路地の奥に目を凝らした。
複数のビルの影が重なり合ってどこか淀んだ空気を醸し出しているとはいえ、至って普通の風景だ。
だがその光景に、その隅に