第11章 揺らぎ
文字数 3,028文字
ベッドから半身を起こした姿勢で、少女は窓の外を見つめていた。
風が梢を揺らしている。
窓の外には水楢の大木が枝を伸ばしていて、カーテンを開けていても直射日光が当たらない。精界人であるリンがこの精界の陽光で肌を灼かれることはないが、明るい光そのものがあまり得意ではない彼女にはありがたい。
「――食事、済んだ?」
コンコンと扉をノックして、入ってきたのは件の優男――ハリー・オコーネルだ。
サイドテーブルの上に手つかずのまま残されたトレイを見遣り、彼はふう、と溜息を吐いた。
「……食べてないね。食欲がない?」
「…………」
応えないどころか視線すら合わさないリンの態度に、ハリーは小さく息を漏らすと、ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「少しでいいから、食べよう?」
ハリーの言葉に、リンは食事の乗ったトレイに無気力な視線を向けた。
ほんのりと焼き色が付いた白パンに、野菜のスープ。
柔らかく煮込んだ肉、甘い香りを放つ果物。
捕虜の身には豪華すぎる食事だ。おそらく先日の女医の指示によるものなのだろう。
香ばしく漂う匂いは、本来なら嗅覚を通じて空腹に訴える筈なのに、一向に食欲が湧いてこない。
朝から何も食べていないというのに、何かを食べたいという欲求を感じる気力すらない。
この数日、ずっとこうだ。
ここに来た日にはまだ、捕虜となったことに対する悔しさや「光の者」たちへの反発など、感情の動く余地があった。
だが今は。
今は何をする気にもなれない。
わが身の行く末すら、どうでもいい。
「――……いらない」
ぽつりと漏れた小さな声に、ハリーはそっと溜息を押し殺した。
数日前とはうってかわって、今の少女は大人しい。無気力と言ってもいいほどだ。
――心の傷は、痛み出すまでに少し時間がかかりますから
気をつけて様子を見て欲しいと告げた、医療長マリアム・ナゼルの言葉が蘇る。彼女の言うとおり、ようやく心が傷を認識し始めたのだろうか。
彼女がここに来て、3日が過ぎた。
慳貪であっても、まだ反応があったあの日とは違い、今はその反応すらも心許ない。無気力な目の色は、行く先を見失って途方に暮れているようにも見える。
あまりにも――あまりにも虚ろで、命をつなぐことすら諦めているようで、もどかしい。
「そっか。何だったら食べられそう?」
「…………何もいらない」
優しく尋ねるハリーに、視線を合わせぬまま、小さく答える。
「食べないと、体力も戻らないよ」
ベッドの脇から覗き込むように声を掛ける彼から、リンは顔を背けた。
「リンちゃん?」
「…………うるさい。気安く呼ぶな」
反抗的な台詞にも、この間のような棘はない。ただ、言葉遣いが乱暴なだけだ。
あの日、彼女が再び目覚めた時から、ハリーはずっとリンの傍についている。時折他の仕事で席を外すことはあるが、数時間すると戻ってきては彼女に話しかける。どんなに邪険にしても、紳士的な物腰を崩さない彼の干渉が、反応の鈍った彼女の感情を微かに波立たせていた。
「尋問するなら、さっさとすればいい」
投げやりなリンの態度に、彼は微苦笑を浮かべた。
「君の体力がある程度回復するまでは、無理はさせないことになってる」
「……捕虜にまで気を使うとは、お優しいことだ」
「女の子には優しくしないとね」
そう言うと、ハリーはスプーンを手に取り、スープをひと掬いする。
「というわけで、はいどうぞ」
にこやかに差し出されたスプーンをリンは無言で見つめた。
「………………」
冷たい沈黙が横たわる。
「あーうん、だめだよねやっぱり」
軽い冗談のつもりだったんだけど、とハリーは一層苦笑を深めてスプーンを戻した。少しでも空気を軽くできないかと思ったが、むしろいたたまれなくなっただけだった。
「――君は捕虜ではないよ。少なくとも今はまだ」
その言葉に嘘はない。本来なら捕虜として扱われるべきなのだろうが、敢えて参考人として待遇しているのは、収容されたときの彼女の状態があまりに悲惨だったからだ。
全てを搾り取られた傷だらけの少女。その姿はあまりにも痛々しく――支えてやらなければという使命感を呼び起こさせた。
リンにとっては迷惑な話かもしれない。けれど、自分たちには――6年前のあの事件を経た自分たちになら、彼女を支えることができるのではないだろうか。驕りかもしれないけれど、そう思ったのは事実だ。
だが現実は、そううまくはいかなかった。
時間が経つにつれ、リンは憔悴していくように見える。食事もほとんどとらず、日に日に、目の下のクマが濃くなっていく。
もどかしい――気持ち。
目に見えてやつれていく彼女に、食事をとらせることすらできない自分のふがいなさが胸に突き刺さる。
「ねえ、リンちゃん」
呼びかけた声に、答えはない。だが、ほんの一瞬、視線がこちらを向いたことを確認する。
「友香ちゃん、呼ぼうか?」
友香なら――同じような傷を抱える、同性の彼女なら、リンの傷みに触れることができるのではないか。彼女の生きる気力を、少しでも呼び覚ますことができるのではないだろうか。
「……いらない」
「じゃあ、どうしたら――食べてくれる?」
「食べなくたって……、お前たちにはどうでもいいだろう」
「良くないよ。君が目の前で衰弱していくのをただ見ているなんてできない」
「……」
「君には、元気になってほしいと――少なくとも、僕は思ってる」
「嘘だ」
小さく、しかしはっきりとリンは言った。言い捨てた。その言葉に、ハリーがわずかに眉尻を下げる。
「どうして嘘だと思うの?」
「……お前たちは、光の者は、私たちが死ぬことを望んでいるはずだ」
そう、主が言った。そう――教えられてきた。だから。
それが事実でなかったならば――リンが主の命に従ってしてきたことは、いったい何だったのか。
その前提が――、これまで自分を支えてきたものが崩れてしまうことが――怖い。
「……もしそうなら、とっくの昔に、この世界は血みどろになってると思わない?」
「え――」
「だってそうでしょ? そっち側の状況は正直よく知らないけど、少なくともこっちには「ランブル」っていう戦力《軍備》があるんだよ」
「……」
簡潔なその一言に、リンは虚を突かれたように顔を上げた。
あの夜、ほんの一瞬で中山友香に制圧されたことを思い出す。自分のような者を矢面に立たせなくてはならない自分たちの陣営に比べ、組織化された「ランブル」には鍛え抜かれた人材がひしめいているのだろう。だから――彼らが本気になれば、自分たちなどひとたまりも……
「――」
ぽろりと、不意に涙がこぼれた。
「え」
「――――――っ」
ぽろぽろと、堰を切ったように涙があふれる。
「え、ちょ……、リンちゃん!?」
ハリーが狼狽えているが、一度あふれた涙はとどまることなく流れ続ける。
「認め……、ない」
「リンちゃん?」
「認めない……。そんなの……、そんなの…………っ」
認めてしまったら。
これまでずっと信じてきたことに、根拠などなかったと認めてしまったら。
そうしたら――自分の世界は壊れてしまう。だから。
「認めない……みとめ、ない……」
ぽろぽろと涙を流しながら、リンは壊れたように同じ言葉を繰り返す。
「――――――」
その傍らにそっと腰を下ろすと、ハリーはその背に手を伸ばす。
「……」
自分よりずっと年下の少女の小さな背中。ほんの一瞬、触れる直前で躊躇ってから――そっと背を撫でた。
風が梢を揺らしている。
窓の外には水楢の大木が枝を伸ばしていて、カーテンを開けていても直射日光が当たらない。精界人であるリンがこの精界の陽光で肌を灼かれることはないが、明るい光そのものがあまり得意ではない彼女にはありがたい。
「――食事、済んだ?」
コンコンと扉をノックして、入ってきたのは件の優男――ハリー・オコーネルだ。
サイドテーブルの上に手つかずのまま残されたトレイを見遣り、彼はふう、と溜息を吐いた。
「……食べてないね。食欲がない?」
「…………」
応えないどころか視線すら合わさないリンの態度に、ハリーは小さく息を漏らすと、ベッド脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「少しでいいから、食べよう?」
ハリーの言葉に、リンは食事の乗ったトレイに無気力な視線を向けた。
ほんのりと焼き色が付いた白パンに、野菜のスープ。
柔らかく煮込んだ肉、甘い香りを放つ果物。
捕虜の身には豪華すぎる食事だ。おそらく先日の女医の指示によるものなのだろう。
香ばしく漂う匂いは、本来なら嗅覚を通じて空腹に訴える筈なのに、一向に食欲が湧いてこない。
朝から何も食べていないというのに、何かを食べたいという欲求を感じる気力すらない。
この数日、ずっとこうだ。
ここに来た日にはまだ、捕虜となったことに対する悔しさや「光の者」たちへの反発など、感情の動く余地があった。
だが今は。
今は何をする気にもなれない。
わが身の行く末すら、どうでもいい。
「――……いらない」
ぽつりと漏れた小さな声に、ハリーはそっと溜息を押し殺した。
数日前とはうってかわって、今の少女は大人しい。無気力と言ってもいいほどだ。
――心の傷は、痛み出すまでに少し時間がかかりますから
気をつけて様子を見て欲しいと告げた、医療長マリアム・ナゼルの言葉が蘇る。彼女の言うとおり、ようやく心が傷を認識し始めたのだろうか。
彼女がここに来て、3日が過ぎた。
慳貪であっても、まだ反応があったあの日とは違い、今はその反応すらも心許ない。無気力な目の色は、行く先を見失って途方に暮れているようにも見える。
あまりにも――あまりにも虚ろで、命をつなぐことすら諦めているようで、もどかしい。
「そっか。何だったら食べられそう?」
「…………何もいらない」
優しく尋ねるハリーに、視線を合わせぬまま、小さく答える。
「食べないと、体力も戻らないよ」
ベッドの脇から覗き込むように声を掛ける彼から、リンは顔を背けた。
「リンちゃん?」
「…………うるさい。気安く呼ぶな」
反抗的な台詞にも、この間のような棘はない。ただ、言葉遣いが乱暴なだけだ。
あの日、彼女が再び目覚めた時から、ハリーはずっとリンの傍についている。時折他の仕事で席を外すことはあるが、数時間すると戻ってきては彼女に話しかける。どんなに邪険にしても、紳士的な物腰を崩さない彼の干渉が、反応の鈍った彼女の感情を微かに波立たせていた。
「尋問するなら、さっさとすればいい」
投げやりなリンの態度に、彼は微苦笑を浮かべた。
「君の体力がある程度回復するまでは、無理はさせないことになってる」
「……捕虜にまで気を使うとは、お優しいことだ」
「女の子には優しくしないとね」
そう言うと、ハリーはスプーンを手に取り、スープをひと掬いする。
「というわけで、はいどうぞ」
にこやかに差し出されたスプーンをリンは無言で見つめた。
「………………」
冷たい沈黙が横たわる。
「あーうん、だめだよねやっぱり」
軽い冗談のつもりだったんだけど、とハリーは一層苦笑を深めてスプーンを戻した。少しでも空気を軽くできないかと思ったが、むしろいたたまれなくなっただけだった。
「――君は捕虜ではないよ。少なくとも今はまだ」
その言葉に嘘はない。本来なら捕虜として扱われるべきなのだろうが、敢えて参考人として待遇しているのは、収容されたときの彼女の状態があまりに悲惨だったからだ。
全てを搾り取られた傷だらけの少女。その姿はあまりにも痛々しく――支えてやらなければという使命感を呼び起こさせた。
リンにとっては迷惑な話かもしれない。けれど、自分たちには――6年前のあの事件を経た自分たちになら、彼女を支えることができるのではないだろうか。驕りかもしれないけれど、そう思ったのは事実だ。
だが現実は、そううまくはいかなかった。
時間が経つにつれ、リンは憔悴していくように見える。食事もほとんどとらず、日に日に、目の下のクマが濃くなっていく。
もどかしい――気持ち。
目に見えてやつれていく彼女に、食事をとらせることすらできない自分のふがいなさが胸に突き刺さる。
「ねえ、リンちゃん」
呼びかけた声に、答えはない。だが、ほんの一瞬、視線がこちらを向いたことを確認する。
「友香ちゃん、呼ぼうか?」
友香なら――同じような傷を抱える、同性の彼女なら、リンの傷みに触れることができるのではないか。彼女の生きる気力を、少しでも呼び覚ますことができるのではないだろうか。
「……いらない」
「じゃあ、どうしたら――食べてくれる?」
「食べなくたって……、お前たちにはどうでもいいだろう」
「良くないよ。君が目の前で衰弱していくのをただ見ているなんてできない」
「……」
「君には、元気になってほしいと――少なくとも、僕は思ってる」
「嘘だ」
小さく、しかしはっきりとリンは言った。言い捨てた。その言葉に、ハリーがわずかに眉尻を下げる。
「どうして嘘だと思うの?」
「……お前たちは、光の者は、私たちが死ぬことを望んでいるはずだ」
そう、主が言った。そう――教えられてきた。だから。
それが事実でなかったならば――リンが主の命に従ってしてきたことは、いったい何だったのか。
その前提が――、これまで自分を支えてきたものが崩れてしまうことが――怖い。
「……もしそうなら、とっくの昔に、この世界は血みどろになってると思わない?」
「え――」
「だってそうでしょ? そっち側の状況は正直よく知らないけど、少なくともこっちには「ランブル」っていう戦力《軍備》があるんだよ」
「……」
簡潔なその一言に、リンは虚を突かれたように顔を上げた。
あの夜、ほんの一瞬で中山友香に制圧されたことを思い出す。自分のような者を矢面に立たせなくてはならない自分たちの陣営に比べ、組織化された「ランブル」には鍛え抜かれた人材がひしめいているのだろう。だから――彼らが本気になれば、自分たちなどひとたまりも……
「――」
ぽろりと、不意に涙がこぼれた。
「え」
「――――――っ」
ぽろぽろと、堰を切ったように涙があふれる。
「え、ちょ……、リンちゃん!?」
ハリーが狼狽えているが、一度あふれた涙はとどまることなく流れ続ける。
「認め……、ない」
「リンちゃん?」
「認めない……。そんなの……、そんなの…………っ」
認めてしまったら。
これまでずっと信じてきたことに、根拠などなかったと認めてしまったら。
そうしたら――自分の世界は壊れてしまう。だから。
「認めない……みとめ、ない……」
ぽろぽろと涙を流しながら、リンは壊れたように同じ言葉を繰り返す。
「――――――」
その傍らにそっと腰を下ろすと、ハリーはその背に手を伸ばす。
「……」
自分よりずっと年下の少女の小さな背中。ほんの一瞬、触れる直前で躊躇ってから――そっと背を撫でた。