第10章 目覚め

文字数 1,957文字

 『見つけた』と彼は呟いた。
 既に戦いは収束に向かっていたが、今なお興奮のおさまりきらぬ男たちの怒号が飛び交う戦場。
 囁きよりもまだ小さな彼の声を拾ったのか、今しも立ち去りかけていた男は足を止める。

 ほんの刹那。

 一瞬よりも短い間、ちらりと振り返った視界の隅。
 しかし確かに彼の姿を認め、男は何事もなかったかのように歩き出す。
「待て!」
 ようやく声の、手の届くところまで近づくことができた。
 この機を逃がすまいと、彼は走り出す。
 倒れた人々の身体を避け、振り下ろされる刃をかわしながら、全力で彼は駆ける。

 先を行く男の歩調は悠然として、纏う空気は静かですらある。
 黒いマントの裾が、彼を誘うように揺らめく。
 その足が、ふと止まった。

 その瞳に浮かぶのが明らかな狂気であったなら、彼はどんなにか安堵しただろう。
 しかし、久方ぶりに対峙した男の瞳には、紛れもなく知性の光が宿っていた。
 知的な面差し。口元に浮かべた微笑は以前よりも穏やかですらある。

 たかだか数歩の距離を、彼は詰め寄ることができずに足を止めた。
 男もまた、彼がそれ以上近づかないことを知っているかのようだった。
「久しいな」
 年を経て、壮年の域に達した男の声は低く、穏やかだった。
 何も言えずにいる彼に、男はふ、と魅力的とさえいえる微笑を浮かべた。
「また――いずれ」
 まるで何ということのない日々の挨拶のように、親しみを込めた口調でそう告げ、男は再び彼に背を向ける。
「セ……」
 ようやく絞り出した声は掠れて言葉にならず、しかし男は半身を翻しかけた姿勢で動きを止め、彼を見る。
「また会おう、バルド――俺を追ってくるんだろう?」
 己の言葉を何ら疑っていない口調で言った男は、今度こそ完全に背を向け、再び悠然と歩き出した。
「セルノ……!」
 背後から狙われる不安など微塵も抱いていない、確固たる足取りで遠ざかっていく後ろ姿を眺めて呟いた、その声はもはや男には届いていなかった。

 *

 目が覚めても、睦月はなかなか動けずにいた。
 ぼんやりと、天井を眺める。

 夢を見た。
 いつものそれとは場面も内容も違う。彼を「バルド」と呼ぶあの男も、いつもより少し若いようだった。
「けど……」

 ただの夢と片づけてしまってよいのだろうか。

 そんな思いが過ぎるのは、昨夜見たもうひとつの「夢」のせいだ。
「バルド、か……」
 呟き、彼はゆっくりと右手を翳した。指の隙間から朝の陽光が零れ落ちる。
「――――?」
 コト、と何か小さなものが布団の上に落ちた気がして、彼はそっと身を起こした。

 掛け布団の上に、白く小さな珠が落ちていた。

 ビー玉くらいの大きさの珠の内部には、屈折した光が白く揺らめいている。
 それはまるで、窓から射し込む日の光を内部に取り込んでいるかのように見えた。
「これ……?」
 見たことがあるような感覚と、どこから落ちたのかという素朴な疑問とに突き動かされ、そろそろと伸ばした指先が珠に触れる。

 その瞬間、珠はぽう……と白い光を発した。
 同時に、ぴりり、と電流の流れるような刺激が睦月の身体を突き抜ける。

「あ――――」
 その瞬間、スライドショーのように脳裏を様々な光景が通り過ぎた。

「思い出した……」

 あのとき――倒れた時に起きたことの全てを、何もかも。
 3つの世界、そして――セルノとバルド。自分の奥にいるらしい、もう一人(前世)の自分。
 未だ呆然としたままに拾い上げた珠を手中に握り込むと、それは白く光りながら、睦月の身体に沈み込むようにして消えた。

 *

「睦月の事、どうするの?」
 友香の声に、アレクは書類から目をあげた。
「今回は何とかなったけど……、向こうがああいう手を使ってくるなら、悠長に構えているわけにはいかないでしょ」
「ああ、解ってる。だがな……」
 アレクは溜息を吐く。
「積極的に保護するとして、どう説明する?」
「う、それは――そうなんだけど」
 今の睦月には、ひと月前の――精界に迷い込んだ時の記憶がない。その状態の彼に状況を話したところで、変人扱いされるのが関の山だろう。
「今回のことで、敵は手の内をさらしたことになる。しかもバルドがいる限り『胤』とやらも無力化できることが分かったんだ。多少の時間の猶予はあるだろう」
「でも――」
「俺も、長引かせるつもりはない。睦月が危険なことに違いはないからな。だが、睦月を受け入れるためには、こちらも条件を整える必要がある」
「条件?」
「他の連中にも話を通しておく必要があるだろ?」
「ああ……そうよね」
「サイードは烈火のごとく怒るだろうな」
「……うわあ考えたくない」
 顔をしかめた友香に笑いを漏らし、アレクは肩を竦める。
「近いうちに長官会議の議題に乗せる。それまではこれまで通り、警護を頼む」
 そう言ったアレクに、友香は静かに頷いた。
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