3.変事①

文字数 2,988文字

 繁華街の裏手、人気のない路地を萩原睦月は走っていた。
「――あー、もう!」
 背後を気にしながら、睦月は入り組んだ路地を右に左に折れる。
 その足が、不意に止まった。
 前方に広がっていた建物の影がグンと盛り上がり、そこから溶け出すように人影が現れる。
「逃げても、ムダ」
 現れた男が、ニイ、と不気味な笑みを口元に刻む。人界の言語に慣れていないのか、言葉が少したどたどしい。
「……仕方ないなあ」
 手首のバングルに軽く指先を触れながら、睦月は軽く腰を落とす。
 次の瞬間、風を切る音とともに、男の爪が伸びた。
「――!」
 間一髪でそれを避け、睦月はさっと簡易結界を展開する。
 パンッという音とともに、鋭利な爪の先が削られ、男が苦々しげに睦月を睨む。
「何でオマエが結界なんか張れるンダ!?」
「君みたいな連中が来るからだろ!」
 続けざまに繰り出される爪を避け、二度三度と繰り返し結界を張りながら、睦月は後ずさる。
「いさぎよくシネよ!」
「嫌だってば!」
 大きく後ろに飛ぶと、睦月は意識を集中させた。

 ざわざわと。
 胸の辺りに熱が集まる感覚。
 体中の血液が沸騰するような熱感と共に、ほんの一瞬、意識が白濁する。

「――っ!」
 間合いを詰め、男が右手を繰り出したその瞬間、睦月の胸の辺りから白い光が迸った。

「――…………」
 はあはあと荒い息を吐きながら、睦月は辺りを見回した。
「あー……、疲れた」
 すぐ側の建物に凭れて呟くと、彼は腕のバングルを見下ろして小さくガッツポーズをする。
「やったね」
 夏休みが終わり、人界に戻って早2か月余り。
 ひと月ほど前から「闇の者」から襲撃される機会が増えてきた睦月だが、まだ自分の力を十分にコントロールするには至っていない。
 5回の襲撃を受けたとして、自力で解決できるのは1回あるかどうか。それ以外は、彼の体内に同化した「命の灯」が勝手に彼を精界に転送してしまうか、公安部の助っ人に助けられるかだ。「自分の身を守るため」と、休みをつぶして「ランブル」での特訓に励んだ睦月としては、若干忸怩たるものを感じずにはいられない。
 もっとも、アレク・ランブルや中山友香に言わせれば、かなりましな方――らしいが。
 そんなわけで、珍しく自力で危機を回避できたことに気分をよくした睦月は、軽い足取りで表通りに出た。深夜というほどの時間帯ではないが、夜の繁華街はそれなりに賑わっている。その中を、睦月は駅を目指して進む。

 その時だった。
 バタバタッという足音とともに、背後から若者たちが駆けてくる。
「……?」
 睦月の眉が不審げに寄せられた。
 道行く人々を掻き分ける青年たちは、一様に何かに追われるように背後を気にしながら、一心不乱に走り抜ける――いや、逃げているように見える。
 その無言のパニックは、どうやら周囲の通行人にも伝染したらしい。
 人々が静かに、だが確実に、青年たちの向かう方向へと進み出す。程なく、バラバラだった人の流れが一方通行へと集約される。

「……」

 おかしい。

 誰一人、はっきりと何かが起きたと口にしたわけではない。事件でもあったのだろうかと囁きあうことすらない。ただ全員が、本能に導かれるかのようにひとつの方向を――より明るい駅前の方角を――目指して進んでいく。
 その光景は、野生動物が地震や災害の直前に群をなして逃げていく様を彷彿とさせた。

「――」

 何かある。

 ごくりと唾を飲み、睦月は人々の進行方向とは逆の方角を振り返った。

 *

 22時。
 ネオンの灯りが明々と照らし出す街の片隅に、その一団はいた。
 人通りの多いメインストリートから一本奥に入った細い裏路地、しかも十数メートルで行き止まりになる道だ。路地に面した唯一の雑居ビル前には、地下で営業しているバーの看板がひとつ、控えめに光っている。
「何かさー、トオル最近やたら元気じゃね?」
 そう言ったのは、まだ10代とおぼしき少女だった。路肩の縁石に腰を下ろし、ホットパンツから伸びる細い足を投げ出した少女の声に、林田亮介は煙草に火を付けながら振り返った。ユイといって、半年ほど前から、このたまり場の常連になった娘だ。
 既に10月も末、夜はかなり冷え込む日も増えてきた。今だって、吐く息がうっすらと白く見える程度には気温が低いはずだが、あんなに足を出していて寒くないのだろうかとぼんやりと思う。
「あ、あたしも思った!みょーに顔色いいよね」
 隣にいた別の少女が大仰な身振りで頷く。こちらはメグといったか、たまに見る顔だが常連ではない。
「そう?」
 彼女達の言葉に首を傾げたトオルの顔を亮介はぼんやりと眺めた。いわれてみれば、いつもよりも元気そうに見えなくもない。
「こないだまで、ちょっと歩いただけでスグ『疲れたー』とか言ってたクセにさー」
「もしか、いきなり健康に目覚めたとか?」
 脱色した髪を念入りにセットした男の言葉に、ユイが素早く反応する。
「あはは、ありえないー!」
「大体、この時間に遊んでんのがフケンコーだっつーの、なあ?」
 そう言って、みながどっと湧いたその時、ビルの地下から中年の男が一人顔を出した。
「こら、ガキんちょ達。毎晩毎晩こんなトコでだべってないで、さっさと帰って寝なさいよ。じゃなかったらうちの店にお金落としてって頂戴」
 ビルの地下で営業しているバーのマスターだ。
 無造作に整えた髪と無精ひげ。一見山男風の風貌だが、口を開けばオネエ言葉が飛び出す一風変わった人物だ。この場所を憩いの場にしている亮介達よりもかなり年上の筈だが、大人風を吹かせることもなく細やかな気遣いをしてくれる「珍しい大人」だ。
「うわ、大人の横暴ー」
「うるさいわね。あんたたちがこんなトコでクダまいてるから、ぜんっぜんお客さんも来ないじゃないの」
「それってー、あたしらのせいじゃなくね?」
 数年前までは、この人目に付かない立地が「隠れ家的」だともてはやされたものだ。だがブームの終息とともに、テナントがひとつ減りふたつ減り、今やこの路地で営業を続けているのは彼の店だけだ。
「とか言って、店ほっぽってドコ行くんだよ」
 のっそりと店から出て路地の出口へと向かうマスターに、誰かが声をかける。
「ちょっとね、煙草買ってくるわ。店番してて頂戴」
「そんなのしなくたって、どうせ客来ないじゃーん」
「お客が来なくたって、空き巣は来るかもしれないでしょ」
 話すと唇に挟んだ煙草が揺れて、微かに灰が飛ぶ。
「空き巣だって来ねーって」
 そう言い返して、また笑いが起きた。
 階段の上から覗き込んだ店のドアは、半開きのままだった。空き巣が来ないように店番をしろと言うくせに、店の前に毎夜溜まっている素行の悪い「ガキ共」が店を荒らすとは思わないらしい。
 そんな風に、当たり前の信頼を向けてもらえるのは、悪い気分ではない。
「いーから、留守番しててよね」
 そう言って、歩き出そうとしたマスターの視線が、ふとトオルの上で止まった。
「ちょっとトオル、あんた――」
「え?」
 不意に名指しされたトオルは、きょとんとした表情でマスターを見遣る。その視線を受け止め、トオルの顔をマジマジと眺めた。マスターの唇が何か言いたげに開き、また閉じる。
「……いや、何でもないわ」
 結局、それ以上何も言うことなく、路地の出口へと歩み去るマスターの背中を眺め、トオルは不思議そうに首を傾げた。
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