17.地ならし②

文字数 2,136文字

「エイダ?」
「ああ。3、4年前に嵯峨の口利きで奉公に出されたらしい。知らないか?」
 アレクの問いに、男は唸った。
 定例会議を終え、正式に契約交渉に入る前の呼び水のつもりで投げた話題だった。噂話レベルの情報でも拾えれば御の字だが、期待はしていない。いくら嵯峨の下にいたとはいえ、この男とエイダという娘が知り合いだった可能性はおそらく低い。
「3年よりも前なら、ぎりぎり逃げる前かもしれんが……ったって、俺はひたすら『胤』関係の古文書解読させられてただけだからなぁ」
 顎を撫でながら視線を天井に向けてそう答え、男は首を捻った。彼にとっては敵陣とまではいわずとも居心地の良い状況ではないだろうに、飄々としたたたずまいを崩さない辺り、なかなか肝の据わった男だ。
「そもそも、あの嵯峨が奉公に出したって?」
「そう聞いてるが。何かおかしいか?」
「あの支配欲の強い女が、奉公先の手配なんざするもんか。使えると思った奴は何があろうと手元に縛り付けるが、いらない奴は容赦なく切り捨てるような女だぞ。もし奴が自ら手放したってんなら、そりゃぁ、厄介払いしたんだろうよ。とっくに始末されてるか、良くて何かの手駒に使われてるか」
 吐き捨てるようなその口調が、男の嵯峨に対する印象を物語る。それは、母子の命を人質に少女(リン)の忠誠を強制したという人物像と一致するように思われた。
「2年ほど前にはまだ生きていたという話だが」
「なら手駒に使われたんだろうが、たったそれだけの情報じゃあな」
 お手上げ、と言わんばかりに両手を肩口まで持ち上げるポーズで、男は嘆息する。
「2年前、最後に目撃された時には樹海付近にいたそうだ」
「樹海?」
「あいにく、それ以上の情報はないんだがな」
 やはりこの件については有益な情報を得られなそうだ。だが、アレクが話題を終わらせようとしたその時、男が低い声で唸った。
「……待てよ? 3、4年前っつったな?」
「おそらくその頃と聞いている」
「3、4年前……樹海…………、まさかあれか」
「心当たりがあるのか?」
 思わず身を乗り出したアレクに、男は頷く。
「俺があそこを出る直前だったから、ちょうど3年半ほど前の筈だ。あの頃、人身御供になった女がいたらしいと噂になってた」
「人身御供……?」
 穏やかではない言葉に、アレクの眉が険しく寄せられる。
「ああ。嵯峨が力を手に入れるために売り飛ばしたって話だ。一時、下女たちがひそひそ噂してた。嵯峨に目を付けられたら、次は自分だってな」
「……要は見せしめか。なら、行き先も知れているはずだな?」
 訊ねたアレクに、男――マスターは静かな眼差しを返した。その感情を映さない視線に、アレクは訝しげに眉を上げる。
 嫌な予感がムクムクと足下から湧き上がってくる感覚に、アレクは知らず、息を潜めた。
「……あんたでも、関知してないんだな。『

』殿」
 低いその声にも、何ら感情と呼べるものは載せられていない。だが、その思わせぶりな台詞の意味を正確に読み取って、アレクは瞠目した。
「なん――、まさか……!」
 全身にぞわりと悪寒が走る。思わず立ち上がったアレクを冷ややかに見つめ、男はゆっくりと頷いた。
「ああ、送られたのは樹海の向こう――『光の者』の屋敷だよ」

 *

「……なんてこと」
 アレクの言葉に、友香は小さく目を見開き、そう呟いた。
「誰かが嵯峨と通じてるのね。でも……誰が」
「――これを」
 そう言ってアレクが取り出したのは、地図だった。
 ガサリと音を立てて地図を広げる。友香たちが日頃利用している地図は、樹海の「こちら側」と「あちら側」で、その精密さが全く異なっている。地形から街の規模まで詳らかになっている「こちら側」に対して、闇の者の活動範囲はその大半が未知の領域だからだ。特に樹海に近づくほど、情報は少なくなっていく。だが、アレクが広げた地図には、手書きでいくつかの赤い丸が描かれていた。
「僕が確認した限りでは、リンちゃんがエイダと会ったのがこの辺りらしい」
 ハリーが手を伸ばし、指先で赤い丸のひとつを示す。地図の右端、樹海に近いところの内陸部、僅かに北寄りの地点にその印はあった。
「その『人身御供』がエイダだと仮定するぞ。リンと樹海の側で落ち合ったということは、『奉公』先も樹海付近にある可能性が高い」
「赤ちゃんを連れて移動できる距離の問題ね?」
 光の者と闇の者の生活域が接する境界地帯は、樹海とは反対側にもある。ミシレの巨大な湖岸を共有するその付近だけは、中立地帯として両者の往来に開かれている。だが、そこから樹海まではどんなに足の速い馬を使ってもひと月は掛かるだろう。生後間もない赤ん坊を連れた母親が、人目を忍びつつ一人で移動するのは無理がある。
「そうだ。湖側の境界付近は除外するとなると、樹海側。おそらく獣道か、森を切り開いたか。秘かに行き来できるポイントがあるんだろう」
「樹海を隔てて闇と接している地域は……三つよね」
 そう言って友香は地図に指先を伸ばした。何気なく地図を辿った指先が――ある一点でピクリと震える。
「ああ。北のシューデン、南のオラリス、そして――」
「ヴァーレン…………」
 知らず知らずのうちに漏れた、囁きよりもなお小さな声が、空気を震わせた。
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