16.追跡者①

文字数 2,184文字

 亮介を引きずるように先を急ぎながら、男は焦っていた。表面上は平静を装いながら、足下だけは大股で歩き続ける。首筋に、チリチリとした感覚が走る。危機の予兆だ。
「マスター?」
 戸惑ったように亮介が自分を呼ぶ声は耳に届いてはいるが、答える余裕がない。少しでも――少しでも早く、安全な所に避難しなければ。
 ――安全な所?
 どこに行くべきか、迷いながら人の多い道を選んで進む。人混みの中ならば、相手も手出しはできないはずだ。
 さりげなく、周囲に目を配る。怪しい人物の姿は見当たらないが、油断は禁物だ。何よりうなじを走る電気のような感覚が、追っ手の存在を知らしめる。
 自宅か、それとも店か。
 嵯峨の元を逃げ出して以来、万が一に備えてその二箇所には防御のための術式を潜ませている。だから、どちらかに逃げ込むことができれば、あるいは逃げ切れるかもしれない。
 ――いや、自宅(うち)は駄目だ
 自宅にはユイがいる。医療長の気療を受けて大分回復はしたものの、亮介を連れて帰ればパニックを起こす可能性がある。もし混乱のままに逃げ出せば、彼女が危険になる。
 ――仕方ない
 亮介を置いて逃げれば、自分だけなら逃げ切れるだろう。だがそんなことをすれば、亮介が標的にされるのは火を見るよりも明らかだ。ならば、とマスターは頭の中で道順を思い描く。
 これ以上借りを作りたくはなかったんだがな、と声には出さずに溜息を吐く。だがこの際、やむを得まい。
 マスターはこのところ毎晩のように現れる開発長の顔を脳裏に思い描いた。追い返しても、戸を閉めていても勝手に入ってくるあの男が今日も店に来ているかどうかは賭けだ。だがこのところの傾向からいえば、そろそろやって来ている頃だろう。
 ならば、人の多い安全な道を通り、追手から距離を取りつつ店に逃げ込むのがベストだ。もう幾度か角を曲がり、人混みの中で進む方向を変える。店のある路地がだんだんと近づいてくる。うなじをチリチリと這う危機感が僅かに薄れているのを確かめ、マスターは囁いた。
「――そこを曲がったらうちの店だ。合図したら一気に走って店に入れ」
 まさか本当に追われているのかと、驚いて見上げた亮介に目線だけで頷き、マスターは一層潜めた声でいくつかの指示を囁いた。
「3、2、1……行け!」
 軽く背中を押され、亮介は慌てて走り出す。角を曲がると、再びこの路地にやって来た感慨など抱く余裕もなく、転げるように店へと続く階段を降りていく。
 カンカンと、足音が後ろから追ってくる様な気がする。あれはマスターの足音だろうか、それとも気のせいか。
「――っ」
 扉を思い切り引き開ける。鍵は掛かっていなかったらしく、思いのほかあっけなく扉が開き、亮介は転げるように屋内へと飛び込んだ。

「――うわ、なにびっくりした」
「え、あ、あ、その」
 正面のソファに寝そべっていた人物が半身を起こし、目を丸くして亮介を眺める。その視線を受けて、亮介は何か弁明しなければと、あたふたと両手を動かした。これではまるで自分の方が不審者だ。
「ハヤチならいないけど」
 胡乱げに亮介を眺めて言ったのは、やたら顔立ちの整った外国人だった。巻き毛というのだろうか、軽い癖のある金髪に彫刻のような顔立ち。以前、美術の教科書で見たダビデ像を人間にして、少し細身にしたらこんな感じだろうかと、何となく思う。
「はやち?」
 何のことだろうか、と首を傾げかけ――そこでようやく、マスターからの指示を思い出す。

 ――店に誰もいなけりゃ、鍵閉めて奥に隠れてろ。いたら――

「え、えっと、ケッカイ? 一番強いヤツって、あの、マスターが」
 しどろもどろになりながら、亮介は言った。多分、正しく言えたはずだ――と、思う。
 亮介の言葉に、ダビデ像のような男はゆっくりと眉をひそめる。それから、おもむろに片手を挙げると、パチンと指を鳴らした。
「――」
 その途端、部屋の空気が――いや、位相の全てが変わったと亮介は感じた。内装も明るさも何一つ変わらないのに、それまでとは違う。説明はできないが、それだけは断言できる。
「で? ナンなのイキナリ。あと、あんたダレ」
 改めて聞くと、発音が若干たどたどしい。
「えっと、俺はその……」
 なんと説明したものかと亮介は無意味に両手を上下させる。そもそも自分も状況を理解出来ていないのに、説明もなにもあったものではない。
 だが、ギリシャ彫刻のような男は、亮介の答えを待つまでもなく何かを了解したらしく、頷く。
Oh, sei uno(ああ、あれか。店の前で) di quei "ragazzacci” che si riunivan(たむろしてたっていう)o davanti al negozio(「悪ガキ」のひとりか).」
「?」
 おそらくヨーロッパ系の言語だろうということ以外は全くわからない。
 聞き返そうとしたその時、外からガアンッというすさまじい音が聞こえ、亮介は反射的に身を竦ませた。金属質の残響が耳に残る。響き方からいって、店に続く階段の上――以前、亮介達が毎晩たむろしていた辺りだろうか。
「……」
 マスターはどうしたのだろうか。不安が兆す亮介の傍らで、不意にギリシャ彫刻男が動いた。
「ちょっと見てくる。あんたはここから動くな。絶対」
「え、ちょっと」
「僕は大丈夫、天才だから」
 もう一度パチンと指を鳴らしながらそう言い残し、男は素早く扉を開けて外の暗闇に身を滑り込ませた。
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