4.ゴーレム
文字数 3,214文字
ごくりと唾を飲み、睦月は人々の進行方向とは逆の方角を振り返った。
気のせいか、その方角が暗く感じられる。
ザワザワと産毛が逆立つような感覚は、この数ヶ月で睦月が覚えた危機の予兆だ。
近づかない方がいい。誰かにこの状況を知らせ、自分は避難した方がいい。
そう理解しているにもかかわらず、何かに導かれるように、睦月は人々の流れとは逆方向に歩き出す。
辿り着いたのは、細い裏路地だった。
奥行きも十数メートル程しかなく、面した建物はすべて裏口という寂れ具合だ。
その、表通りと比べて妙に裏寂れた薄暗い路地に、それはいた。
「――!?」
真っ黒い人型の何か――それが、一目見た瞬間の偽らざる感想だった。
体長は二メートルほどだろうか。漆黒の闇を固めて人型にしたような何かが――そこにいた。
咄嗟に防御の構えをとったのは、ひとえに特訓の賜物だろう。胸の辺り――「命の灯」の存在を最も感じられる辺りに意識を集中し、いつでも逃げられるように腰を落とす。
その気配を感じたのだろうか。こちらに横顔――そう表現するのが適切だとすれば――を向けていた「それ」が、睦月の方を振り向いた。
「うわぁ……」
――やばい
勘が、尋常でない勢いで警鐘を鳴らす。
どう考えても、言葉や正攻法の戦いが通じる相手ではない。一刻も早く逃げ出した方がいい。
じり、とわずかに踵を後退させる。相手との間合いを計りゆっくりと後ずさりながら、睦月は「命の灯」を起動させようと意識を集中させる。
だが。
「――――――――!」
音とも思えない咆哮とともに、「それ」が動き出した。あたかも、逃がさないというように。
――やられる!
焦りが集中を破り、うまく「命の灯」を作動させることができない。
思いの外俊敏なその動きに、逃げられないと睦月が諦めかけたその瞬間。
「――グヲ…………ガ…………」
「それ」の咆哮が突如途切れた。
ほぼ同時に、睦月の胸の中心で「命の灯」が淡く光り始めた。白い光が睦月を包み、彼を精界に転送するために時空の隙間を引き開ける。
「え、何……?」
呟く睦月の目の前で、唐突に「それ」が崩れ始めた。まるで砂でできたゴーレムが崩れていくかのように、サラサラと分解されていく。
「――この坊やはだめだ。今は、まだ」
不意に、低い声が睦月の耳に届いた。追うように見上げた視線の先、雑居ビルの三階あたりの非常口に男が立っている。
「あ……」
夜にも関わらず、薄いサングラスを掛けた男がそこにいた。掲げた片手の先に、小さなゲートが開いている。砂状の闇と化した「それ」は、吸い込まれるようにその向こうへと流れていく。
誰何するまでもなく、ピンときた。
アレクが最も危惧していた人物――確か、「シズキ」といった――だ。
――その男に会ったら、とにかく逃げろ
アレクの言葉が脳裏を過ぎる。その間にも、精界につながる時空の隙間が開ききる。
「また、会おう――バルド」
ゲートが閉じる寸前、男がそう言うのを、睦月は聞いた。
*
「――紫月に会った、だと!?」
睦月の言葉に、アレクが彼にしては珍しく大声を上げた。
「アレク、声が大きいですよ」
「……おまえは何でまた、そんな危ないとこに」
ゲートを通って精界に逃げ込んだ睦月から、一連の出来事を聞かされたアレクは、溜息とともに額に手を当てる。
「やばいと思ったら逃げろって言ったよな。何で連絡もせずにのこのこ近づいてんだ」
「だって、連絡する余裕なかったんだもん」
「だから、近づく前に連絡しろって言ってるんだよ。で、おまえ自身は避難」
「――まあまあ、アレク。おかげで貴重な情報が入ってきたわけだし」
放っておくとそのまま説教を続けそうな弟をアレンがやんわりと止める。
「ですよね」
「いや、だからって君の行動が危ないことには変わりないよ」
アレンの尻馬に乗ろうとした睦月を、アレン自身が諫める。
「まあでも、今回は下手に通報しなくて正解かもしれませんよ」
苦笑混じりに、佳架が口を挟む。
「睦月関連は、先に友香さんに連絡が行くようになってるでしょう?」
「…………あー」
秘書官の指摘を受けて、アレクは本格的に頭を抱えた。
件の人物は、その名の音から、公安部長官である中山友香の14年前に失踪した異父兄の可能性があると目されている。
そのせいで友香はもちろん、アレクを始め司令部の面々にとって、現在この案件は非常にナイーブな扱いを要する問題となっている。
「ほら、連絡しなくて正解」
睦月がここぞとばかりに胸を張って親指を立ててみせた。典型的ないわゆる「ドヤ顔」である。
紫月という人物については、睦月も何となく事情を聞かされている。その問題について、殊の外アレクが神経質になっていることにも気づいてはいたが、やはりと声には出さず思う。
「おまえが威張るな。……ったく、今回は結果オーライだったけどな。次からは絶対に連絡しろよ」
いかにも不承不承と言った風情で、アレクは睦月に指を突きつける。
だがそこで敢えて、睦月は首を傾げてみせた。
「誰に?」
「…………」
睦月の問いに、アレクが苦虫をかみつぶしたような顔をした。
絶対にわざとだ。一見すると無邪気にも見えるが、その実、紫月の件に友香を関わらせたくないというアレクの思いに気づいた上で、敢えてそこを突っついて揶揄おうとしているのだろう。
ひたすら受動的だった初対面の頃を思えば、睦月自身の物怖じをしない性質が表に出るようになったのは良いことだ。時々こうやって死角から踏み込んでくるのは困りものだが、それも持ち前の観察眼で退き時を見極めているのだから、たいしたものだと素直に思う。
が、それはそれとして。
「……緊急時に相手を選んでる余裕なんかないだろ」
溜息を吐いてアレクは答えた。
紫月の件にはできるだけ友香を関わらせたくないと思うのも、彼女が傷つくのを見たくないと思うのも、結局は自分のエゴだということは、アレク自身がよく分かっている。友香にはとうに覚悟ができていて、こんなふうに過保護に扱う必要すら、本当はないのだということも。
だがそんな答えは意外なものと映ったらしい。睦月は目を丸くして、今度は反対側に首を傾げる。
「あれ、意外に」
「まともな切り返しだったね」
「この人、変なところで真面目ですからね」
二人の側近――実の兄と幼馴染――もまた、睦月の軽口に乗ってきた。この場には身内しかいないという気安さによるものだろう。
「……あのなぁ」
憮然とした表情で漏らした溜息とともに一呼吸置いて、ほんのひととき和んだ空気を引き締めるように、アレクは咳払いをひとつして表情を改める。
「――話を戻すぞ。おまえが見たのは紫月に間違いないんだな?」
真剣な声に、睦月は記憶を辿る。
「多分。サングラスしてたし、僕のこと『バルド』って呼んだし」
「見た目はどんな感じだった? 顔立ちとか髪の色とか」
「暗かったし、サングラスかけてたから、そこまではわからない」
「……そうか」
ふう、と小さく息を吐き、アレクは眉を寄せた。
「いつか接触するだろうとは思ってたけれど、本人だとすれば予想以上に早い接触だね」
「話を聞く分には、今回は偶然みたいですけどね」
兄と佳架の言葉に、アレクは小さく肩を竦める。
「……本当にそうならいいけどな。だが――」
と思案顔で彼は続けた。
「今はそれよりも、その『ゴーレム』とやらが気になるな。情報部に調べさせるか」
「そうだね。睦月も、あまり無茶をしないように」
軽く睦月にそう言い、アレンはゆっくりと腰を上げた。
「それじゃ私はそろそろ戻ろうかな」
「あー、兄貴。今日のことは」
「わかってる。他言無用だろう? けど――あの子の耳に入れずに対応するのは無理だと思うよ」
「ああ。タイミングを見て俺から話す。とりあえず、もう少し色々とはっきりするまでは……頼む」
弟の言葉に苦笑混じりに頷いて、アレンは執務室を後にした。
気のせいか、その方角が暗く感じられる。
ザワザワと産毛が逆立つような感覚は、この数ヶ月で睦月が覚えた危機の予兆だ。
近づかない方がいい。誰かにこの状況を知らせ、自分は避難した方がいい。
そう理解しているにもかかわらず、何かに導かれるように、睦月は人々の流れとは逆方向に歩き出す。
辿り着いたのは、細い裏路地だった。
奥行きも十数メートル程しかなく、面した建物はすべて裏口という寂れ具合だ。
その、表通りと比べて妙に裏寂れた薄暗い路地に、それはいた。
「――!?」
真っ黒い人型の何か――それが、一目見た瞬間の偽らざる感想だった。
体長は二メートルほどだろうか。漆黒の闇を固めて人型にしたような何かが――そこにいた。
咄嗟に防御の構えをとったのは、ひとえに特訓の賜物だろう。胸の辺り――「命の灯」の存在を最も感じられる辺りに意識を集中し、いつでも逃げられるように腰を落とす。
その気配を感じたのだろうか。こちらに横顔――そう表現するのが適切だとすれば――を向けていた「それ」が、睦月の方を振り向いた。
「うわぁ……」
――やばい
勘が、尋常でない勢いで警鐘を鳴らす。
どう考えても、言葉や正攻法の戦いが通じる相手ではない。一刻も早く逃げ出した方がいい。
じり、とわずかに踵を後退させる。相手との間合いを計りゆっくりと後ずさりながら、睦月は「命の灯」を起動させようと意識を集中させる。
だが。
「――――――――!」
音とも思えない咆哮とともに、「それ」が動き出した。あたかも、逃がさないというように。
――やられる!
焦りが集中を破り、うまく「命の灯」を作動させることができない。
思いの外俊敏なその動きに、逃げられないと睦月が諦めかけたその瞬間。
「――グヲ…………ガ…………」
「それ」の咆哮が突如途切れた。
ほぼ同時に、睦月の胸の中心で「命の灯」が淡く光り始めた。白い光が睦月を包み、彼を精界に転送するために時空の隙間を引き開ける。
「え、何……?」
呟く睦月の目の前で、唐突に「それ」が崩れ始めた。まるで砂でできたゴーレムが崩れていくかのように、サラサラと分解されていく。
「――この坊やはだめだ。今は、まだ」
不意に、低い声が睦月の耳に届いた。追うように見上げた視線の先、雑居ビルの三階あたりの非常口に男が立っている。
「あ……」
夜にも関わらず、薄いサングラスを掛けた男がそこにいた。掲げた片手の先に、小さなゲートが開いている。砂状の闇と化した「それ」は、吸い込まれるようにその向こうへと流れていく。
誰何するまでもなく、ピンときた。
アレクが最も危惧していた人物――確か、「シズキ」といった――だ。
――その男に会ったら、とにかく逃げろ
アレクの言葉が脳裏を過ぎる。その間にも、精界につながる時空の隙間が開ききる。
「また、会おう――バルド」
ゲートが閉じる寸前、男がそう言うのを、睦月は聞いた。
*
「――紫月に会った、だと!?」
睦月の言葉に、アレクが彼にしては珍しく大声を上げた。
「アレク、声が大きいですよ」
「……おまえは何でまた、そんな危ないとこに」
ゲートを通って精界に逃げ込んだ睦月から、一連の出来事を聞かされたアレクは、溜息とともに額に手を当てる。
「やばいと思ったら逃げろって言ったよな。何で連絡もせずにのこのこ近づいてんだ」
「だって、連絡する余裕なかったんだもん」
「だから、近づく前に連絡しろって言ってるんだよ。で、おまえ自身は避難」
「――まあまあ、アレク。おかげで貴重な情報が入ってきたわけだし」
放っておくとそのまま説教を続けそうな弟をアレンがやんわりと止める。
「ですよね」
「いや、だからって君の行動が危ないことには変わりないよ」
アレンの尻馬に乗ろうとした睦月を、アレン自身が諫める。
「まあでも、今回は下手に通報しなくて正解かもしれませんよ」
苦笑混じりに、佳架が口を挟む。
「睦月関連は、先に友香さんに連絡が行くようになってるでしょう?」
「…………あー」
秘書官の指摘を受けて、アレクは本格的に頭を抱えた。
件の人物は、その名の音から、公安部長官である中山友香の14年前に失踪した異父兄の可能性があると目されている。
そのせいで友香はもちろん、アレクを始め司令部の面々にとって、現在この案件は非常にナイーブな扱いを要する問題となっている。
「ほら、連絡しなくて正解」
睦月がここぞとばかりに胸を張って親指を立ててみせた。典型的ないわゆる「ドヤ顔」である。
紫月という人物については、睦月も何となく事情を聞かされている。その問題について、殊の外アレクが神経質になっていることにも気づいてはいたが、やはりと声には出さず思う。
「おまえが威張るな。……ったく、今回は結果オーライだったけどな。次からは絶対に連絡しろよ」
いかにも不承不承と言った風情で、アレクは睦月に指を突きつける。
だがそこで敢えて、睦月は首を傾げてみせた。
「誰に?」
「…………」
睦月の問いに、アレクが苦虫をかみつぶしたような顔をした。
絶対にわざとだ。一見すると無邪気にも見えるが、その実、紫月の件に友香を関わらせたくないというアレクの思いに気づいた上で、敢えてそこを突っついて揶揄おうとしているのだろう。
ひたすら受動的だった初対面の頃を思えば、睦月自身の物怖じをしない性質が表に出るようになったのは良いことだ。時々こうやって死角から踏み込んでくるのは困りものだが、それも持ち前の観察眼で退き時を見極めているのだから、たいしたものだと素直に思う。
が、それはそれとして。
「……緊急時に相手を選んでる余裕なんかないだろ」
溜息を吐いてアレクは答えた。
紫月の件にはできるだけ友香を関わらせたくないと思うのも、彼女が傷つくのを見たくないと思うのも、結局は自分のエゴだということは、アレク自身がよく分かっている。友香にはとうに覚悟ができていて、こんなふうに過保護に扱う必要すら、本当はないのだということも。
だがそんな答えは意外なものと映ったらしい。睦月は目を丸くして、今度は反対側に首を傾げる。
「あれ、意外に」
「まともな切り返しだったね」
「この人、変なところで真面目ですからね」
二人の側近――実の兄と幼馴染――もまた、睦月の軽口に乗ってきた。この場には身内しかいないという気安さによるものだろう。
「……あのなぁ」
憮然とした表情で漏らした溜息とともに一呼吸置いて、ほんのひととき和んだ空気を引き締めるように、アレクは咳払いをひとつして表情を改める。
「――話を戻すぞ。おまえが見たのは紫月に間違いないんだな?」
真剣な声に、睦月は記憶を辿る。
「多分。サングラスしてたし、僕のこと『バルド』って呼んだし」
「見た目はどんな感じだった? 顔立ちとか髪の色とか」
「暗かったし、サングラスかけてたから、そこまではわからない」
「……そうか」
ふう、と小さく息を吐き、アレクは眉を寄せた。
「いつか接触するだろうとは思ってたけれど、本人だとすれば予想以上に早い接触だね」
「話を聞く分には、今回は偶然みたいですけどね」
兄と佳架の言葉に、アレクは小さく肩を竦める。
「……本当にそうならいいけどな。だが――」
と思案顔で彼は続けた。
「今はそれよりも、その『ゴーレム』とやらが気になるな。情報部に調べさせるか」
「そうだね。睦月も、あまり無茶をしないように」
軽く睦月にそう言い、アレンはゆっくりと腰を上げた。
「それじゃ私はそろそろ戻ろうかな」
「あー、兄貴。今日のことは」
「わかってる。他言無用だろう? けど――あの子の耳に入れずに対応するのは無理だと思うよ」
「ああ。タイミングを見て俺から話す。とりあえず、もう少し色々とはっきりするまでは……頼む」
弟の言葉に苦笑混じりに頷いて、アレンは執務室を後にした。