第5章 蠢動②
文字数 2,419文字
「……リン、だったわよね」
「――――!」
その声にはっと顔を上げ、リンは振り向いた。
屋内の気配を探ることに精一杯で、近づいてくる敵の気配にすら気付くことができなかったとは。
じり、と一歩後ずさりながら、彼女は唇を噛む。
「おまえ……この間の」
「覚えててくれた?」
対峙した少女の顔を見やり、友香は不審げに眉を顰めた。
「……顔、どうしたの?」
すでに消えかけててはいるが、少女の白い頬に、以前には見られなかった痣がある。
今でこそ薄らいではいるが、当初は相当腫れたに違いない。
「……殴られたの?」
「おまえには関係のないことだ!」
不機嫌な声音ながら、きつくなりきれないその語調に、友香は自分の憶測が正しいことを知る。
「……大ありだわ。私たちが邪魔をしたからでしょう?」
「――うるさい、黙れ!」
きっと眦を喫して睨み付ける少女の視線を、友香は黙って受け止めた。
ぴりぴりとした沈黙が流れる。
先に視線を逸らしたのはリンの方だった。
「……わかっているなら……、これ以上私の邪魔をするな」
その言葉に友香は静かに目を伏せる。
「……ごめんね。あなたの目的が睦月なら、その頼みは聞けない」
肩を竦め、静かに首を振って、友香は力無く微笑した。
「正直、あなたみたいな子とはやりあいたくないんだけど……仕事だから」
「ならば――排除する」
言うが早いか、ナイフを翳して飛び込んできたリンの小さな身体を半身でかわすと、友香は相手の背後に素早く回り込んだ。
はっとした様子で振り返るリンの、ナイフを握った手首を掴んで捻りあげる。
白く細い指先からナイフがこぼれ落ちた。
――カァー……ン
金属が屋根に当たる高い音が、深夜の住宅街に思いの外大きく響き渡る。
ほんの一瞬、落ちていくナイフに少女が気を取られた隙に、友香は右掌に意識を集中させて薄緑の光の玉を結んだ。
「――!」
その動きに気付き、慌てて身を捩るリンの腕を左手で掴み引き寄せ、友香は素早く光球を足下に落とした。
それは少女の足下でグンと広がると、その足を縫い止める。
「……あんまり暴れるとご近所迷惑だからね」
「貴様……」
あまりにも容易に動きを封じられたことに、リンは歯噛みして友香を睨め付けた。
力も、経験も。
その差はあまりに歴然としていた。
「……大人しくして。余計な危害は加えたくないの」
ゆっくりと諭すように言うと、友香はリンを見つめ溜息を吐く。
「その手も。この間、バルドの光に当たったところよね。そんなになって――治療を受けていないのね?」
「……」
悲しげな声でそう問われ、リンは右手を隠すように背後に回した。敵に同情されるなんて、惨めな思いはしたくない。
「あなたみたいな――まだ若い子が、どうして?」
武官としては極めて小柄な自分よりも、目の前の少女の体は小さく細い。
腕の細さひとつをとってみても、ろくな戦闘訓練すら受けていないことが判る、戦闘に向いているとも思えない少女がなぜ、このような役割を与えられているのか。
しかも――仲間から暴力を受けてまで。
「こんな痣ができるほど殴られて。
……この様子じゃ、伝言なんて出来なかったでしょう?」
「――触るな!」
頬の痣に触れようと伸ばされた指先に、反射的にリンは叫んだ。
「……ごめんなさい」
触れる手前でぴたりと止まった指先と小さな謝罪の言葉に、居心地の悪さを覚えたリンは目を逸らす。
「……おまえ達の戯れ言など、告げる価値もなかったから告げなかった。それだけだ」
目を逸らした少女の声は、それが強がりであることを容易に想像させた。
小さく、友香が溜息を吐く。
「……そう。それでも別にいいわ。
……暴れないでね。危ないから」
言いながら、友香は再び手元に光を生み出した。
小さく呪を唱えながらそれを指先で散らし、敵を捕らえるための結界を結ぶのだ。
その光を食い入るように見つめながら、リンは口を開いた。
「私を捕らえて、どうする」
隙をつくろうとしたわけではない、といえば嘘になる。
だが、期待もしていなかった。
これだけ実践慣れした相手が、容易に隙を作るはずもないことくらい、リンにもわかる。
事実、友香は眉一つ動かすことなく、呪の合間に答えた。
「知ってるでしょう?訊きたいことがあるの」
「言わぬと……言った筈だ」
リンの言葉に、友香は笑う。
「そうね。無理強いをするつもりはないわ」
薄緑色の光が友香の指先を包む。
その光の余波だろうか、不意に寒気を覚えて、リンは唇を噛んだ。
気持ちが悪い。
今から、その光に捕らえられるのだ。
――しかし、その悪寒が強まると同時に、リンは小さく目を見開いた。
……外ではない。
この違和感は自分の体内で膨らんでいるものだ。
会話を止め、口の中で小さく結界を結ぶための呪を唱えつつ意識を集中させていた友香も、ほぼ同時に異変に気付いた。
「リン? どうかした?」
「…………」
先程まで何の異常もなかった筈の少女の様子がおかしい。
土気色になった額には脂汗が浮き、苦しげに肩で息をしている。
「――! リン!?」
「さ……わる、な」
詠唱を中断し、俯いた顔を覗き込むように近づいた友香の手を払い除け、苦しい息の下からリンは彼女を睨み付けた。
今や、寒気などというレベルではない、何か異物に体を浸食される感覚に、怖気が走る。
この感覚には覚えがある。
遠ざかる意識の中で、リンはその正体に思い至った。
『その時になれば、わかるよ』
男の声が脳裏によみがえる。
「あの、男……なに、を……」
それは、紫月と名乗る男に触れられたときと同じ感覚だった。
そういえばあの時確かに、体内に何かを入れられたと感じたことを、リンは鮮明に覚えていた。
「何をされたの? 誰に?」
結び掛けていた結界を解き、友香が肩を掴んでいる。
だが、その声に応える余裕は既にない。
「…………っ!」
苦しげに呻きながら身を折った少女の身体を、友香は受け止めた。
「――――!」
その声にはっと顔を上げ、リンは振り向いた。
屋内の気配を探ることに精一杯で、近づいてくる敵の気配にすら気付くことができなかったとは。
じり、と一歩後ずさりながら、彼女は唇を噛む。
「おまえ……この間の」
「覚えててくれた?」
対峙した少女の顔を見やり、友香は不審げに眉を顰めた。
「……顔、どうしたの?」
すでに消えかけててはいるが、少女の白い頬に、以前には見られなかった痣がある。
今でこそ薄らいではいるが、当初は相当腫れたに違いない。
「……殴られたの?」
「おまえには関係のないことだ!」
不機嫌な声音ながら、きつくなりきれないその語調に、友香は自分の憶測が正しいことを知る。
「……大ありだわ。私たちが邪魔をしたからでしょう?」
「――うるさい、黙れ!」
きっと眦を喫して睨み付ける少女の視線を、友香は黙って受け止めた。
ぴりぴりとした沈黙が流れる。
先に視線を逸らしたのはリンの方だった。
「……わかっているなら……、これ以上私の邪魔をするな」
その言葉に友香は静かに目を伏せる。
「……ごめんね。あなたの目的が睦月なら、その頼みは聞けない」
肩を竦め、静かに首を振って、友香は力無く微笑した。
「正直、あなたみたいな子とはやりあいたくないんだけど……仕事だから」
「ならば――排除する」
言うが早いか、ナイフを翳して飛び込んできたリンの小さな身体を半身でかわすと、友香は相手の背後に素早く回り込んだ。
はっとした様子で振り返るリンの、ナイフを握った手首を掴んで捻りあげる。
白く細い指先からナイフがこぼれ落ちた。
――カァー……ン
金属が屋根に当たる高い音が、深夜の住宅街に思いの外大きく響き渡る。
ほんの一瞬、落ちていくナイフに少女が気を取られた隙に、友香は右掌に意識を集中させて薄緑の光の玉を結んだ。
「――!」
その動きに気付き、慌てて身を捩るリンの腕を左手で掴み引き寄せ、友香は素早く光球を足下に落とした。
それは少女の足下でグンと広がると、その足を縫い止める。
「……あんまり暴れるとご近所迷惑だからね」
「貴様……」
あまりにも容易に動きを封じられたことに、リンは歯噛みして友香を睨め付けた。
力も、経験も。
その差はあまりに歴然としていた。
「……大人しくして。余計な危害は加えたくないの」
ゆっくりと諭すように言うと、友香はリンを見つめ溜息を吐く。
「その手も。この間、バルドの光に当たったところよね。そんなになって――治療を受けていないのね?」
「……」
悲しげな声でそう問われ、リンは右手を隠すように背後に回した。敵に同情されるなんて、惨めな思いはしたくない。
「あなたみたいな――まだ若い子が、どうして?」
武官としては極めて小柄な自分よりも、目の前の少女の体は小さく細い。
腕の細さひとつをとってみても、ろくな戦闘訓練すら受けていないことが判る、戦闘に向いているとも思えない少女がなぜ、このような役割を与えられているのか。
しかも――仲間から暴力を受けてまで。
「こんな痣ができるほど殴られて。
……この様子じゃ、伝言なんて出来なかったでしょう?」
「――触るな!」
頬の痣に触れようと伸ばされた指先に、反射的にリンは叫んだ。
「……ごめんなさい」
触れる手前でぴたりと止まった指先と小さな謝罪の言葉に、居心地の悪さを覚えたリンは目を逸らす。
「……おまえ達の戯れ言など、告げる価値もなかったから告げなかった。それだけだ」
目を逸らした少女の声は、それが強がりであることを容易に想像させた。
小さく、友香が溜息を吐く。
「……そう。それでも別にいいわ。
……暴れないでね。危ないから」
言いながら、友香は再び手元に光を生み出した。
小さく呪を唱えながらそれを指先で散らし、敵を捕らえるための結界を結ぶのだ。
その光を食い入るように見つめながら、リンは口を開いた。
「私を捕らえて、どうする」
隙をつくろうとしたわけではない、といえば嘘になる。
だが、期待もしていなかった。
これだけ実践慣れした相手が、容易に隙を作るはずもないことくらい、リンにもわかる。
事実、友香は眉一つ動かすことなく、呪の合間に答えた。
「知ってるでしょう?訊きたいことがあるの」
「言わぬと……言った筈だ」
リンの言葉に、友香は笑う。
「そうね。無理強いをするつもりはないわ」
薄緑色の光が友香の指先を包む。
その光の余波だろうか、不意に寒気を覚えて、リンは唇を噛んだ。
気持ちが悪い。
今から、その光に捕らえられるのだ。
――しかし、その悪寒が強まると同時に、リンは小さく目を見開いた。
……外ではない。
この違和感は自分の体内で膨らんでいるものだ。
会話を止め、口の中で小さく結界を結ぶための呪を唱えつつ意識を集中させていた友香も、ほぼ同時に異変に気付いた。
「リン? どうかした?」
「…………」
先程まで何の異常もなかった筈の少女の様子がおかしい。
土気色になった額には脂汗が浮き、苦しげに肩で息をしている。
「――! リン!?」
「さ……わる、な」
詠唱を中断し、俯いた顔を覗き込むように近づいた友香の手を払い除け、苦しい息の下からリンは彼女を睨み付けた。
今や、寒気などというレベルではない、何か異物に体を浸食される感覚に、怖気が走る。
この感覚には覚えがある。
遠ざかる意識の中で、リンはその正体に思い至った。
『その時になれば、わかるよ』
男の声が脳裏によみがえる。
「あの、男……なに、を……」
それは、紫月と名乗る男に触れられたときと同じ感覚だった。
そういえばあの時確かに、体内に何かを入れられたと感じたことを、リンは鮮明に覚えていた。
「何をされたの? 誰に?」
結び掛けていた結界を解き、友香が肩を掴んでいる。
だが、その声に応える余裕は既にない。
「…………っ!」
苦しげに呻きながら身を折った少女の身体を、友香は受け止めた。