第9章 光

文字数 2,983文字

 幼い子どもの泣く声が聞こえる。

 ――お父さん……お母さん……

 すすり泣きの間に、呟く声。
 その肩に置かれた、温かな手。

 ――これからは私がおまえの親になってやろう

 その言葉は、先行きを失った少女にとって、たったひとつの希望だった。


「………………」
 うっすらと、リンは目を開いた。灰色の天井が目に映る。

 ――今更、どうしてこんな夢を

 両親を亡くした時、たった一人手を差し伸べてくれたのが、あの人だった。
「おまえの声は鈴のようだ」と言って、「鈴」という字をリンにくれた。
 あの人からのたったひとつの贈り物。
 それは、今よりもさらに幼かった少女に、たったひとつの生きる理由を与えてくれた。

 それなのに。

 ――どうして、こんな風になってしまったんだろう

「さ、が……さま……」
 眠っている間に流したらしい涙を拭いながら、リンは身体を起こそうとした。
「…………?」

 身体が動かない。
 身体に力が入らない。
 予想もしていなかった事態に、思考が混乱する。
 なぜ動けないのか、理解できない。

「――まだ動けないと思うよ。無理はしない方がいい」
 突然聞こえた男の声に、リンははっと声のした方向に頭を向けた。
 窓の傍に置かれた椅子に、見知らぬ男が一人、腰をかけている。
 蜂蜜のような色の髪。長めの毛先を後頭部でひとつに括った優男は、彼女の視線を受けてゆったりと微笑んだ。
「……誰だ」
「ハリー・オコーネル。ハルでいいよ」
 警戒心も露わなリンに、人好きのする微笑で応えて男が立ち上がる。
 カーテンを引いた窓から差し込む柔らかな光が、今が昼間だと示している。
 先程は気付かなかったが、灰色の石造りの天井も、彼女には見覚えのない景色だった。
「……ここは」
「――監察。そう言えば分かる?」

 ――そうか、私は……

 男の言葉に、最後の記憶が呼び覚まされた。
 捕まったのだと考えて、リンはゆっくりと訝しげに眉を寄せた。

 夜の人界、公安長との対峙はあっという間に決着が付いた。
 そこまでは、はっきりと覚えている。

 だが、そこから先の記憶は不鮮明だ。
 いつの間にこんな場所に収容されたのだろう。

 ぴくりとも動かない身体に、苛立ちを覚え、リンは男を睨み返す。一体、何の術を用いて、自分の体の動きを封じているのか。
「具合はどう? 気分が悪かったりはしないかい?」
 険を含んだ少女の視線に苦笑を浮かべて、ハリーは立ち上がった。
 少女は、敵意を示すことができる程度には気力が回復しているらしい。だが、あれほどまでに精神力を搾り取られていたことを考えれば、まだ安心はできない。
「……何の術を使った」
 刺々しいその声が形作る問いに、ハリーはきょとんと首を傾げる。
「術? 何もしてないけど?」
「嘘を吐くな。何もしていないなら、なぜ――」

 険しい表情を浮かべた目元に更に険をのせ、言い募りかけたリンの言葉が不意に途切れた。

「お嬢さん?」
 不意に息をのみ、明らかに表情の強張った少女の様子に、訝しげな表情でハリーが少女に近づく。

「――――!」

 カーテンを引いた窓辺からの逆光を受けて、表情が見えなくなったハリーの姿に、記憶に新しい別の男の姿が重なって見える。

 『おれの邪魔をされては困る』
 そう言いながら近づき、嫌がる彼女に何かを埋め込んだ男。

 『今夜、必ずだ』
 あの時の恐怖が、一瞬にして脳裏を支配する。

 声にならない悲鳴が、のどの奥で乾いた音を立てた。

「……リンちゃん?」
 リンの唐突な変化に、ハリーは訝しげな表情を浮かべて立ち止まる。
「いやだ……来るな」

 自分が今、どうしてどこにいるのか。
 そんなことすら一瞬で忘却し、リンはただ小刻みに首を振る。
 もはや、彼女の目には冷ややかな微笑を浮かべて近づいてくる紫月の姿しか見えていなかった。

 ――ああ、そうだ

 不意に、昨夜、何かに身体を浸食された記憶が蘇る。
 身体の内で目覚めたおぞましい何かに、抵抗する間もなく意識を剥ぎ取られた。その感覚がリアルに蘇り、ぞわりと全身の毛穴が一気に逆立った。

「来るな……っ!」
「――!」
 絞り出すような、悲痛なその声に、ハリーはぴたりと動きを止めた。
 口の中で小さく「まずいな」と呟く。
 少女の急激な変化には覚えがある――昔の友香とよく似ているのだ。あの事件の直後の友香も、同じようにわずかな刺激で豹変しては泣き叫んでいた。
 目の前の少女もおそらく同じだ。彼の言動の何かをきっかけに、不意に蘇ったなにがしかの恐怖が彼女の心の傷を抉っているのだろう。
「……」
 どうしたものか、と動きを止めたままハリーは考える。
 相手が友香ならば、こんな時にどう対処すればよいか、何をしてはいけないかもよくわかっている。
 だがこの少女にとっての地雷が何なのか――初対面のハリーにはわからない。だから、下手に動くことができない。
 ひとつだけわかるのは――今、自分が不用意に彼女に近づいてはいけないということだ。

 ならば。
「――ちょっと眩しくなるよ、ごめんね」
 軽く言い置いてさっとカーテンを開くと、ハリーは開いたままの窓枠に軽く腰掛け、外へと上半身を乗り出した。片手で窓の桟を掴んだまま、隣の窓に向けて思い切り大声を発する。
「友香ちゃぁーーん! じゃないや、公安長――っ! リンちゃん起きたよー! ちょっと来てくれるー!?」
「!?」
 あまりに唐突なその行動に意表を突かれ、リンは唖然と相手――の、足――しか見えない――を眺めた。
 やがて、廊下から足音が聞こえたかと思うと、軽いノックの音の後、扉が開く。
「リン、起きたの? 具合はどう?」
 そう言いながら友香が顔を出す。その顔を見た途端、リンの表情に険しさが戻った。
「貴様! 私の身体に何をした!?」
「え、何もしてないけど」
「嘘を吐け! ならどうして体が動かない!?」
「――それは、あなたの精神力も体力も、根こそぎ搾り取られていたからですよ」
 静かな声が、友香の後ろから室内に入ってくる。
「体が動かないのは、あなたが疲れて消耗しているせいです。しばらく休めば、元に戻りますよ」
 淡い褐色の肌をした黒髪の女が告げる。静かな声に毒気を抜かれて、リンはぱちぱちと目をしばたたいた。
「疲れている……せい?」
「ええ。先ほど治療を施しましたから、そのうち回復してくるでしょう。ですが、しばらくは安静になさってくださいね」
 ふふ、と小さく笑みながら、女が言う。
「動けるようになっても、しばらくは消耗が激しいでしょう。この薬は回復を早める効果がありますから、毎食後に必ず飲んでくださいね」

「……」
 リンの意識が医療長の方に向いたのを確かめ、ハリーは静かに室内を横断して戸口に向かった。
「――何かあったのか?」
 戸口のところで中をうかがっていたロンが囁く。
「ん、ちょっとね。怖がらせちゃったかな」
「あー……なるほど」
 苦笑交じりの相棒の表情から何かを読み取ったらしいロンが嘆息する。
「まー敵陣で知らない男と二人きりじゃあ怖いよね、そりゃあ」
「まあな」
 そう言うと、ロンは視線をくいっと廊下に向ける。
「とりあえず、この場はあの二人に任せときゃ大丈夫だろ。行くぞ。指揮官が、話があるってさ」
「そうだね。診察も始まりそうだし、男は退散しますか」
 部屋を出る直前、一瞬こちらを振り返った友香にひらりと手を振って、ハリーはパタンと戸を閉めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み