第6章 バルド

文字数 3,066文字

 深い森の奥に、ぽっかりと口を開けた洞窟がある。
「……」
 ようやくたどり着いた。
 見つけた、この場所を。
「セルノ……」
 ひっそりと、細く長い息を漏らすと、男はその奥へと足を進めた。
 昼でも薄暗い森の洞穴は、奥に行くほど光の恩恵から遠ざかる。時折岩の隙間から漏れる外の光と、発光茸のぼんやりとした光だけが道標だ。奥に向かうほどに、そのわずかな明かりすらも失われ、闇の帳が厚みを増していく。

 右へ、左へ。
 洞穴は、侵入者を拒みあざ笑うかの如く、幾度も分岐した。
 時には険しい勾配が、時には狭隘に迫る壁が行く手を阻む。
 そのたび男は、最も暗く、最も険しく、最も狭い通路を選び、そして進んだ。

 あたりが完全に闇に落ちてからどのくらい歩き続けただろう。不意に男が足を止めた。
 目には見えないが、どうやらそれ以上の侵入を阻む呪が編まれているようだ。その向こう側に、彼が探しつづけた男がいる。輪郭すら闇に溶け、その姿をはっきりと目に映すことはできなくとも、忘れようのない懐かしい気配が確かにそこにある。
「――やあ、誰かと思えば。久しぶりじゃあないか、わが友よ」
 やや掠れた声が、結界の向こうから彼に話しかけた。その、場にそぐわぬ――明るすぎる口調に異様なものを感じ、彼は言うべき言葉を失って黙り込んだ。
「……」
「元気そうでなによりだ、バルド」
「セルノ。君は……いや――」
 言いかけたバルドの言葉は、ためらいとともに闇の中に沈んでいく。

 兄弟同然に育った男が、いつしか静かに狂いはじめていたことに、彼は少しも気付かなかった。今思えば、その兆しはいくつもあった。

 何度、失われた宮で、彼の嘆きを慰め怒りを宥めただろうか。
 にもかかわらず、彼の目はそれを素通りし、耳はそれを塞いでいた。

 気づけなかったのではない。
 気づきたくなかったから気づかなかったのだ。

 彼はずっと叫んでいた。
 自分の嘆きを――怒りを受け止めろと。理解し受け入れ、そして共に乗り越えてほしいと。
 なのになぜ――、なぜあの時自分は彼をただ宥めるだけで、その本心を知ろうとしなかったのだろうか。

 誰よりも近しい、分身のような存在。
 その思わぬ嘆きと怒りに彼は戸惑い、怯み……、そして逃げたのだ。
 彼があの激烈な感情をぶつけることのできる存在は自分だけだったのに。
 拙くとも、彼に寄り添うことができていれば、今は違っていたかもしれない。それなのに。

 悔恨がバルドの胸を塞ぎ、語る言葉を失わせる。そんな旧友の様子を、闇の帳の向こうからセルノは眺めていた。
 すぐに立ち去ることもできた。彼に気配すら悟らせず、奥にこもっていても構わなかったはずだ。
 そうしなかったのは、懐旧の情か――それとも己が破壊し逃げ出したあの場所に今も縛り付けられている彼への哀れみゆえだろうか。

 そして。

 小さな衣擦れの音が、闇の奥の人物の動きを伝えた。カツ、コツ、と一歩一歩刻むような足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「セルノ! 待って、待ってくれ!」
 バルドは慌てて叫んだ。足音が止まり、押しつぶされそうな静寂が辺りを包む。
「――わからないよ、おまえには」
 ささやくような低い声が、静かに届く。
「光の申し子。皆に愛され、あたたかい光の下を生きてきた――バルド、おまえには、決して」
 完全な暗闇の帳の奥にその身を隠し、輪郭すら見せぬまま、静かな拒絶の言葉をセルノは告げた。

 それは、明確な訣別の言葉だった。
 自分は見捨てられたのだ。もはや自分の存在は彼にとっては何の意味もないものなのだと、そう明確に突き付けられたのだ。

 衣擦れの音に、足音に、バルドは耳を澄まし、目をこらして必死にセルノの姿を探す。だが目に映るのはただ濃密な闇の黒一色だ。暗闇の中、音は反響して方向感覚を狂わせる。

 彼を止めなければ。
 訣別にはまだ早い。まだ、和解の道はあるはずなのだ。
「セ――ルノ、セルノ……!」
 バルドは焦る気持ちに引きずられるように、かすれた声で男の名を呼んだ。
「セルノォォオッ!」
 叫んだ声は、複雑に入り組んだ洞窟の奥深くまで反響し――長い残響を残して、消えた。

 *

 バルコニーに出ると、思わずため息が漏れた。湯上りの身体に、外の空気はひんやりとして心地よい。
 眼下には城下町が見える。夕闇が迫り始めた城下町には、次第にほのかな明かりが灯り始めた。LEDのような目に眩しいそれとは違う、緩やかな光は蝋燭のものだろうか。昼間の森と思しき辺りは、既に薄暗くよく見えない。その向こうに見える薄明りは、最初にたどり着いたミシレの城砦だろうか。
 普段生活している街に比べると、格段に光の少ない夜景。見上げれば、まだ薄明るいというのに、星々の光が零れんばかりに煌き始めている。これほどまで星の明るい空を睦月は初めて見た。

「――」
 小さくため息をついて視線を落とす。

 あの後、事態は睦月の想像もしていなかった方向へと展開した。
 睦月の夢の話と、彼の身に起きている出来事を総合した結果、アレクたちは睦月が光の継承者の生まれ変わりだという結論に達したのだ。
「いや待って、生まれ変わりっていくら何でもそんな馬鹿な」
 突拍子もない結論に、睦月は思わず反論した。
「だがそう考えれば説明はつくだろう。現状、魂の状態のおまえの姿が、一瞬とはいえ明らかに別人になったんだ。それにその珠も、どう説明する?」
 そこを突かれると、睦月には返しようがない。自分の姿が変化したという自覚はないが、自分なのに自分ではないという、あの時の得も言わぬ感覚は今もまだ鮮烈に残っている。
「そうは言ってもさあ……」
 自分が誰かの生まれ変わりだと言われて、はいそうですかとすぐさま納得することなど、できるわけもない。

 睦月だって、生まれ変わりとか輪廻転生といった概念があることは知っている。
 人並みに漫画やライトノベルにも接してきたから、いわゆる「異世界転生もの」を読んだ経験だってある。だがそれと、自分の身に起きた出来事を受け入れるのは、まったく別次元の問題である。

 結局、睦月が落ち着くまで、一旦結論は棚上げということになり、とりあえずその場はお開きとなった。
 アレクも、アミローネが持ってきた書類の件でいくつか確認事項ができたようで、ひとまずそちらを済ませるまでの待機場所として、この部屋を与えられた。
 ちょっとしたマンションのような作りの部屋だ。
 入口の正面はリビング兼ダイニングといった趣のスペースで、小さめのダイニングテーブルと椅子が2脚しつらえられていた。広さは10畳程だろうか。睦月には正確なところはわからないが、自宅の自分の部屋が6畳だったはずだから、それよりも一回りは広いと感じる。脇には小規模なキッチンもついているし、奥には大きな窓があり、バルコニーと外の景色が見えるので解放感もある。
 さらにリビングの奥の扉の向こうには、ベッドルームもあった。こちらもリビングと同じくらいの広さの部屋に、ベッドと小さな書き物机がしつらえられている。こちらも窓際には大きな窓があり、リビングからバルコニーが続いているのがわかる。窓とは反対側、玄関の横手にあたる方向にも扉があり、こちらには浴槽を備えた浴室があった。
「……」
 ふと自分の身体を見下ろすと、睦月はパーカーの裾をつまんだ。森の中で散々逃げ回ったせいで、何となく全身が埃っぽいことを思い出したのだ。
 目の前には浴室。ありがたいことに、浴槽までついている。これを使わない手があろうかと、睦月は浴槽の蛇口をひねった。
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