第6章 闇

文字数 3,899文字

「はい。それでは確認をお願いします」
 司令部と情報部への通話を終えると、京平は相棒を振り返った。
「どうだ?」
「あれから動きはないみたいやけど」
 先程不審な気配のした方向を探り続けていた直人は、ふう、と息を吐いて上官の方に視線を流す。
「あっちは問題なさそうやね」
「だな」
 視線の先では中山友香が結界を結ぼうとしているところだった。
 あまりにも容易に片づきすぎて拍子抜けの感すらあるほどだ。
 不謹慎と知りつつ、直人がふとそんな感想を抱いた瞬間、友香は突然、呪の詠唱を止めた。
「……ん?」
 何事かとふたりが目を眇めるのと、「闇の者」の少女ががくりと身を折るのがほぼ同時だった。
「友香さん!?」
「直人、手を貸して!京平は睦月の保護を!」
 咄嗟に駆け寄った二人に、友香は手早く指示を出す。
 京平は屋内に結界を張るためさっと踵を返し、直人は上司の脇に来て少女を支える。
「どうしたんです?」
「わからない。とりあえず、連れて帰って医者に見せるしかないわね。
 いや……危なそうだし、医者を呼んだ方がいいか」

 二人に抱きかかえられた少女は、ほとんど意識を失っているように見えた。
 時折、呻き声が漏れる。血の気の引いた顔色は紙のように白い。

「――え?」
 少女の様子を見ていた直人が、不意に緊迫した声をあげた。
 同時に、友香もまた叫んでいた。
「……直人、退いて!」
 叱責するような上司の声が飛ぶのとほぼ同時に、直人はぱっと少女から手を離した。

 なおも呻き続けるリンの眉間から、黒い影が湧き出している。
 最初は薄煙のように淡く立ち上ったそれは、とろりと周囲に広がりながら、濃度を高め闇へと進化する。

「一体、何なの……?」
 リンの片腕を掴んで屋根との激突だけは防いだ友香は、さっと簡易結界を少女の周りに張り巡らせながら呟いた。

 少女の眉間から文字通り湧き出す闇は衰えるどころか勢いを増し、瞬く間に彼女の全身を繭のように包みこんだ。
 その小さな身体の何倍にも膨張しながら、闇は一層その濃度を高め、手を打つ余裕すら持てぬ程の短時間に、「光の者」である友香たちには容易に触ることができない程の闇が精製された。

 真っ黒な――――まるでコールタールの塊だ。
 触れればおそらく、そこから融かされる。
 一度結界を解いてしまったのは失策だった、という考えが脳裏を過ぎる。

「こんなに濃い闇、見たことない……」
 濃密な闇は、今や少女を包んだ繭上の塊から蒸気のように沸き立ち、友香の張った簡易結界の内側を闇に染めはじめている。

 このままでは、突破されるのも時間の問題だ。そうなれば、この辺り一帯が闇の気に覆われる。
 自分たちも無事ではすまないかもしれない。

 ――それなら、被害は少ない方がいい。

 これから起こりうる事態をいくつか想定し、友香は傍らの部下に声を掛けた。
「……直人。悪いけど、ひとっ走り戻って、指揮官を連れて来てくれる?」
 簡易結界を覆う形で強い結界を張る。
 走しながら、彼女は厳しい声で部下に指示を出した。
「……それまでどうする気です?」
 上官の意図を察したのだろう、固い声で直人は訊ね返す。
「何とか周辺への被害を防いでみるわ」
 言いつつ、手早く張り終えた結界の上から、さらに複数の結界を重ねる。時間稼ぎにしかならないが、打開策を見つけるまでは必要な措置だ。
 少女から涌いた闇は、既にひとつめの簡易結界を侵しはじめていた。

 急がなければならない。
 ……鼬ごっこかもしれないにしろ。

「何とかなるもんとちゃいますよ、これ。俺達を逃がすつもりなら――」
 結界の中で膨らんでいく闇を見つめながら、直人が言う。
 膨らんでいく風船をシャボン玉で押し止めようとするようなものだ。どんなに上から重ねようと、内部の膨張が停まらない限り、いつかは限界がやってくる。
「いいから行きなさい。上官命令」
 部下に最後まで言わせず、有無を言わせぬ口調で友香はそう言った。
「京平にも声を掛けて、ターゲットも連れていって」
 上司の声に滲む決意の色に、直人は言い募ろうとした言葉を呑み込んだ。
「……はい」

 言い合いをしている場合ではない。その間にも、闇の浸食は速度を増していく。

 直人は渋々頷いた。
 それを横目で確認しながら、焦る内心を落ち着かせようと、友香はゆっくりと呼気を整える。

 闇は濃く、その動きは加速しつつある。少女の周囲をいくら止めても無意味かもしれない。

「仕方ない――か」
 友香は両の手を合わせた。祈るように両の指を組み、目を閉じた。
 闇の膨張を止められないのなら、せめて周囲に被害を及ぼさないため、空間を一時的に切り離す以外に手はない。
 空間に手を加えるのはかなりの大仕事だ。闇が結界を抜けるよりも早く仕事を終えねばならない現状では一層困難だが、そうとも言っていられまい。
「すぐ戻ります。それまで……」
 そう言って、相棒がいるはずのターゲットの部屋の方角へと踵を返しつつ、直人が後ろ髪を引かれる思いで今一度上官を振り返った、まさにその瞬間。
「――友香さん!!」
「…………っ!?」 
 臨界点を迎えたのだろう。
 唐突に爆発した闇が、その凄まじい内圧で、幾重にも重なった結界を一度に弾き飛ばした。

 その先には、無防備な上官の姿。

「……っ」
 ちっと舌打ちして、直人が飛ぶ。
 どちらかといえば防御はあまり得意ではないが、仕方ない。
 咄嗟に可能な限り強力な結界を結びながら、上官の腕を掴むと、闇から距離をとるように飛びすさる。
「友香さん、無事!?」
「……何とかね。ごめん」

 着地した先から振り返れば、夜の闇に活力を得た闇は、もくもくと巨大化しながら蠢いている。
 辺りはつい数分前に比べて、嘘のように暗くなっていた。目前で成長を続けるそれが、光を食い尽くしているかのようだ。

「参ったなぁ……」
「光の者」である自分たちにとって、あまりにも状況が悪すぎる。
 呟きながら、友香は闇に右手を翳した。

 フォォ……という微かな音とともに、その手が薄緑の光に包まれる。

「――汝、光を放つものよ。その手を広げ、闇を溶かせ……っ!」
 呪を唱えることによって最大限まで強めた光の弾を友香は放った。
 まっすぐに飛んだ光の玉はほんの僅か闇を溶かし、しかし次の瞬間には飲まれてしまう。
「……無駄、か」
 吐息のような小さな声で友香は呟いた。

 それだけの濃さを持った闇。自分たちにとっては毒の塊にも等しい。
 あれに触れれば、おそらく瞬時に、その部位が壊死するだろう。
 もしも周囲を囲まれたなら、もう――生きては帰れまい。
 せり上がる恐怖を押し留めながら見守る先で、不意に膨張が止まった。

 一瞬の、静けさ。
 張り詰めた空気がビリビリと神経を震わせる。

 ざわざわと、闇がざわめきだした。
 もはや、人型の片鱗すら見えない闇の繭が立ち上がる。
 その表面に、ゆらりと触手のような闇が――生えた。
 
 ひとつ、ふたつ、みっつ……

「――来る!」
 不意に、二人の方に狙いを定めて、触手が伸びた。
 間一髪避けた先に、次の触手が待ちかまえている。
「く……っ!」
 意志をもっているかのように的確に二人を狙うそれに少しでも触れられれば、一巻の終わりだ。八方に神経を張り巡らせ、次々に飛んでくるそれらを、すんでの所でかわす。だが、触手は確実に二人の背後に回り込み、逃げ場と視界を奪い始めていた。
「――このままじゃ……っ!」
 背後から迫る触手を交わしざま特大の光球を放つと、友香は部下に声を飛ばす。
「直人! ちょっとの間でいいわ、援護して」
「……了解!」
 背中あわせのまま上官の声に応え、直人は頭上に両手を掲げた。
「炎よ」
 彼の声に呼応するように、直人の手の中に炎が生まれる。
「闇夜を焦がせ……っ!」
 声と共に放たれた炎は二人の頭上でドーム型に広がり、周囲を明るく照らし出した。
 その熱を伴った光に、二人の周囲を取り囲んだ闇が僅かに溶かされ、後退する。

 直人が作りだしたその一瞬の静寂の中で、友香は静かに目を閉じ、意識を集中させた。
「――水よ」
 彼女の周囲の空気が揺れ、軽く広げた友香の両腕の間で空気中の水分が水へと変換される。
「穢れを流し、浄める水よ」
 ゆっくりと腕を広げてゆく彼女の動きに従うように、水は量を増し、渦巻きながら彼女の周囲に広がっていく。
 友香の両腕から生まれた薄緑の光が水の流れの中へと溶け込み、仄かに発光した水がふわりと広がった。

「――行け、闇を貫き浄化せよ!」

 友香の声に合わせ、直人が炎の結界を解除する。
 炎が消えると同時に二人に襲いかかろうとした闇に向かい、一挙に嵩を増した水は怒濤となって流れ込んだ。

 水の触れた部分から、闇はさらさらと砂のように崩れ去っていく。
 その流れは、二人に襲いかかっていた触手をあらかた消し去り――しかしそこで動きを止めた。
 
 圧倒的な質量と圧迫感を持った闇の本体が、そこにあった。

「…………まだ、こんなに?」
 夜を味方に付け、壁のように立ちはだかる闇の巨大さに、直人の声に焦りの色が滲む。
「削り浄めよ…………っ」
 息を詰め、水を操る友香の額にも、汗が浮かぶ。
 だが質量を増し続ける闇は、水の勢いの前にも微動だにしない。
 膠着状態の中、再び触手を伸ばそうと闇が蠢く。

「……友香さん! 直人!?」

 闇の外から、京平の声が聞こえたのは、その時だった。

「ターゲットが……っ!」
 平素冷静さを崩さない京平の動揺した声に、友香の意識が僅かに逸れる。
 その瞬間を狙い澄ましたかのように、一斉に触手が伸びた。
「……っ!」

 間に合わない。

 無駄を知りつつ身を伏せたのと、それは同時だった。
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